メリーメリーナイトメア

<2>
「あなたの魔法って、透明になるものだったのね」
「んー? おやおや、誰がそんなこと言ったんだか」
「あなた、またハーツラビュルのパーティーに忍び込んだんでしょう? さっき廊下ですれ違った先輩たちがあなたのことを話していたわ。姿を消すユニーク魔法のせいでいつも逃げられてしまうって」

 そういえば毎回、律儀に自分を捕まえようと追い掛けてくる優秀な「トランプ兵」がいたような気がするな、と猫は思い出しつつ、口の中で平たい飴を半分ほど口に含んでポキ、とやりました。
 理知的で夢見がちな友人に「ナイトレイヴンカレッジのお友達と一緒に、どうぞ!」と渡された今日のお菓子は、本を模した小さな直方体の形をしていて、背表紙部分には小さな文字で物語のタイトルが彫られていました。少女はその飴をとても気に入り、本の背表紙部分に顔を近付け、ひとつひとつ夢中で読んでいました。それほどまでに彼女を虜にさせるお菓子を今だけで食べきってしまうのは惜しいと感じたため、猫は今くわえている一枚だけを残して、あとは全部彼女にやってもいいかと思い始めていたところだったのです。

「勘違いしていたわ。わたしてっきり……」
「おやぁ? 早とちりが過ぎるにゃあ。そいつが正しいかどうかなんてまだ分からんじゃろうに」

 そんな簡単に分かった気になられては困るなぁ、といった少し意地悪な表情で、猫は少女に問いかけつつ残り半分の飴を口に放り込みます。さて今、口の中にある本のタイトルは何だったのでしょう。飲み込んでしまった今、知ることなど叶わないその本の正体について、猫は考えながらニヤニヤとしました。

「違うの?」
「さぁて、どう思う? 透明になる魔法と誰かさんの噂で聞き知って、それでおみゃーは? はいそうですかと満足して終わるのかい?」

 少女を責める意図は微塵もありませんでした。これがただの冗談めかした挑発であることくらい、彼女だって少しよく考えれば分かったでしょう。けれども猫の側から少女に何かを「問う」ことはこのお茶会の場においてとても珍しく、故に彼女はただ驚くばかりで、その言葉の不自然さを考えることをしなかったようでした。猫はそれをいいことに更に、続けました。

「俺の魔法は、どう見える?」

 猫の低く潜められた珍しい声音に不安そうな顔をしながらも、少女は猫の問いにちゃんと答えようとしてくれたのです。

「……ただ姿を消して不法侵入しているだけにしては、あなた、頻繁にこっちへ来すぎていると思ったの。お隣にある学園ならともかく、町ひとつ挟んだ向こう側の場所から、わざわざ毎回歩いてきているなんて、現実的じゃないわ」
「ふむふむ、つまり?」
「あの……笑ってくれていいんだけどね?」

 そう前置きしてから、彼女は不安そうに苦く笑いつつ、恐る恐るといった調子で口を開きます。

「あなたのユニーク魔法は『自分の体を、行きたいところへ連れていく』ようなものだと思ったの。顔だけ持ってきているとき、他の部分はこちらでもあちらでもない『何処でもない』場所にあって……こちらが本当にあなたの来たい場所だったとその目で確認してから、体を連れてくるようにしているんじゃないかって」
「……行きたいところへ行ける魔法、ねえ」
「ごめんなさい、忘れて? わたしが変に推測して、勝手に羨んでいただけだから。気分を悪くしないで」
「いんや、ちっとも気にしてないさ」
「でも、間違っていたでしょ?」

 間違っているかどうか、猫が使いこなすユニーク魔法の正体が何であるのか、それら全て、最早今の猫にとってはどうでもよいことでした。猫が聞きたかったのは真実ではなく、少女の考えです。見え方です。少女の目に己が魔法がどう映ったのか、それを見てどのように感じたのかを聞きたかったのです。
 このおかしな世界のおかしな物語において、体も魂も別々にある以上、認識を完璧に揃えてみせるなど、どだい無理なことです。だからこそ猫は、互いの現実、その見え方の違いを共有し、そして楽しもうと思っていました。そして事実、少女の目に見える魔法の解釈は猫を存分に楽しませていました。それだけでもう、十分すぎるほどでした。

