11:Footsteps of truth

自分を殺しかけた男の下へ、彼女が自ら訪れていた。そしてその訪問を、彼も許していた。
その、信じられないような事態を彼女の口から聞いたことで、今回の彼女の病態は、彼のポケモンが引き起こしたものではあり得ないということは明白でした。
自らの野望を阻止した少女の来訪を許す程度には、きっと彼の中で、彼女への憎しみは随分と薄らぐに至っていたのでしょう。
けれど、彼女を大切に想うもう一人の少女には、その点への理解が及ばなかったようでした。

◇◇◇

ヒウンシティに構えられた、彼女が入院している大きな総合病院、その同じ屋根の下にあの男がいるという、その事実を認識しただけで気持ちが悪くなった。
自分の胸底でふつふつと煮えるどす黒いものを持て余しながら、シアから教えてもらった部屋番号へと、大きな歩幅でずかずかと向かった。
本当は脇目も振らず全速力で駆けたかったのだけれど、走れば近くの看護士や医師からお咎めを受けることが分かっていたから、
おそらく許されるであろう最大のスピードで私は病室の廊下を歩いた。
階段は勿論、二段飛ばしで駆け上がった。沸騰した頭で、エレベータの存在に思い至れる筈もなかった。

そして、それほどの勢いで歩いてきたにもかかわらず、私の手は彼の病室に続くドアに手を掛ける段階でピタリと止まった。
恐ろしかった。何度か大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き、落ち着こうと努めたけれど、ドアに添えた手の震えが止まることはなかった。

彼のことが恐ろしい訳では決してない。
確かに2年前、私を排除しようとバトルを挑んできた彼の迫力は、戦慄を呼び起こすに十分なものであったけれど、
私はあいつに殺されかけた訳ではないし、苦戦しながらも勝利を収めたのだから、今更、彼が私の脅威となることはあり得ない筈であった。

私が恐れているのは、私に対してだ。自分でも抑えの効かない程に膨れ上がった彼への憎悪が恐ろしいのだ。
私の、2年前よりもずっと高い温度で煮え滾るこの憤りが、暴発してとんでもないことをしでかしたりしないかと恐れている。その憤りを抑える術を知らない自分に困り果てている。
強すぎる想いは凄まじい怒りを引き起こす火種にもなるのだと、私はこの時、改めて知った。

その瞬間、何の前触れもなしにドアが開き、私をその男のいる空間へと迎え入れた。
ドアに手を添えていたのは、黒いマスクに黒い服を纏ったダークトリニティの一人だった。「久しぶりだな」と答える彼には返事をせず、私はその男を真っ直ぐに見据えた。

「……」

2年振りに見る彼は随分と痩せていた。長身のNよりも更に高い背丈であったように記憶していたけれど、2年前のあの頃よりも彼はずっと小さく見えた。
そんな覇気のない姿をしながら、しかしその隻眼はあまりにも鋭く私を見据えている。
強すぎる嫌悪感に目を背けたくなった。けれど代わりに、睨み返した。紡ぐべき言葉を探しながら、私は瞬きすら忘れて、ベッドに腰掛けた彼の姿をただ、見ていた。

あんたはNだけでなく、シアからも、その何もかもを奪おうというの。

構わない、と思った。
もしこの怒りが暴発して取り返しのつかないことをしたとして、私が傷付ける側に回ってしまったとして、そんなこと、もうどうだっていい。構わない。
私には憤る権利がある。私の大切な人を悉く脅かすこの存在に、制裁を加える必要がある。
だって私の周りにいる人は皆、優しすぎるのだ。だからこの男にも何もかもを奪われる。奪われても尚、笑っていられる。
私は、Nやシアのように優しくない。

シアを騙して、あの子からいろんなものを次々に奪って、楽しかった?」

ようやく紡いだその言葉は震えていた。みっともない声音と表情を晒していることは解っていたけれど、構わなかった。
赤い目が怪訝そうにすっと細められ、その眉間にしわが寄る。彼のその表情は、私を少しばかり狼狽えさせた。
てっきり得意気に笑い、2年前と変わらない皮肉めいた言い回しで私の苛立ちを煽るのだろうと思っていただけに、
まるで「心当たりがない」とでも言わんとするかのような表情に私は毒気を抜かれそうになった。

「何のことです」

「とぼけないで!あんたが嘘吐きなことは、2年前からずっと知っているんだから!」

ついに堪え切れず大声を発した。今回のシアに関することだけではない、こいつに対するあらゆる怒りが渦を巻いて、私の理性を飲み込もうとしていた。
けれど彼は大きく溜め息を吐いて、呆れたように目を伏せる。私の怒りは彼の喉元を素通りするだけだった。そのことがどうしようもない程に悔しく、同時に、悲しかった。

