◇
彼女が追い詰められていた。
そう聞けば、誰もが黙って首を縦に振るのでしょう。それ程に、彼女は旅に出てからというもの、あまりにもあらゆることに取り組みすぎていました。
彼女の心が疲れていたとして、それはもっともなことだ。そう思わせるに十分な量の重荷を彼女は背負っていました。背負っていると、誰もが思っていました。
けれどわたくしは、今の盲目となった彼女に抱いた小さな違和感を、看過することができずにいました。
◇◇◇
ヒオウギシティにあるシアの家には、ひっきりなしに人が訪れていた。
かつての旅で彼女がジムバッジを得るために戦い、ホドモエのPWTでも幾度となく熱いバトルを繰り広げた相手であるジムリーダー。
共にプラズマ団と対峙した一つ年上の幼馴染。
彼女にポケモンを託した、ポケモン博士の小さな助手。その助手と同じように2年前、カノコタウンから旅立った新米ジムリーダー。
他にも、あらゆる人が彼女のお見舞いに訪れた。
タチワキシティにあるポケウッドや、ホドモエのPWTに毎日のように顔を出していた小さな新チャンピオンが、しかし数日前を境に忽然と姿を消した。
何か事故や事件に巻き込まれたのではないかという噂が広まる前に、彼女はアクロマさんの助けを借りて、その人たち全てに連絡を取った。
その作業だけでも半日が潰れていて、連絡を取るのに掛かったあまりにも長い時間がそのまま、彼女を大事に思う人の多さを表しているのだと知り、ただ、驚いた。
良識のある大人は、手ぶらでお見舞いに訪れることはやはりよくないことだと思うらしく、大抵の場合、何かしらのお菓子や果物、花を持って訪れた。
彼女はそれらを受け取ろうとして手を伸ばし、しかし空を切るその手に相手は驚いたような、それでいて酷く傷付いたような顔をしてから、
彼女の華奢な腕をそっと掴んで「ここだよ」と花へと誘導したり、「どうぞ」とその手にお菓子の袋を握らせたりする。
そうして彼女が手探りでお菓子の袋を開けたり花のところに顔を近付けたりして、「わあ、いい匂いですね」と屈託なく笑うのを、
どうしようもなく哀れに思っているような、寂しい笑みを湛えながら、「それはよかった」と、しかし声音だけは陽気に、快活に紡いでみせるのだ。
どんな顔をしたところでシアには見えないのだからと、大人たちはあまりにも素直に感情を顔に出す。驚き、傷付き、愕然とし、そして哀れむ。
「……」
けれどその隣で私は見ている。大人たちのそうした顔を、あまりにも醜い彼等のことをずっと見ている。
勿論、それらの醜い顔は私に向けられたものではない。
彼等は視覚を失ったシアにばかり視線を注いで、彼女の部屋に毎日、長時間訪れている私やアクロマさんに意識を移すことは滅多にない。
けれど、どうしようもなく悔しかった。私の後輩が、誰よりも強くて誰よりも優しい彼女の尊厳が、酷く軽んじられているように思えたのだ。
けれどおかしなことに、そうした傾向は大人にだけ見られた。
彼女の幼馴染やベルは、シアの視界に自分たちは映らないのだからどんな顔をしても平気だなどということまで、おそらく頭が回っていないのだろう。
そんな狡い考えに至ることができるのは、賢い大人だけだ。彼等は賢すぎる。
だから私は大人が嫌いだ。賢く狡く、子供の目を欺き彼等の見えていないところで醜く振る舞う彼等が、大嫌いだ。
「こんなに沢山の方がお見舞いに来てくれるなんて、私は幸せ者ですね」
「……ええ、そうね」
「それなのにこんなことになってしまって、申し訳ないなあ。早く、見えるようになってくれたらいいのに」
けれど、そうして大人の綺麗な面だけを真っ直ぐに見つめ、彼等の言葉をそのまま受け取り、私は幸せだと屈託なく紡ぐその少女に、
「あいつらはあんたの見えないところでとても醜い顔をしているのよ」と、本当のことを告げられず、下手な相槌を打つことしかできない私だって、
きっと、私の嫌うところの「賢く狡い大人」になっていく途中の道に立つ者の一人に違いなかったのだろう。
誰もがいつまでも、真っ直ぐな子供のままでいることなどできないのだろう。
「トウコ先輩、明日も来てくれますか?」
けれど彼女は私に毎日のようにそう尋ねる。
他のお見舞いに訪れた大人や知り合いには「来てくれてありがとうございました」とありったけの感謝だけを伝えるだけに留まるのに、
毎日訪れている筈の私とアクロマさんが帰る時には、彼女は決まって、少しだけ困ったように微笑んでから「また来てくれますか?」と確認を取るのだ。
大人になりたくない私と、おそらくは大人の中でもさらに賢い部類に入るであろう彼。その両方の来訪を彼女は求めている。
おかしいような、嬉しいような、妙なくすぐったさが私の心を這う。
