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(Maybe the human reality is not so beautiful.)

ヒオウギシティに雪が降っていた。
細くしんしんと降り積もり、アスファルトを白く染めては、しかしまだ町はそこまで冷え切っていないらしく、すぐに溶けて見えなくなってしまう。
冬は静かだ。音がない。僅かな命の音は、しかし強く冷たい風がなかったことにしてしまう。
耳のすぐ傍で容赦なく吹き荒れる風の音、自然の囁きを邪魔する激しい空気の流れを、けれど私は心地いいと感じていた。ずっと聞いていたいと、思ってしまった。

誰に会わずとも、風がすぐ傍で喋り続けてくれる。冬はそうした季節だ。私はそれなりにこの冷たい季節が好きだった。
もっとも、好きなのは冬に限ったことではないのだけれど。
赤やピンクの花が咲き乱れ、若葉が生い茂る春も、海の青と木々の濃い緑が目を癒す夏も、落ち葉のカサカサという音が耳をくすぐる秋も、嫌いになどなれないのだけれど。

さて、そんな、静かであるのか賑やかであるのか解りかねるこの不思議な季節、しかし確かな冬の訪れを感じさせるこの季節に、
私は秋が訪れた時と同じように、ヒオウギを出てイッシュを再び巡るつもりだった。
季節が移ろえば町や道路の装いも変わる。そうした何もかもを欲張りたくて私は何度でも旅に出る。
同じ場所でも季節が違えば、住み慣れたこの町でさえ新鮮な姿を見せてくれる。

けれど、そうした私のための時間よりも先に、向かわなければいけない場所があった。
降り出した初雪への喜びを噛み締めるよりもずっと大事な「儀式」が、セッカシティで私を待っていたのだ。

「行ってきます!」

母の「いってらっしゃい」という声を背中に受けて、ボールからクロバットを取り出し、冷たい空へと投げる。
セッカシティは今頃、雪が降り積もって厳しい寒さを呈しているのだろう。
コートが必要かしらとも思ったけれど、どうせポケモンバトルをしていたら寒さを感じる余裕などなくなってしまうだろう。
もし寒かったとして、私の感じる寒さなど、あの高台で私を待つ彼等のそれには、きっとどう足掻いても敵いようがないのだから。

誰よりも速く空を駆けるクロバットは、あっという間に私を北の町へと運んでくれた。
ボールに彼を戻すまでもないことを彼自身も解っているのか、私よりも先に東の方へと滑空した。
慌てて追いかけ、橋を渡り、顔を上げれば何処からともなく彼等がボールを構えて現れている。
今し方現れた筈なのに、その肌は随分前から此処に居たかのように青白く、命の色を感じさせない。まるで時が止まっているようだと思った。

「私達と戦え」

彼等の顔は私の方へと向いている筈なのに、私は彼等の誰とも視線を合わせることができない。
彼等の目と私のそれは交わらない。そうと解っていながらしかし私は真っ直ぐに彼等を見据える。少しだけ悲しい思いをしながら、クロバットに動きを命じる。
これが、新しい月の始まりだった。

二年前に起きたことを私は知らない。
ポケモンと人が危うく引き離されそうになっていたなんて知りもせず、ただ幼なじみの背中をずっと見て、追い掛けて、夢中になってイッシュを旅していた。

『ポケモンと一緒に旅に出たこと、後悔している?』
以前、アララギ博士にそう聞かれたことがある。
どうしてそんなことを聞くのだろうと疑問に思いながら、私は「まさか、幸せです」ときっぱり答えた。勿論、それは嘘偽りのない私の本心だった。
その時の博士の顔と、その顔のままに紡がれた言葉を、私は忘れることができずにいた。

『あの子にも、そんな風に答えられるような旅をさせたかった。』

「彼等」は皆、一様に悲しい。
アララギ博士も、チェレンさんやベルさんも、ヒュウも、トウコ先輩も、Nさんも、ゲーチスさんも。
二年前の事件に何らかの形で関わった人達は、時折胸を抉るような悲しい目をする。それがどうにも苦しくて堪らないのだ。見ていられなくなるのだ。

きっと私は軽々しく「幸せ」などと紡ぐべきではなかったのだろう。
二年前にトウコ先輩が守り抜いた世界でのうのうと生きてきた私が、その幸せを軽んじてはいけなかったのだ。
その言葉が意味するところの重さを、私は正しく理解しなければいけなかったのだ。彼等の悲しい目を、忘れてはいけなかったのだ。
その思いが、私を此処へ呼ぶ。忘れないようにと毎月、同じように彼等と戦う。彼等が私を待っていてくれるから、私はカレンダーを新しく捲る度にこの町へと飛ぶ。