「お前では埒が明かない。あれを呼びなさい。連絡の一つも寄越さない、まるでこちらに飽きてしまったかのような訪問の途絶え方には、ほとほと業を煮やしていたのですよ」

「……本当に知らないの?あんたが、やったんじゃないの?」

「知らないと言ってもお前は信じないのでしょう。だからあれと直接話をします。連れてきなさい」

誰があんたの言うことなんか聞くものかと声を荒げようとしたけれど、後ろから伸びてきた手が私とゲーチスとの間に割って入り、私の喉まで出掛かった言葉を、押し込めた。
あの頃と殆ど変わっていないNの姿は、しかし痩せたゲーチスと同じ視界に収めると、随分と大きなものに感じられた。

トウコ、落ち着いて。ゲーチスは嘘を言っていないよ」

「……どうして、あんたにそんなことが分かるの」

苛立ちを隠さずにそう問えば、彼は驚いたように色素の薄い目をぱちりと見開き、ややあってから肩を震わせた。
その笑みがこの殺伐とした場に悉く似合わない朗らかなものだったから、私は勢いを殺がれたように立ち尽くす他になかったのだ。

「キミがシアのことをずっと見てきたように、ボクもあの城で、ゲーチスのことをずっと見てきたんだ。カレの嘘を見抜くことくらい、歪で不完全なボクにだってできる」

そして、彼の朗らかな笑顔に勢いを殺がれたのは私だけではなかったらしく、ゲーチスは再び大きな溜め息を吐くと、
枕元に置いてある本を手に取り、開き、そして二度と私達に視線を向けることはなかった。
誰も口を開かないまま数分が過ぎた頃、Nはそっと私の手を引いた。ドアを乱暴に閉める気力すらなかった。
私は来た時とは真逆の、あまりにもゆっくりとした足取りで廊下を歩いた。

シアは私達が彼女の個室に入る前から、その靴音が私達のものであることに気付いていたらしく、
私がドアを開けるや否や、こちらへと顔を向けて「違ったでしょう?」と紡いで困ったように笑ってみせた。
先程まで私の中に渦巻いていた全ての激情を忘れさせるような、静かに凪いだ海の目が、私の言葉を飲み込んだ。

◇◇

皆が帰ってしまった夜は、トウコ先輩から借りたCDを聴いて時間を潰した。
彼女の「お気に入り」だというそのピアノ曲は、波のように雨のように空気を震わせ、踊る。まるで言語のようなその旋律を追い掛けることが楽しくて微笑む。
耳が聞こえなくならなくて本当によかったと思う。この状態で音や声を拾う力さえもなくなってしまったら、私はどうやって生きればいいのか分からなくなってしまう。
私の傍にいてくれる人の存在を、私はどうやって知ればいいのか分からなくなってしまう。

そんなことを考えていると、そのピアノ曲が不自然に途切れ、聞こえなくなってしまった。
機械の故障だろうか、それともいよいよ聴覚にも異常が生じたのだろうか。後者の仮説を立ててしまった私の顔は、きっと青ざめていたのだろう。
絶望で気が狂いそうになる、という言葉の意味を、私はこの時初めて知るに至ったのだ。
けれど何か音を立てようと動き始めるより先に、突如として近くから降ってきた声が、私の心配が杞憂であったことを証明してくれた。

「随分と楽しそうだな」

「え?……あ、こんばんは、アブソルのダークさん」

茫然と名前を紡げば、「よく解ったな」と感心したように彼は呟く。どうやら旋律の中断は、彼がCDプレイヤーの停止ボタンを押したことによるものであったらしい。
「靴音を立てずに部屋に入ってくる人なんて、貴方たちをおいて他に思い付きませんから」と返せば、「何故他のダークだと思わなかった?」と更に尋ね返されてしまった。

「だって、声が違うじゃないですか」

「……そうか」

クスクスと笑い声を作りながら、しかし私はどうにも自分が上手く笑えていないことに気付いていた。
目の奥が熱い。一気に打ち寄せては引いていった恐怖と絶望、そして今を支配する強烈な安堵に嗚咽が込み上げたけれど、寸でのところで飲み込んだ。
どうした、と尋ねる彼に返した言葉が震えていたのは、けれど仕方のないことだったのだろう。

「聞こえなくなったのかと思って」

杞憂でよかった。聞こえなくならなくてよかった。私を支えてくれる人の靴音を、拾い上げるだけの力が失われなくて本当によかった。

私の身体に起こっていることが、私自身の心因性のものにせよ、第三者の力によるものであるにせよ、私にはこの現状を打開する術がない。
だから、受け入れるしかない。それでも生きていられるから幸いだと笑っているしかない。
けれどもし聞こえなくなってしまったなら、私はきっと、これまでのように笑っていられない。

「確かめたいことがある」

「え……?」

「明日の夜、迎えに来る。……もし我々の仮説が間違っていたのなら、私は、お前に謝らなければいけない」

どういうことですか、と尋ねる前に、彼はドアを開ける音を立てていなくなってしまった。
立ち去る前にCDプレイヤーの再生ボタンを押してくれたのだろう。先程のピアノ曲の続きが、一人になったこの空間に木霊した。


2016.2.25
(真実の足音)

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