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(He have discovered a new world.)

「好きです」

降って湧いて出て来たように現れた言葉を、私はそのまま口にしていた。何の脈絡もないその言葉に、案の定、彼は怪訝な顔をした。

「貴方のことが好きです、ダークさん」

足元の小石を拾って、木の幹に傷を付けた。いよいよ声の代わりにぼろぼろと別のものを零し始めた私の代わりに、私の叫びを覚えていてくれる何かがこの場には必要だった。
『好きです』となんとか刻むことに成功したその言葉、しかしその温度をきっと彼は理解しない。理解しようがない。

読めないと紡いだそれが、私の字の汚さや彼の視力の低さを指しているのではないことくらい、私にだって解る。
識字ができない。
彼が明かしたその情報が、疑問の霧を一気に取り払ってくれた。

人間離れした身体能力も、一日おきに徹夜を平気で行っていたのも、沈黙を苦手としていたのも、手渡したココアの缶を「甘いもの」だと理解しなかったのも、
私の「悲しいなあ」という呟きに「よく、解らない」とあまりにも淡々と返してきたその違和感も、全て、全て彼のたった一言によって呆気なく、残酷に紐解かれた。

「……ダークさん」

呟いた言葉が震える。
同情なんて慈悲深いものではなかった。驚愕とするにはあまりにも足りなかった。
彼と同じ地面に地を付けている筈なのに、遠く隔てられた心地がした。薄ら寒い恐怖に煽られて涙が出そうになった。ただ悔しかった。

雪がしんしんと降り続けていた。私はこの静かな空間に音を読むことができるけれど、彼はおそらく読めないのだろう。
私が愛した冬という時間、それは彼にとってどれ程静かで、どれ程寂しい季節なのだろう。
解らなかった。何もかもが解らなかった。ただ悲しかった。

それらを意味のあるものにしたくて、私は彼の手を取った。

「明日、10番道路に来てください」

良く晴れた冬の日だった。私はあらゆるものを詰め込んだ鞄を抱え直しながら、約束の場所に訪れた。
封鎖され、人の手が入らなくなったこの道路を見つけたのはつい最近のことだ。
ポケモン達をボールから出して気兼ねなく遊ばせてあげられるこの場所は、私の密かなお気に入りだった。

彼は先日アールナインで買った黒いコートに身を包んで、所在無さげに空を見上げていた。雲一つない晴天である筈の、青一色である筈の何処に視線を向けているのだろう。
そんなことを思案しながら、私は彼の元に駆け寄った。

「昨日はすまない」

開口一番、そんなことを彼は言う。彼のせいではない。おそらく私のせいでもない。誰も何も悪くなどなかったのだ。
それに、私と彼との世界が相容れなかったとして、その残酷な隔たりは今から埋められる。私は今から彼に対して、そうした残酷な思い上がりを行使する。

「いいんですよ。今から覚えてもらいますから」

眉をひそめる彼に、私は地面に落ちていた木の枝を掲げて笑った。

「私がダークさんに文字を教えます。今日は7つの単語を覚えて帰ってください」

尚も怪訝な顔をする彼の傍に腰を下ろし、地面に文字を書いていく。
先ずは「A」からだ。私は迷わず「air」と書いた。

彼は眉をひそめたまま、しかしこの場から立ち去ることはしなかった。
「貴方と同じ世界が見たい」という思いばかりが先行した、この「私の世界を押し付ける」という愚行を、彼は黙って許してくれた。
それでいて、彼の目は地面に掘った窪みが作る文字を必死に追いかけているように見えたから、私は安堵と歓喜のままに口を開いた。

「空気のことです。透明で見えないけど、目の前にあって、私達はこれを吸って生きています」

「……見えないものが「ある」のか?」

「そうですよ、文字って、見えないものを見せてくれるし、聞こえないものを聞こえるようにしてくれるんです。そういう、魔法の形をしているんです」

続いてBを書く。breadだ。私は鞄からパンの耳が入った袋を取り出し、彼に渡した。
ビレッジサンドのベーカリー屋さんに、本来なら廃棄される部分を譲ってもらったのだ。
美味しいパンの耳を飲み込んでから、再び木の枝を持つ。Cはcanだ。私は鞄からサイコソーダの缶を二本取り出して、一本を彼に渡す。

