※「深緑の海に、花」の続き
「とても美味しかったわ。ご馳走様でした」
そう告げてから、女性は大きく両手を空へと突き上げ背伸びをする。樹海の花はそうして深呼吸をしたのちに、真っ直ぐに男を見つめて、少しだけ首をこてんと傾げてみせる。
貴方はどう?美味しくなかったかしら。困ったように笑いながらそう尋ねるものだから、彼はふっと小さく息を吐き、悪くはなかった、と静かに告げた。
男は悉く無音であり、静かであり、女性は悉く賑やかで、華やかだった。少なくとも男にとってはそうであった。女性にとっては、……どうであるのか、男は察することができない。
「そろそろ行かなくちゃ。ヘレナに留守番を任せているから、早く戻らないと拗ねてしまうかもしれない」
花は華やかに笑う。花は困ったように笑う。花は立ち去らなければならない。花には、……この日の光の差さない樹海はあまりにも似合わない。
解っていながら、男は息が詰まった。時は不公平だ、と訳も分からない駄々を捏ねさえしたくなった。
何故、この花はこんなにも早く時を回すのだろう。何故この花といるときの自らの時は、ほんの一瞬に思われてしまうのだろう。
何故この時間は、心地いい、と思った次の瞬間には、男の指の間を擦り抜けて、儚く頼りなく落ちてしまうものなのだろう。
ヘレナは今、どうしている。いつも一緒よ、夢見がちなところは相変わらずみたい。
ちゃんと食べているのか。あら、それは私が貴方に訊くべきことじゃなくって?
寒くないのか。……寒いわ、と言えば、貴方は私の手を握ってくださるのかしら?
あいつは、明日も来るだろうか。ええ、きっと来るんじゃないかしら、貴方達が前を向けるようになるまで、何度でも。
些末な、他愛もない質問を重ねた。その全てに女性は微笑みながら答えた。
2秒以上の間を決して置かないその返答が、こちらの疑問の全てに答えてくれる彼女の誠意が、今は少し、ほんの少しだけ恨めしかった。
もっと悩めばいい。もっと返答に詰まってしまえばいい。そうして一秒でも長く、この花を樹海の中に留めておきたい。返事などなくていい。答えなくていいから、せめて。
「次は、」
「……どうしたの?」
「いや、」
次はいつ会える?
そう、尋ねそうになって男は思わず喉を押さえた。首を絞めるように左手で強く握り締め、俯いて小さく首を振った。
自らを律するように「なんでもない」と付け足しながら、背中を冷たいものが流れていくのを感じて、肩に力が入った。
何をしている、と男は自らに呆れ始めていた。自らの強欲に、ほとほと嫌気が差し始めていた。
彼にとって花の色は彼女であり、すなわち彼女こそが花であった。
花に樹海は似合わない。此処はこの女性の場所ではない。彼と彼女は、きっと共に在るには何もかもが対極になりすぎている。あまりにも相容れない。あまりにも遠い。
「来週の木曜日、午後1時から、ヘレナがヒウンシティへショッピングに行くんですって」
「!」
「その時なら、家を留守にしても全く問題ないのだけれど、……集合場所を、決めておいたほうがいいかしら?」
けれどもその、あまりにも美しい存在は、陽の光をたっぷりと吸い込める温かい場所に微笑んで然るべきその存在は、自ら影のある場所へとやって来る。
影と共に在ることへの約束を、微笑みながら、少しだけ頬を赤くしながら、男へと乞うている。
すとん、と男の肩の力が抜けた。いよいよおかしくなって、笑い出したくなった。
けれども男のそれは彼女のように柔らかいものではなかった。どこまでもぎこちなく、頬を上げればぴりぴりと痛んだ。
こういうところまで、ほら、どう足掻いても相容れない筈なのに、どうして彼も彼女も「会いたい」と願ってしまうのだろう?約束を乞うてしまうのだろう?