そうして、必ず私は勝ってしまう。
彼等は「私を倒せばゲーチスさんの心を取り戻せる」と思っているらしく、何度でも私に戦いを挑んでくる。
けれどその言葉が真実なのか、それとも彼等の願望なのか、ただの祈りなのか、私には判断する術がない。彼等の心を紐解こうにも、私は彼等のことを何も知らない。
ただ、彼等のバトルを受けることしかできないのだ。
そうして手を抜くことができずに勝利を収めて、彼等があまりにも静かにポケモンをボールへと戻して姿を消すのを、ただ見送ることしかできないのだ。

そして今日も、それは変わらない筈だった。
三連戦で流石に疲れが見えるポケモン達を、労りの言葉と共にボールに戻して、そうして顔を上げればもう彼等はいなくなっている筈だったのだ。

「……?」

けれど、ふと存在する筈のない気配を拾って、私は顔を上げる。
初めからいなかったかのようにいつも忽然と姿を消す筈の三人のダークさん達、そのうちの一人が、真っ直ぐに私を見ていた。

……見ていた?
あり得ない筈のその現象を、しかし私の目ははっきりと捉えていた。
彼等と視線を交えることは決してないのだと思い込んでいただけに、その闇色の、悲しい色をした目が私から逸らされないことにただ驚き、息を飲んだ。

「……お前は何故、此処に来る」

時が止まった気がした。ただ驚き、絶句し、そして本当に彼は私の知るダークさんだろうか、と思ってしまった。
だって今までの彼はそんな風に、私に「何かを問う」などということをしたことがなかったのだ。
ただ、私を倒すために立ちはだかっていた筈の彼が、私の言葉を求めている。私の心を覗こうとしている。その事実にくらくらと眩暈がした。
何かが変わり始めているのだと理解しながら、しかしその変化の本質を見抜くにはまだ、この人との距離はあまりにも遠すぎた。
彼の視線と同様に真っ直ぐ突き刺さったその言葉を、私はゆっくりと咀嚼して、頷いた。

「私のせいて苦しんでいる人がいるのなら、せめて私にできることをしないといけないから。私は私を憎む貴方たちから絶対に目を逸らしてはいけないのだと、思うから」

私のしたことは正義でも何でもなかった。
プラズマ団員達は所属する場所を失い途方に暮れていた。私は長い時間をかけて、彼等の居場所を奪ったのが他でもない私であることを受け入れなければいけなかった。
「よければまた、ポケモン勝負をしてください」と笑ったアクロマさんの目も同様に悲しかった。「だって此処には仲間がいたんだ」と言った団員の目は絶望に揺れていた。
それらから目を逸らしてはいけない。私は私の世界を守ってくれた人のこと、私が切り捨ててしまった人のことを忘れてはいけない。
そう決意したのはつい最近のことであるのだけれど。「忘れるな」と訴えてきた貴方たちの姿がなければ、私は自責の念すら抱くことができなかったのかもしれないけれど。

私の選択は世界に受け入れられた。プラズマ団のそれは受け入れられなかった。
私はポケモンと一緒に居たいと願う人のそれを叶え、仲間と一緒に居たいと願った人のそれを切り捨てた。
こんなものはきっと正義ではなかった。だって本当に正義であるのなら、こんな風に悲しい目をする人が今も悲しいままで、同じ場所にいつまでも留まり続けている筈がないのだ。

だから私は此処に来る。私が切り捨ててしまった彼等に、償いをするために、……そして、感謝を示すために。

「ありがとう」

彼は目を見開く。

「世界がこんなに広いって、貴方達が教えてくれたから」

顔の大半を黒いマスクで隠した彼は、やはり何を考えているのか分からなかった。
それでもよかった。彼とぶつけ合うものがバトルではなく言葉になったという、ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかったからだ。今はそれだけでいい気がした。
私は貴方を憎んでいる訳でも恨んでいる訳でもないのだと、伝えることができてよかったと、心から思っていたのだ。
泣きそうに微笑む私を、彼は無言で許してくれているように思われた。気のせいだとして、きっと、それはそれでよかったのだろう。

しんしんと優しく降っていた雪は次第に激しさを増していく。この分ではあと一時間もすれば膝まで白に覆われてしまうだろう。
クロバット達の回復をしないといけない。踵を返した私の背中に、小さく声が投げられた。

「また来い」

弾かれたように振り向く。
それは「月が変わればまた相手をしてやる」という類のものではないとおぼろげに察しながらも、尋ねずにはいられなかった。

「来月ですか?」

「いや、明日だ」

今度こそ彼は姿を消した。雪に溶けるように見えなくなった彼の足跡をさく、と踏んでみる。
当然のことながら大人である彼の足跡は私のそれよりも遥かに大きくて、ああ、彼は先程までちゃんと此処にいたのだと、私と話をしてくれていたのだと、改めて思い知った。
彼が、私と目を合わせて話をしてくれた。その事実を噛み締めるように、靴を雪の中へと沈めた。刺すような冷たさがほんのりと心地よかった。

明日。そう呟けば、息が白く染まった。


2012.11.29
2016.3.17(修正)
(おそらく人間の現実とはそんなに美しいものではない。)

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