12:Everyone was blind.

◇◇

次の日の夜、私はパジャマに着替えることをしないまま、いつものようにベッドに腰掛けてピアノ曲のCDを聞いていた。
5曲目に差し掛かった頃に僅かな物音が聞こえ、暫くして「準備はできているか」と声が降ってきた。
「迎えに来る」と言ったアブソルのダークさんが来るのだろうと思っていただけに、鼓膜を震わせた、特徴のあるやや掠れた声に私は驚き、そして小さく笑った。

「こんばんは、アギルダーのダークさん」

「久しぶりだな。少し痩せたか?」

彼は私の頭をわしゃわしゃとかき混ぜるような乱暴さで撫でてから、しかし次の瞬間、その乱暴な手をなかったかのようにするかのような繊細さで私の左手を取る。
その対比にクスクスと笑いながら、私はその手を握り返して病室をそっと抜け出した。
ダークさんの誘導があるといっても、やはり私はあまりにもゆっくりとした速度でしか歩くことが叶わない。
ごめんなさい、と困ったように紡ぐ私に、彼は笑いながら「気にするな」と返してくれた。

「では、俺もあいつらの代わりに謝っておこうか。……すまなかった」

「……どういうことですか?」

「後は残りのダークに聞いてくれ。俺はただ黙認していただけだから、奴等の思惑を推し量ることはどうにもできそうにない」

私の知らないところで、彼等は一体、何をしていたというのだろう。そして、何故私に謝る必要があるというのだろう。
彼が私に差し出してくれる情報を、しかし私は意味のある形として解釈することができず、ただ首を捻って苦笑する他になかったのだ。

「ただ、何もお前に限ったことではなかったのだろう。盲目でない人間など、きっといなかったのだろう」

「……」

「曲がりなりにもゲーチス様に仕える身なのだから、奴等ももう少しあのお方の表情を見ていればよかったのだ。
……まあ、見ていたところで彼等がゲーチス様の心を読めたかどうか、定かではないが」

くつくつと喉を鳴らして、彼は至極楽しそうに笑ってみせた。
勿論、盲目である私が彼の「楽しそう」な表情を見ることなど叶わないけれど、それでも声音から陽気な色を拾い上げることはそう難しいことではなかった。

エレベータに乗り込み、身体がゆっくりと持ち上げられていく感覚をやり過ごし、再び彼は私の手を引いてゆっくりと廊下を歩く。
先程まで饒舌に話をしてくれていた筈の彼は、この階に上がってから一言も喋らなくなった。
おそらく、今の寡黙な彼は「ダークトリニティ」としての、そして「ゲーチスさんの配下」としてのダークさんなのだろうと、私も心得ていたから、何も言わなかった。
けれど立ち止まり、彼が手を離した瞬間、ともすれば聞き逃してしまいそうな程の小さな声音でそれは囁かれる。

「さあ、行ってこい。ゲーチス様はずっとお前を待っておられたのだ」

強く背中が押され、私はよろめきながら部屋の中に入った。
何も見えない今の状態では、体制を立て直すことも酷く難しく、床があると思しき場所に手を着いてから、ようやくまともに足で立つことができた。
きっとそのみっともない一部始終も、「彼」に見られているのだろう。けれど声が聞こえないから、彼が何処にいるのか解らない。
きょろきょろと、見える筈がないのに辺りを見渡しながら物音を拾おうと努めていると、明後日の方向から少しだけ懐かしいバリトンが聞こえてきた。

「無様ですね、シア

私は慌てて振り返り、肩を竦めて苦笑した。
きっと彼は私を見ていたのだろう。みっともなく体制を崩し、やっとのことでまともに立つことの叶った私の姿を、その隻眼で捉えていたのだろう。
だからこその吐き捨てるような苛立った声音がそこにあり、つまるところ、彼は私のこのような姿を見ても喜ぶどころか妙な苛立ちさえ見せているのだと、理解して、そして困惑した。

「このような子供にワタクシの野望が折られたのかと思うと情けなくなります」

おかしい、と思った。それは私が想定していた彼の反応とは真逆の様相を呈していたからだ。
首を傾げてただ沈黙する私に痺れを切らしたのか、「何が言いたい」と言葉を促す彼に、私は思ったままを正直に伝えた。

「貴方は、喜んでくれると思っていました、ゲーチスさん」

私のこのような「無様」な姿を見て、最も喜ぶ人がいるとすれば、それは他の誰でもない、この人であるのだろうと信じていた。
だからダークさん達は、カレンダーが新しい月を示す度に、セッカシティの高台で私にポケモンバトルを仕掛けてきたのだと思っていた。
あれは私の心を折るための挑戦なのだと、そう解釈していたから私も手を抜かずに本気で彼等と戦った。
私がこの病室に毎日のように足を運ぶことを許してくれていたのだって、いつか私に復讐するためのものだと思っていた。
私がこの人に許されることなど、二度とないのだろうと心得ていた。