解らない。想いの所以を悠長に分析できる程、彼女の暮らしも彼の生き様も安定していない。彼等は想いの根拠を持たない。それを言語化する術を知らない。
それでも、また会いたいと願わずにはいられない。
「……必要ない。足音で解る」
「あら、それは少しおかしくなくて?だって今日、貴方を先に見つけたのは私よ」
「いいや違う、見つけられるずっと前から俺は気付いていた。俺を探している足音だと解っていたから、待っていたんだ。俺の方が先だ、バーベナ」
射るように真っ直ぐ、彼女を見つめる。彼女の笑顔が、止む。驚いたようなその顔にほんのりと赤が差す。男は僅かに手を掲げて、振る。
そうすれば、彼女は再び笑顔の花を咲かせて、すぐに大きな動作で手を振り返してくれることを知っているのだ。少女のようなその仕草は、彼女を一層、花らしく見せた。
少し進んでは振り返り、また進んでは振り返って手を振った。その度に男は振り返した。彼女の足音は相も変わらず賑やかで、華やかだった。
そうして彼女の姿が男から完全に見えなくなった頃、明後日の方角から、声が聞こえた。
「楽しそうなことをやっているじゃないか」
近くの木からすたっとその人物が降りてくる。同じ服、同じ色の髪をした、性格だけは彼と正反対なこの男も、彼と同じ「影」の一人であった。
よりにもよって、こいつか、と男は溜め息を吐く。
彼女がフエンせんべいを食べ終えた辺りから生物の気配を感じていたので、誰かが現れることに関しては何の驚きもなかったのだが、
それが他の誰でもないこの男であることこそが、彼を落胆せしめていた。
「雇い主に隠れて逢瀬を重ねるなんて随分な謀反じゃないか、なあ、そうは思わないか?」
黒いマスクの下で、こいつは至極楽しそうに笑っているのだろう。男はこいつの「楽しくなさそうな」様子を見たことがなかった。
この破天荒な男にかかれば、明日雨が降ることも、ゲーチス様が病床に臥せっておられることも、今こうして木から飛び降りていることだって、きっと「楽しい」ことに違いないのだ。
退屈を殊更に嫌う彼にとって、自分が彼女と隠れて会っていることがどれ程楽しく、面白いことであるか、……男とて、それくらいのことには察しがついた。
故に男は苦虫を噛み潰したような顔をしていたのだが、ニヤニヤと笑う彼が徐に、わざとらしく左手をくいと掲げてみせたので、思わずそちらに視線を奪われてしまった。
「……その腕時計はどうした」
ダークトリニティとして、同じ服装、同じ色の髪を義務付けられていた筈の、マスクで顔の大半を覆い隠せば殆ど鏡に写したようにそっくりであった筈の、その男の腕に、
「自分にはないものが付いている」という事実は、存外、彼を驚かせるに至っていた。
その指摘を受けた影は「ああ!なんてことだ!見つかってしまった!」などと、随分と大仰な声で、右手を額に押し当てて、所謂「困り果てたポーズ」をする。
「そうとも、今日買ったんだ。ずっと欲しかったんだ、どうしても付けてみたかったのさ。
しかし困った。この腕時計を付けているのは俺ただ一人だけだ。これは我々を「個人」ではなく「三人」として扱うあの方への謀反になってしまわないだろうか?
参ったぞ、お前が告げ口してしまえば、俺は酷いお叱りを食らうだろうなあ」
成る程、と男は苦笑した。つまり自分はこの破天荒な影に「共謀」を持ちかけられているのだ。
お前がバーベナと隠れて会っていたことを黙っておくから、お前も俺がこのようなものを購入したことを黙っていてほしい、と、そうした趣旨のことをこの男は言いたいのだ。
どうやら今の彼にとっては「影の一人がゲーチス様に酷いお叱りを受けること」よりも、「気に入った腕時計を付け続けること」の方が、ずっと面白く、楽しいことであるらしい。
「……俺もお前も何も見ていない。これで満足か?」
「ああ、上出来だ。お互い、上手くやろうじゃないか」
至極楽しそうに笑って拳を突き上げる。特にそのポーズに逆らう理由もなかったため、男も力なく拳を掲げてこつん、とぶつけてやる。
それは静かな契約だった。以前なら交わすことなど在り得なかったような、ひどく滑稽な約束だった。けれどもその滑稽さに、男はこの上なく救われていた。
また会える。また、この樹海に花が咲く。
「まあ、隠れてこそこそやらねばならんのも今だけさ。じきに変わる。俺もお前も、ゲーチス様も」
「……あいつが変える、とでも言うつもりか?」
「いいや、あいつは俺達を変えようなどと思ってはいないだろう。寧ろ変えようとするのは俺達だ。俺達が変わりたいと願うようになるのさ。
現に俺は今日、初めての謀反をしたぞ。あいつが俺達を区別して呼んだりするものだから、つい、楽しくなってしまった!俺にしかできないことをしたくなってしまった!」
「ジュペッタのダークさん」と、自らのことをそう呼ぶあの少女の声音を、男もすぐに思い出すことができた。
面倒なことをするものだ、と彼は少しばかり呆れていた。呆れた振りをしていた。彼はこの破天荒な男のように、自らを「個人」として見られることをまだ素直に喜べなかった。
それに喜ぶことができたとして、彼の歓喜は、おそらくこの破天荒な男の半分にも満たないだろう。
何故なら既に彼は、花に見つけられていたからである。彼は、「他の誰でもない貴方」として「ダーク」の名が紡がれることの幸いを、とてもよく心得ていたからである。
ゲーチス様も生きようとなさるのだろうか、と彼は呟く。それを受けて男は力強く、ああ変わるさ、と歌うように告げる。
これから、何もかもが変わるかもしれない。そのことへの期待を露わにする愉快な影の隣で、静かな影は呆れている。好きにするがいい、といった風を作っている。
『待っていたんだ。俺の方が先だ、バーベナ。』
けれどもその実、彼も既に変わることを受け入れ始めている。
まだヒリヒリと痛む頬を黒いマスクで隠しつつ、その上からそっと手を添えて、次はもっと柔らかく笑えるようになってみたい、などと、思い始めている。
2017.6.22
腕時計については、こちら(SS企画(2016)5-2-6「腕時計」)で描写したあれに再登場していただきました。
いつも楽しいポケモントークをしてくださるすえさんに、心からの感謝の気持ちを込めて。