メリーメリーナイトメア

<3>
 おかしな世界でのおかしな物語、捻れたお話は終わりました。少女は「帰りたい」と願っていた元の世界に帰ってきたのです。けれども帰ってこられたからといって、彼女は取り立ててはしゃぎ回るようなことはしませんでした。ただ、いつもの日常が戻ってきただけの話だったからです。朝起きて、電車に乗って学校へ行き、魔法を見ることも箒で空を飛ぶことも錬金術をすることもない普通の授業を受けて、放課後に友達と少し寄り道をして、帰宅して……そうした毎日を繰り返すだけであったからです。
 悪い夢を見ているようなあの世界での暮らしから戻ってきたところで、こちらで送るのはそうした、平凡の過ぎる毎日ばかり。そんなことは分かりきっていました。悪夢だとばかり思っていたあの世界の日々も、終わってしまえば、悪いことよりも楽しかったことの方が遥かに多く思い出されます。それでも、少女の過ごした十数年の現実が、目覚めるべきだと肩を揺すったので、また少女自身もそうしたいと思ったので、彼女はこちらにいるのでした。

 悲しくとも、寂しくとも、身を切るような痛みに苛まれると分かっていたとしても、それでも両方は選べない。だからこうするしかなかったのです。彼女は助けられるためではなく、助けるためにあの世界に呼ばれた身。だから誰も彼女の寂しさを、痛みを、救ってくれなかったとして、それはもうあのおかしな物語の仕様上、どうすることもできない、仕方のないことだったのです。
 故に、たとえあの、楽しいばかりだった放課後のお茶会が、平凡な日々の連続によりただの思い出に変わってしまうとしても……それでも彼女は、あのお茶会の時間によって守り通された自由な心持ちのままに、旅立たなければいけませんでした。他でもない彼女自身が、誰にも縛られない自由な心で決めたことでした。

 あの世界から持ち帰れたのは、記憶と、この自由な心持ちだけでした。それらが薄れゆくことにどうしようもない寂しさを覚えた少女は、いつもは読書のお供として一人分しか用意しない紅茶を、二人分それぞれに用意して、ティーセットの数だけでもあの頃に揃えてみることにしたのです。お気に入りのケーキは一切れしか用意できませんでしたが、あのお茶会の雰囲気を出すには十分でしょう。二つのカップに紅茶を注ぐと、それだけで少女の気持ちは浮き立ちました。
 テーブルセットの仕上がりに満足した少女は、今日読むために買ってきたばかりの冒険譚を鞄から取り出すべく、紅茶とケーキの置かれたテーブルに背を向けました。時間にして僅か数秒程のことだったでしょう。けれども振り返った瞬間、少女は悲鳴を上げて本を取り落とすことになりました。
 無理もないことです。だって、折角用意したケーキが彼女の目の前で皿ごと宙に浮いていたのですから。フォークを使って素早く取り分けられ、ぱくり、ぱくりと一口ずつ減っていく、あまりに不思議でとても懐かしい光景が少女の視界に飛び込んできたのですから。

「やめてチェーニャ! それはわたしの分よ!」

 思わず叫んでから、少女はあれ、と首を捻ります。此処は彼女の元いた世界。不思議でもなく捻れてもいない世界。仲良しの猫などもういるはずがありません。にもかかわらずこれはどういうことでしょう。何故少女は、そこにあの猫がいると信じてしまったのでしょう。
 そして少女が咄嗟の判断で「信じて」しまったのと同じタイミングで、猫は顔だけをその場に出して、いつものように少女へと笑いかけました。楽しそうに細められた金色の目、それが作り出すやわらかな視線に射抜かれても尚、少女は目の前の猫に不安を覚えていました。この人はわたしの寂しさが作り出してしまった幻なのではないだろうか、都合の良い夢を見ているだけなのではないかという気持ちを、どうしても捨てきることができなかったのです。

「ふんふーん、成る程ねえ、こっちのケーキも悪くはない。トレイが作ったもんには負けるがにゃあ」
「……どうして」
「おみゃーにはこっちをやるかねぇ」

 ぬっと現れ出た腕がポケットから小さな袋を取り出し、テーブルの上に中身を広げます。中からは少女の……かつての先輩が作ったと思しきトランプ模様のクッキーが、懐かしい香りと共に次々に飛び出てきました。ハートの「9」がプリントされたそれを摘まみ上げ、ほら、と笑いながら少女に突き出してきます。反射的にそれをくわえて、口を押えつつもぐもぐとして飲み込んだ少女は、美味しさにではなく感動に胸がいっぱいになりました。口の中に感じる甘さも、少しだけ唇に触れた猫の指先の温かさも、本物で、確かな、あの頃と全く同じもので、これは夢ではないのだとようやく確信できたからです。

「まさか、わたしの予想は当たっていたの?」

 クッキーの粉が僅かに付いた猫の指、それを咄嗟に両手で掴んで少女は尋ねました。これが現実であるのなら、そこには理由があるはずだと思ったのです。このような喜ばしいことが起こった理由、お茶会の場に再びこうして猫がやってきてくれた理由が、何処かになければいけないと感じたのです。

「あなたのユニーク魔法は本当に『行きたいところへ何処へでも行ける』ものだった? だからその魔法を使って、世界を超えて、こんなところにまで?」
「そんなことは重要じゃない」