「……次も食べ物か?」

ダークさんの表情は疑惑から怪訝に、そして呆れに変わっていた。そんな彼に苦笑しながら、次は違いますよと返して「differ」と書く。

「違う、ってことです。私とダークさんは別の人間ですよね。違う人間です。これをdifferって言います」

次に「eat」と書いてパンの耳を袋から取り出し、サイコソーダの缶を開ける。
とうとう彼は溜め息を吐いた。

「……ただ食べたかっただけじゃないのか」

「酷い!」

パンの耳を咀嚼しながら反論すれば、彼は僅かに笑って黒いマスクを外した。現れたのは、予想に違わない、あまりにも白くて端正な顔だった。
色素の薄い唇が小さく弧を描いて開き、小さく折り畳んだパンの耳がその中に放り込まれた。
以前、ココアを飲んだ時にはマスクの下を僅かにずらす形でしか顔を見せてくれなかったから、実質、彼の顔を見たのは今回が初めてだった。
少し気恥ずかしく、けれどそれ以上に嬉しかった。
今度からダークさんを他の誰でもない貴方だと見分けようと思ったら、マスクを外してもらえばいいのだ。
そんな解決策を見出して一人で笑った。彼はそんな私を見て呆れたように微笑んだ。

ああ、彼はこんな風に笑っていたのだ。
一瞬にして胸を支配した歓喜を隠すように、私はパンの耳をくわえたまま「face」と書く。

「貴方が今日、見せてくれた部分のことです」

「……ああ、成る程」

「貴方の顔が見られてよかった。これできっと、私は貴方を貴方だって見ることができるから」

思いのままを告げることを、もう気恥ずかしいとは思わなかった。思ったところで、伝えたところで、私の想いと彼のそれは交わらない。
それは彼の想いのせいではなく、私達の間に大きく敷かれた隔たりのせいなのだと、だからこうしてその隔たりを埋めようと躍起になっているのだと、
そうしたみっともない自分を見せてもいいのだと、彼はきっと許してくれるだろうと、思えてしまったのだ。

そうして彼があの木の幹に刻んだ言葉の意味を理解できるようになったとして、その上で私が拒まれてしまったとして、それでもいいと思えた。
例え私の「好き」が実を結ばなかったとしても、彼に拒まれてしまったとしても、私はその過程を思って笑うことができるだろうと心得ていた。
私の思い上がった試みに付き合ってくれる彼のことを、私は感謝しこそすれ、それ以上に多くを求めるのは間違っているのだろう。だから多くは求めない。今だけでいい。
この時間が、少しでも長く続いてくれさえすれば、それでいい。

最後に「globe」と書き、地面を指差す。私達が暮らしている世界、丸い星の全てのことだと説明する。
さあ、今日はここまで。続きはまた次の機会にしよう。
何の単語を選ぶべきだろうかと考えながら立ち上がり、服の裾を払っていると、まだ屈んだままに私を見上げている彼と視線が交わった。

「……『differ』」

そうして彼が紡いだ言葉に首を捻る。
「どうしたんですか?」と尋ねれば、彼は少しだけ不安そうに視線を迷わせながら、しかしややあってその目をもう一度真っ直ぐに私の方へと向けてくれた。

「お前と私は違う」

「……はい、違う人間です」

「……それは、」

彼は黙り込んだ。不自然に途切れた会話と、彼が生み出した沈黙が交錯して異様な空気を作る。しかしそれでも私は、彼のその目を見続けている。
そして、それは紡がれる。

「それは「悲しい」ことなのか?」

ぱちんと何かが弾ける音を聞いた気がした。
それは私と彼とを隔てていた、大きな大きな壁が崩れる音だったのか、あるいは彼の世界が生まれた音だったのか。
解らなかった。けれど確かに音があった。音があったと思うことができた。
文字というのはそうした、聞こえない筈の音を聞こえるようにしてくれるものなのだと、心得ていたからだ。

「いいえ、それでいいんですよ。私と貴方は違っている。それは当たり前のことなんです。だから皆は言葉を使って、相手を少しでも理解しようとするんだと思います」

「……」

「私も、貴方ともっと話をしたい。貴方のことを、もっと知りたい」

それは偽り無い私の本心だった。


2012.12.6
2016.3.17(修正)
(彼は新たな世界を発見した。)

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