『ゲーチスさんは、違うと思います。』
けれど、私がトウコ先輩にそう言って、彼の仕業ではないと否定の意を示したのは、他でもない彼の身体がまだ回復の兆しを見せていないことを知っていたからだ。
彼は万全の状態を整えるまで、私に挑んでくることはきっとないだろうと考えていた。私の心を確実に折るためには、少なくとも万全の状態でなければいけない筈であった。
だから、彼の仕業ではあり得ない筈だったのだ。そして事実、彼は私への関与を否定した。
しかし否定こそしたけれど、彼が私を憎んでいるというその事実は揺るぎなく、故に目の前の彼は、喜びに歪な笑みを湛えていなければいけない筈だった。

「悔いているのか、プラズマ団と戦ったことを」

けれど彼は笑わない。代わりに、苛立っている。私に軽侮でも嘲笑でもなく、憤りの感情を真っ直ぐに向けている。
そしてその苛立った声音のままに、こんなことさえも尋ねてみせるのだ。
「いいえ」と即座に答えながら、何かがおかしい、と考え始めていた。けれどそのおかしさを辿って彼の真実に辿り着くことなど、今の私にできる筈もなかったのだ。

「何度思い直しても、何度やり直しても、きっと私はアクロマさんに導かれるままにプラズマ団へと足を運んで、貴方と戦ったと思うんです。私が、そうしたかったんです。
でも、それだけでした。その後のことなんてあの時は何も考えていませんでした。皆が私を称えてくれたから、それでいいんだと思っていました。でも、違った」

それはかつて、「答えなどない問題の方が多い」と言って無力な私を許してくれた、アクロマさんへの告白に酷く似ている気がした。
私は、彼がそうした私の無力さを許してくれていると知っていたから、全てを打ち明けることができたのだと思っていた。
けれど、私の何もかもを許さないだろうと心得ていた筈の相手に対して、私はアクロマさんに打ち明けたことと同じことを紡いでいる。許しを請うように、懺悔をするように。
いけない、と思いながらも私の口は止まってはくれなかった。次から次へと溢れる言葉はしかし、紛れもない私の、誤魔化しようのない本当の思いだった。

「もっといろんなことを考えたかったんです。私のこと、プラズマ団のこと、アクロマさんやダークさん、貴方のことも。何をどうするのが一番いいことなのか、考えたかった。
でもそれは、欲張りなことだったのかもしれませんね。私には、重すぎることだったのかもしれませんね」

何もかもが解らなかった。
何故私は盲目とならなければいけなかったのか、私のみっともない姿を喜んで然るべきである筈の人がその声音に苛立ちを滲ませているのは何故なのか、
これが心因性のものだったとして、ではどうすれば私の目は見えるようになるのか、仮に第三者の力によるものだとして、私が再び見えるようになることをその人は許すのか。

真実を探すための目は何も映さず、犯人探しをするための思考を展開するための武器を私は持ちようがなかった。
疲れたから盲目になったのではなく、盲目が私を疲弊させていた。
非日常が少しずつ日常に溶けるに従って、私の気力は少しずつ殺がれていった。だから、鈍い思考はこのような結論を出すことしかできなかったのだ。

「私にはできないことだったから、欲張ることが許されなかったから、……だから、私の目は貴方を映さないんでしょう?」

「……シア、」

「悔しいけれど、きっと、そういうことなんでしょう?」

私を犯人だとすることで、私はようやく許されるような気がしたのだ。
けれどそうした倒錯的な結論を、その場にいた「彼」は許してくれなかった。

「そこまでにしておけ」

私の腕がぐいと掴まれる。その声は、先程私の背中を押してくれた人のものでも、昨日の夜に音もなく私の部屋に現れた人のものでもなかった。
部屋の外へと連れ出そうとするその強い力がひどく恐ろしいものに思えて、慌てて振り払おうとしたけれど、男性である彼の力に敵うことなど、できる筈がなかったのだろう。
止めてください、と叫ぼうとした私に、しかし彼は信じられないような言葉を告げた。

「お前の目は治る」

「……どうして、そんなこと、」

「必ず治る」

その言葉は、私が盲目となってから聞いてきたどんな声よりも力強く、強烈な響きをもって私の鼓膜を揺らした。
彼が治ると言ったのだから治るのだろうと、躊躇いなく信じてしまいそうになる。そうした不思議な力が彼の音には含まれているように思えてならなかった。
「ダーク」と鋭く彼を呼んだゲーチスさんに、彼は「もうよろしいでしょうか」と確認を取る。

「送ってやりなさい」

ゲーチスさんのそんな言葉に、彼は小さく頷いたのだろう。今度は私の腕ではなく手を取り、歩き出した。
何もかもが分からないままであるにもかかわらず、私の心は不自然な程に落ち着いていた。

真実の足音が、私のすぐ隣から聞こえてくる。


2016.2.25
(誰もが盲目だった)

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