 けれども猫は少女の手を握り返しながら、彼女の推察をばっさりと切り捨てて、にいと笑いました。

「俺の魔法や魔力が世界を飛び越えるに足るものだったか、おみゃーの予想が当たっていたか、そんなことはきっと、俺がこうしておみゃーのケーキを盗んでいることに何の関係もない」

 ではどうして? と尋ねそうになった彼女の口へ、猫は再び空いている方の手をクッキーの山へと伸ばします。ダイヤの「A」がプリントされたそれを選び取り、少女の口へと押し付けました。言葉を封じられ、もぐもぐと口を動かすだけになった少女に笑いかけながら、猫は更に続けます。

「これもまた、俺のあちらでの、また別の友人が言っていたことだが」
「……」
「夢というものは、いつか、叶うように出来ているらしい。どんなに辛いときでも、強く強く信じていれば……夢はいつか、いつか」

 歌うように紡がれたその言葉に、少女は「そんなの御伽噺だわ」と言い返したくなりました。おかしなことばかり言って少女をいつだって笑わせてくれていた猫が好んで借りてくるにしては、それは極めてまともで純朴で、呆れ返ってしまうほどに都合のいい理論だと思ったからです。
 けれども少女はあの世界で「帰りたい」と願い続け、「いつか帰れる」と信じ続けた結果、こうして役目を終え、元の世界に戻ってきています。少女のあちらでの夢は確かに叶ったと言えるでしょう。少女が願い、信じることで。

「俺の魔法の正体? 俺の実質? 此処がまだ悪夢かどうか? そんなもんは知らん。俺に分かるのは、俺の夢が今、ようやく叶ったということだけだにゃ」

 であるならば、このおかしな猫の願いだって叶って然るべきです。気紛れで、あべこべな言葉でのらりくらりと毎日をやり過ごしているようなところのある、器用の過ぎるこの猫に、もし本気で叶えたい願いがあるのなら、いつか叶うと信じ続けていたのであれば……その祝福はいつか彼にも訪れるべきなのです。

 幸せになってほしいと思っていました。猫との不思議なお茶会に少女がいつも幸せを貰っていたように、猫にも誰かによる幸せが訪れてほしいと思っていました。その「誰か」が少女自身であるのならどんなにか素敵だろうとも思っていました。
 確かに考えていたこと、願っていたこと、でも「相容れない」が故に諦めてしまっていたこと。でも猫は諦めなかったのです。諦めずに、願い続け、強く強く信じた結果、彼は此処にいるのです。

「あなたの夢は、此処にあるの?」
「そうとも、ずっと会いたかった」

 照れるでもなく、一世一代の告白の気概を込めるでもなく、さも当然のようにさらりと猫は告げました。その言葉で少女はこの猫の願い……「ようやく叶った」と感慨深く話したその願いが「わたしに会いに来ること」であったのだとようやく理解できたのです。いつかのように少女はわっと泣き出しました。耐えられなかったのです。止まらなかったのです。嬉しくて嬉しくて、仕方がなかったのです。
 猫もまたいつかのように「こらこら泣くにゃあ」と笑いながら言いました。クッキーの粉が付いた手をシャツの裾で拭ってから、少女の頭をそっと撫でました。

「さあ、お喋りの続きといこうじゃないか。おみゃーも、俺ともっと話をしたかったみたいだし?」

 既に冷め始めている紅茶に視線をやりつつ猫はにっと笑います。
 そうよ、わたしだって会いたかった。あなたが思い出になってしまうことが辛かった。飲まれることのない紅茶をもう一杯淹れてしまうくらい、あなたに会いたかった。話したいことが、沢山あった。
 それら全て、相容れないのだと諦めて手放してしまった全てが今、少女の目の前にあります。少女のもう一つの夢も、おかしく不思議な猫の信じる心のおかげでまた、叶ったのです。

 少女は大きく頷きました。取り落とした本を拾って棚に戻して、振り返りました。テーブルの上でクッキーをぱくりとやりつつ楽しそうにこちらを見ている大好きな猫と目が合ったので、少女はまた泣きそうになってしまったのでした。

 こうして、こちらの世界でも始まったお茶会に、あの頃と変わらぬ頻度で猫は顔を出すようになりました。あちらの「友達」や「幼馴染」から貰ったお菓子を差し入れに訪れては、少女の淹れてくれた紅茶やジュースを飲みつつ、おかしな話や楽しい話を沢山、沢山しました。
 一時間も経てば、猫はいなくなります。それだってあの頃と同じだったので気にしていません。二人は……それはこの二者に限らず、この現実に生きる全ての存在に共通したことではありましたが……どこまでいっても相容れない存在であり、生きる場所も暮らし方も、何もかも揃えてしまうことなどできないのです。少女も猫も、そのことをとてもよく分かっていましたから、寂しくはありません。また会える日を待つのは好きだから、不満だってありません。

 このお茶会はきっとこれからも続くでしょう。
 少女と猫がこの現実を望み続ける限り。あの世界の……実はとても、とても楽しかったに違いない悪夢の日々を忘れてしまわない限り。そして彼等が互いを強く強く信じている限り。

 素敵でおかしい、夢のような悪夢は、まだまだ終わらないのです。

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+ 申し訳程度の小ネタ、および夢の国要素

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