「さて? どうだろうにゃあ。本当にそうだったら面白いだろうし、そうでなかったとしても十分に面白い」
「ふふ、あなたいつもそればっかり!」
「いや本当だぞ? そうだったなら俺様はそんな凄い魔法を使えるとっても凄い奴ということになるし、そうでないなら……そんな瞬間移動めいた力がないにもかかわらず、頻繁にこんなところへ手間を惜しまず来るくらいには、おみゃーのことを好いているということになるんだからにゃあ」
「え? ……あははっ! わたしを喜ばせてくれるのは嬉しいけれど、今日はもう薄い色の紅茶しか用意できないわよ?」

 猫は嬉しそうに笑いながら、とぼけた風にそう告げます。少女もまた、猫が正直に正解を答えてくれるとは思っていなかったようで、そうした言葉を受けてもにっと笑い返してくるだけでした。平たい飴のうち、少し厚みのある長編を手に取り、小さな舌で機嫌よくぺろりと舐めました。
 平たい飴のうち、少し厚みのある長編を手に取り、小さな舌で機嫌よくぺろりと舐めている、そんな少女に……猫は興味本位で尋ねてしまったのです。

「それで? 俺様のこの素晴らしい魔法がもしおみゃーに使えたら、おみゃーは何処に行きたいんだ? 何かしたいことがあるから、羨ましがってたんだろう?」
「何処にって、帰るのよ。元いた世界に」
「……うん?」

 帰る、という言葉により生じた重く暗い疑問が二人の息をほんの一瞬、止めました。妙に陰った表情で顔を見合わせながら、二人は互いの情報の間に致命的な齟齬があることに、今更ながらにして気付いたのです。
 少女は自分の失言をひどく悔いました。知らなかったのであればずっと言わないままにしておけばよかった、とも思いました。そうしていればこんな風に驚かせたり、変に気を遣わせたり、傷付けたりせずに済んだでしょうに。けれども目を細めてニコニコとしながら真っ直ぐに見てくる猫から逃れることは、もうできそうにありません。少女は青ざめた顔のまま、話すしかありませんでした。

「わたし、此処とは違う別の……魔法のない世界から来たのよ。だから魔法が使えなくて、身寄りもなくて……。帰る方法が見つかるまで、この学園の生徒として此処に置いてもらっているの」
「……」
「ごめんなさい。てっきり、リドル先輩やトレイ先輩から聞いて知っているものとばかり」
「……いいやあ? おみゃーが謝る必要なんかこれっぽっちもありゃせんよ。おみゃーが何処の誰だろうが俺はちっとも気にせんからなあ。でも、ふぅん、そうかあ」

 少女の手は震えていました。猫ではなく少女の方がひどくショックを受けているようでした。ぽと、と軽い音を立ててテーブルの上に落ちた飴は、背表紙のところだけ先に舐めたせいでタイトル部分が溶けて、ほとんど潰れてしまっています。もう、読み解くことはできそうにありませんでした。

「行きたいところがあるんだなあ。いや、帰りたいところ、だったか。そうかそうか。おみゃーにとって此処は……本物の『悪い夢』だった訳だ」
「……」
「探し物や道案内は得意なつもりでいたが、連れて行ってやれないのが残念だにゃあ」

 悪いねえ、と猫はひどく穏やかに呟いて、眉を下げつつ優しく笑いました。そんな優しい顔を見たのは初めてのことだったので、間違えたのだ、と少女は一瞬にして悟ってしまったのです。
 何処でどうすればよかったのか、反省も後悔も今は何も思い付きません。ただ、こんなにも優しく楽しいお茶会の相手にこのような顔をさせてしまったのが、他ならぬ少女自身の抱えた秘密である、という事実だけが、少女の目の前を真っ暗にしました。彼女が悲しくなる理由、なんてことをしてしまったのだろうと自身を責める理由など、それだけで十分でした。とても、とても苦しくなって、わっと泣き出してしまうしかありませんでした。

「謝らないで。……あなたは悪いことなんか何もしていないもの。こちらこそごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「あっはは、こらこら泣くにゃあ。だいじょーぶ、何にも気にしてないさ」
「……もう此処に来るの、嫌に」
「まさか」

