「僕にできることはもうありません、そろそろ帰ります」「帰る? 何処へ?」「現実へ」
「現実? 正確に言いましょうよ。それは貴方が『現実だと信じている世界』でしょう。いいえもっと正確には『信じていたい世界』だわ!」
……これが今、ぱっと頭の中に出てきたのですが、よくよく考えるとこのやり取り、相手が女性なので、原作ではなく漫画版の方の台詞でしたね。いや失敬!
原作で覚えているのは、老人が笑う描写。「この枯れ木のように細い老人のどこから、これだけの大きな笑い声が出てくるのか……」みたいな、非現実性をびしびしと突き付けてくる文章、小学5年生の身にはもう、めちゃめちゃ怖かったことを覚えています。
漫画版の台詞の方をより克明に覚えているのは、この「信じていたい」と書かれた見開きページで亜衣ちゃんが笑顔でこちら(視点としては教授)に振り向く姿が大きく描かれていたからですね。このページが本当に好きだったんです。原作にはこの表現はなかった。それ故に、衝撃的でした。
さて。
ポケモンに魅力的な人物は本当に沢山いて、いろんな物語の中で彼等に思いを向けられる女の子たちの話を書いてきたのですが、その物語のテーマとして「恋」を取り上げることは滅多にありません。彼等とポケモンの世界で「生きる」話を、ゲームの話の続き、もしくはif設定としてこの手で綴りたいと思っているから書いている、という趣旨がかなり強く、私自身が彼等とどうにかなることを想像する、その自己投影のために書いている、という意図はほとんどありません。
おそらく、普段から大好きだと喚き散らしている四天王(アクロマさん、フラダリさん、ゲーチスさん、ザオボーさん)についても、私は「恋」をしている訳ではないのだと思います。人として、主人公へのかかわり方として、他の何にも代えられないほどに魅力的だとは勿論、思っているのですが……。
唯一、恋めいたものをしているかもしれなかった相手は、第二世代の「シルバー」ですね。ただこの当時、私は年端もいかぬ6歳だかそこいらのガキだったもので、ただ純粋に「また会いたいなあ」と「もっといろんな話ができたら楽しいだろうなあ」と、漠然と思うことしかしていませんでした。ゲームの中の「主人公」と、それを操作する「プレイヤー」の境目を認識できない程に幼かったが故の、錯覚の恋であった可能性は大いにあります。というか、きっとそうだったのでしょうね。
ダンガンロンパのカムクライズル、DBHのカムスキー、ラジアントヒストリアのラウル中将、今回のDLCにて登場したセイボリーなど、夢中になってきた人物は他にも何名かいます。ただ、恋をしている訳ではなかった。彼等の物語、その後であったりifであったりAUであったり……を想像し、また実際に小説の形で出力することは私にとって至福の極みでしたが、その相手が「私」である必要性、またその物語が「その相手が私だと錯覚できるような夢小説」である必要性は、私にとってはほぼないに等しかったんです。
ただ、本気で「この人にこんな風に想われたらどんなにか幸せだろう」「想われてみたい」「貴方が好きですと伝えに行ければいいのに」などと、現実とフィクションの区別がつく年ごろになっても、そして今も尚そう思い続けられる相手が一人だけいて、それがこの人、夢水清志郎であったりします。その恋心をはっきりと自覚するに至ったのがおそらくこの漫画版のシーンですね。原作を読んだのは小5でしたが、漫画版を手に取ったのはもっと後、中学生か高校生の頃だったと思います。6歳の頃ならいざ知らず、中高生の頃に「恋」だと思ったのなら、……もう、きっと恋ですよね。
この人の「信じていたい世界」の象徴として選ばれた亜衣ちゃんが、それはそれは羨ましかった。この人にこんな風に想われたならどんなにか幸せだろうとさえ思いました。今でもたまに夢見ています。
この「機巧館のかぞえ唄」のシーンを想う度、少しドキドキしてしまうのは、きっとそうした理由でしょうね。この動悸が恋心によるものだという確信が、私を少し、ほんの少しだけ、幸せにします。叶いようのない想いではありますが、そういったことはどうでもよく、やはり幸せです。
だからこそ、夢水清志郎で「夢小説」を書くことは決して起こり得ないでしょうね。無理ですどう考えても。恥ずかしすぎて、書けるはずがない!