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彼女に世界の情報を与える何もかもがゆっくりと、しかし確実に一つずつ失われていく様は、言葉に書き表せない程に残酷でした。
彼女の心は紛れもなく此処にありましたが、しかし彼女の身体はその心による統率をすり抜けて、何処か遠くへと旅立つ準備をしているようにさえ思えました。
「死にたいのですか?」と問えば、おそらく彼女は驚いたようにその、何も映さない海を見開いてから「いいえ」と、確固たる響きで答えてくれるのでしょう。
彼女の心は死にたがっている訳ではありません。けれど彼女の身体は死にたがっているように見えました。
わたくしにはそれがどうしても耐えられませんでした。
◇◇◇
シアのお母さんは、私とアクロマさんにも昼食を用意してくれている。いつもシアの話し相手になってくれるお礼、とのことだけれど、やはり少しだけ気が引けてしまう。
それでも断れなかったのは、私よりも遠慮して然るべきである筈のアクロマさんが、
「では、お言葉に甘えてお世話になります」と、その厚意をあまりにもあっさりと受け入れてしまったからに他ならない。
常識のある聡明で誠実な科学者だと思っていただけに、彼が一般常識から少しばかり逸れた返事を紡いだことは私を酷く驚かせた。
「どうして、あんなにすんなり受け入れたの?普通は遠慮するものだと思うけれど」
テーブルに私とアクロマさんしかいない時を見計らってそう尋ねれば、彼は千切りかけたロールパンを手元の皿に戻してから、その金色の目をすっと細めた。
「わたくしに子供はいないので、母親の気持ちというのは推測するしかないのですが、」と前置きして発せられたその言葉は、しかし私を納得させるに十分な温度を持っていたのだ。
「おそらく彼女は、シアさんのお見舞いに訪れた全ての人に、特にトウコさん、貴方にとても感謝しているのだと思います。
彼女は毎日、わたくしや貴方に感謝の言葉を告げてくれますが、それだけでは彼女の気が収まらなかったのでしょう。申し訳ないと、思ってしまったのでしょう」
「……」
「彼女の申し出をわたくしや貴方が受け入れることで、彼女の抱える申し訳なさが少しでも解消されるのなら、是非、そうしようと思ったのです」
……繰り返すが、私は大人が嫌いだ。その賢さを振りかざして醜く振る舞う狡い大人が大嫌いだ。
そしてこの人は、おそらく一般的な大人よりもずっと「賢い」部類に入るのだろう。聡明で、博識で、まさに科学者と呼ぶに相応しい人物であったのだろう。
けれど彼はその力を狡い方向へ行かさない。代わりに、推し量る。この複雑が過ぎる世界を紐解き、様々な人の様々な思いを汲み取り、そうして最善を選び取る。
その選択が一般的な常識とは少しばかりずれていたとしても、彼は彼の信念に基づいて行動している。そして、賢すぎる彼の信念は、決して濁ってなどいないのだ。
彼よりもずっと幼く若い私が、恥ずかしくなってしまう程の眩しさなのだ。
賢くない私が見渡せる世界は限られている。だから彼の行動の裏に隠された彼の信念に、こうして彼の口から解説してもらわないと気付くことができない。
そうした、誠実で真面目な彼の前だから、私は珍しく素直に賞賛と尊敬の言葉を紡いでしまったのだろう。
「……凄いわね、アクロマさん。私、そこまで思い至れないわ」
ただ茫然とそう告げた私に、彼はあまりにも馴染みのある苦笑で返した。
「しかし不思議な話ですね。わたくしは、……おそらく貴方も、義務感のようなもので此処を訪れている訳ではないのに。あの子の傍に在りたいから、来ているだけである筈なのに」
困ったように笑う。
その表情がシアによく似ていたので、私は思わず目を逸らしてしまった。
あの真っ直ぐで屈託のない笑みを浮かべる私の後輩がそのまま大きくなったなら、きっとこの人のようになるのではないかと、思ってしまったのだ。
*
シアが盲目となってから今日で5日が経った。
私は相変わらず、朝から夕方まで彼女の家に転がり込み、シアの療養に付き合っている。
アクロマさんも私ほど長居をする訳ではないけれど、それでも毎日この家を訪れ、彼女の話し相手になったり、彼女の代わりにポケモンの世話をしたりしていた。
いつものようにシアのお母さんが、昼食の用意ができたと告げに来てくれる。
アクロマさんに手を引かれてゆっくりとテーブルに着いた彼女は、右手をゆっくりと動かしてシチューの入ったお皿にそっと触れた。
「あれ?あったかい。何だろう……?」
これは、彼女が2日前から始めた「遊び」だった。
テーブルに置かれたお皿に触れて温度を確かめたり、そっとお皿ごと持ち上げて匂いを嗅いだりする。最後にやっと味を確かめ、どんな料理であるのかを推測するのだ。
パンの種類は手触りで見抜けるようになったと、昨日は得意気に話してくれていた。
さて今日のシチューは判別できるだろうかと、私は自分の分のパンを千切りながら、彼女のスローペースな食事を見守る。
彼女はスプーンでシチューを掬い、恐る恐るといった風に自分の口元へと持っていく。その顔がぱっと明るくなり、小さく切られたニンジンを飲み込んでから正解を紡ぐ。
「これ、シチューだね」