「ええ、勿論ですよ」
そしてアクロマさんの返答は、決まって私のそれよりも早く紡がれる。
この時間差は、この場に挑むための覚悟の差だ。私はそう思っている。だから彼のように淀みなく「勿論よ」と即座に返せない私は、きっとまだ、覚悟が足りないのだろう。
◇◇
コンコンと、窓ガラスを叩く音で目が覚めた。
ベッドから出て、両手をひらひらと動かしながら家具の位置を探る。壁を伝って進み、窓のロックを解除すれば、それと同時に外から勢いよく開けられた。
予想していたよりも遥かに冷たい風に思わず息を飲む。どうやらまだ夜は明けていないらしい。
こんな時間に誰だろうと思い、尋ねようとしたけれど、それより先に向こうから、少し掠れた独特の声音が降ってきた。
「やれやれ、急にゲーチス様のところに来なくなったと思ったら、お前までとんでもないことになっていたとはな」
「あ!……ふふ、こんばんは。アギルダーのダークさんですよね」
確認を取るようにそう紡げば、窓の向こうの彼は沈黙した。
間違っていたかしらと不安になりかけた私に、しかし数秒遅れて「見えないのに俺と他の二人との見分けがつくのか?」と帰ってきたから、思わず肩を震わせて笑ってしまった。
「貴方達がそっくりなのは、着ている服と黒いマスク、それに背格好くらいですから」
「へえ、そうかい」
ゲーチスさんに仕える3人のダークさんと私は、それなりに面識があった。
体調を崩し、ヒウンシティの総合病院に入院している彼のところへ、私は毎日のように顔を出していたのだ。
最初こそ、彼は毎日のように自分の病室を訪れ、フエンせんべいや森のヨウカンを置いていく私に怪訝な顔をしていたけれど、
最近ではそんな私の、私にさえ意図がよくわかっていないその訪問を許してくれていた。
「で、どういう訳でそんな目になったんだ。酷い色をしている」
「……私、今、そんなに見苦しい目をしているんですか?」
「はは、冗談だ。いつもと同じ、ゲーチス様の嫌う、いい青色をしている」
それは彼に仕える貴方にとって悪い色ということではないのかと思ったけれど、彼の声音が酷く楽しそうなものだったので、私はそう尋ねることを忘れていた。
……この人は、昼間の大人たちのように、お菓子や果物、花を持って来たりはしない。私に気を遣って、優しい言葉を操ることもしない。
それがとても楽しいことであるように思えた。何も映さない私の目を、笑いながら「いつもと同じだ」と言ってくれたことが、どうしようもない程に嬉しかった。
心因性のものだとお医者様に言われたのだと告げれば、彼は暫くの沈黙の後で「お前はどう見ている?」と尋ねた。
「私は人体のことはよく知らないので、お医者さんがそう言うのなら、そうなのかもしれないと思っています。
少し悔しいような気がするけれど、でも仕方ないですよね。私の心の弱さが招いたことなんだから」
「……」
「それにもしかしたら、私がこうなってしまったことは何かの罰で、その罰を喜んでくれる人だっているかもしれないでしょう?」
言い終わるや否や、彼が窓の冊子にぐいと身を乗り出す気配がした。「それは俺達のことか?」と尋ねられ、息を飲む。
その言葉に対する答えを紡ぐことは簡単にできたけれど、言い淀んでしまったのは、その疑問がもう一つの決定的な確認を有しているように思えてしまったからだ。
「お前は俺達と対峙したことを悔いていたのか?だからゲーチス様のところへ訪れていたのか?」と、もし彼の目が見えたなら、きっとその黒色は雄弁に語っていたのだろう。
けれど彼はそれらを声に出さず、ただ「俺達のことなのか」と問うただけだったから、私もそれに対する答えだけを紡いだ。
「ふふ、実はさっきまではそう思っていたんですよ。貴方達やゲーチスさんは、きっと喜んでくれるんだろうなって。でも、少なくとも貴方は違いましたね」
「見えていないのに俺の表情が読めるのか?」
驚いたようにそう言われて、逆に私のほうが驚いてしまった。
確かにそうだ。彼の表情など見えないのに、どうして私は、彼が私の盲目を喜んでいないと断言したのだろう。
暫く考えてみたけれど、彼を納得せしめるだけの根拠に思い至ることができず、私はただ困ったように笑って誤魔化した。
「ゲーチスさんには、言わないでいてくれますか?喜んでくれるような気がするけれど、でも喜ばれてしまうのは、少し、悲しいから」
彼は私のそんな懇願に、暫くの沈黙の後で快く了承の意を示してくれた。そしてそれ以上、私の目のことについて追及することはしなかった。
それから夜が明けるまで、かつての敵であった彼と他愛もない話を続けた。
2016.2.17
(覚悟の速度)