「そうよ、正解。今朝はリンゴジュースをブドウジュースと間違えたりしたから、お母さん、びっくりしたわ」
「昨日は冷製のパンプキンスープをヨーグルトだと言っていましたね」
「そ、それは忘れてください、アクロマさん」
心因性の盲目を患う少女を中心とした食卓であるとは思えないほどに、このテーブルは賑やかだった。
目が見えないという不便極まりないこの状況を楽しむ術、それを彼女は覚え始めていて、私はそのことに感心すると同時に、やはり少しだけ恐ろしくなる。
「お皿越しに温度を確かめて、香りを嗅いで、味のする食べ物を飲み下して、それでも何の料理か分からないことがよくあるんです。
料理は視覚から得る情報でその8割を構成しているって、アクロマさんが言っていましたけれど、本当でした。私、こんなことも知らずに生きていたんですね」
まるで盲目となれたことを喜ぶかのような言い方に、私は言葉を失って苦笑の音を紡ぐことしかできなかった。
見えない世界は彼女を傷付けない。私が知ってしまった大人の醜い表情を見る術を彼女は持たない。彼女はその状況に、甘んじているようにさえ思える。
盲目の世界もあながち悪いものではないのだと、彼女が楽しそうに笑う度にそう言っているような気がする。私はそんな彼女を責めることができない。
*
しかしその次の日、彼女はヒウンシティにある大きな総合病院へと入院することとなった。
料理、果物にお菓子、果てには水の類まで、一切、身体が受け付けなくなったのだという。
「何を食べても美味しくないんです。錆びた鉄を噛んでいるような、苦い味しかしなくて」
昨日、美味しそうにシチューを食べながら、私達と笑顔で言葉を交わした彼女の姿は、まだ私の脳裏に鮮明な色で焼き付いている。
その彼女と、目の前の、細い腕に点滴の針を刺した少女が同一人物であることを、私は長い時間をかけて受け入れていかなければならなかった。
食べ物を口にできないということもさることながら、水分さえも受け付けられないというのは身体にとって致命的なことらしく、
今、彼女の身体には食べ物や水の代わりに、私のような一般人にはよく分からない名前と数字とで構成された透明な液体が、少しずつ、細い管を伝って送り込まれている。
食べられない、飲み物を口にすることすらできない。そんな不可思議で絶望的なこの症状の原因を、しかしまたしても医師は特定することができなかったらしい。
そのため、今回の入院はその詳細な検査をするためのものでもあった。
この不思議な症状も、心因性のものなのだろうか。彼女が昨日のように、食べることに幸せを見出してしまったから、彼女自身の心が身体に罰を下したとでもいうのだろうか。
会話を続けることを忘れて呆然とする私に、シアは覇気のない顔を綻ばせ、笑顔の形を取ろうと努めていた。
笑おうとするより先に、弱々しい声が紡がれるより先に、私はその口を塞がなくてはいけなかった筈なのに、あまりにも痛々しい彼女の姿に圧倒されて、反応が遅れてしまった。
「大丈夫ですよ。針が身体に刺さっているって考えると怖いですけれど、今は幸いにも見えませんし、食べられなくなっただけで、こうして栄養を貰えれば生きていられます」
だから、そんな顔をしないでください。
もうすっかり十八番となってしまった、困ったような寂しそうな笑顔でそう告げる彼女に、「見えていないくせに」と吐き捨てるように口にする。
酷い、と声高に紡ぐことすらせず、「そうですね」とその笑顔のままに続ける彼女を、私はようやく抱き締めてその口が更なる「大丈夫」を紡ぐことを禁じた。
彼女は躊躇いがちに、針を刺していない方の腕をそっと私の背中に回す。ぽつりと彼女が零した「あったかい」という言葉に、何故か私の方が泣きそうになってしまった。
生きていられるから幸いだ、なんて言わないでほしい。こんなにも痛々しい姿で笑わないでほしい。
だって、目が見えなくなることも、食べられなくなることも、全て「心因性」のものなのだとしたら、これら全てが、彼女が彼女自身に科した罰なのだとしたら、
生きていることを幸い、としてしまった今の彼女が、その罰として次に何かを失うとしたら、その何かというのは、おそらく。
見ることを楽しんだ彼女は盲目となった。食べることを喜んだ彼女の味覚は狂ってしまった。
生きていられることに安堵した彼女が次に失うものの正体に、思い至らないほど私は愚鈍ではなかった。けれど「死なないで」と懇願できる程、勇敢でもなかった。
口にすれば、現実になってしまいそうな気がしたからだ。それ程に今の彼女は弱々しく、私の知る「シア」の形を取ることを止め始めていたのだ。
「……」
彼女の気を晴らすための何かを話題に上らせようとして、しかしこの子は今、綺麗な景色も美味しいものも自らの享楽とすることができないのだと思い知り、愕然とした。
「……音楽、」と絞り出した言葉に、腕の中で彼女が首を傾げる。
「ピアノ曲のCDを持っているの。明日持ってくるから、此処で聴かせてあげる。……だから、耳まで聞こえなくなったりしないでね」
次に失うものがあるとすれば、それはせめて聴覚であってほしいと思った。
臆病な私が口にできることなど、この程度のものだったのだ。
2016.2.19
(「旅立ち」の準備)