 嫌になった? との問い掛けに被せるように、最後まで言わせまいとするように、猫は即座に否定しました。さあどうだろうにゃあ、などといつものように誤魔化すことさえ忘れていました。
 ああもしかしたら此処にある本のタイトル全て、少女にとっては読んだこともないようなものばかりだったのかもしれない。そんなところでさえ、俺達は相容れていなかったのかもしれない。そんなことを考えながら、読書家でもないのに、猫は彼女の元いた世界にある本に少しだけ思いを巡らせたくなったのでした。

「ねえチェーニャ! あなたが三年生だなんて知らなかった!」

 テーブルの上に置かれたグラスがふわりと浮き上がったのを見て、少女は叫ぶような剣幕でそう抗議しました。林檎ジュースがグラスの中でぴちゃりと小さな波を立てます。ニヤニヤといつものように顔を現した猫に、少女は更に抗議しました。

「年はわたしと同じだって言っていたじゃない、嘘だったのね! 二年生のドミニクさんがあなたのことを『先輩』って呼ぶなんて、おかしいと思ったのよ!」
「にゃはは、何を怒っとる? 十六も十八も同じじゃろうに」
「大違いよ!」

 VDCの合宿として使われていた寮はここ数週間、とても賑やかだったのですが、総合文化祭の終了と共にいつも通りの静けさが戻ってきました。けれども賑やかであった日々の記憶が、静かな時間をより静かに感じさせてくるので、少女は少し、寂しいと思い始めていたところだったのです。
 だから少女はきっと「待って」いたのでしょう。林檎ジュースをグラスに二杯注いだのだって、透明な手がそのグラスに伸ばされるのを期待してのことです。一人で二杯分飲むために用意したはずがなかったのです。そして気紛れなはずの猫は、少女の期待へと見事に応えてみせました。久しぶりのお茶会と、バレてしまった実学年について追及されることを楽しむために。

 けれども少女の「追及」は長くは続かず、むしろ申し訳なさそうに肩を落として「ごめんなさい」などと言う始末です。おやこれは、と少し焦った調子で思いながら、猫は顔だけでなく全身を出して椅子に腰掛けます。そういえばこの子は、礼節については少々厳格なところがあったのだった、と思い出しながら。

「先輩に対してわたし、これまで、失礼な物言いを沢山しましたよね」
「ああ、要らんよそんな堅苦しい。たかだか二年の誤差で丁寧にされたくないから同じだと言ったんだ」
「……いえ、でも」
「この俺様の健気なお願いをおみゃーは汲んでくれんのか?」

 健気な、のところに相当のアクセントを置いて、ぐいと身を乗り出しつつそう尋ねます。不自由な気持ちのときには楽しいことを考えればいい、とは猫の友人の言葉でしたが、この少女においては真理でさえありました。そしてそれはそのまま猫の思いにもなりました。
 楽しいことを考えさせてあげたい。笑わせてあげたい。申し訳ない、心苦しいなどと思わなくていい。できるだけ自由な気持ちのままでいさせてあげたい。

「……ふ、ふふ! 健気なお願いだなんて、狡い言い方!」

 そして幸いにも少女は、猫の口から飛び出すでたらめでおかしな言葉たちが大好きなので、ほら、こうして気持ちを乗せつつおどけてみせればちゃんと笑ってくれるのです。

「あなたがこれでいいならこのままにするわ。でもわたしを騙すようなのは好きじゃない。言いたくないことやしてほしくないことはそう言ってくれればいいの。誤魔化したり黙ったりするのはいいけれど、嘘で欺こうとはしないで」
「いやいや、俺は嘘のつもりはなかったのさ。俺にとっては二年差も数か月差も同じ。おみゃーにとってはそうじゃない。だからこれは嘘かどうかじゃなく、現実を見る力の差、価値観の違いに過ぎん。俺ばかりを責めるのはお門違いというものじゃにゃーか?」

 そうした笑えるようになった彼女の、先程よりもずっと自由になった思考へ、猫は鋭く問い掛けます。不自由な気持ちで紡がれる事実や義務や作法を聞くよりも、自由な気持ちで語られる、少女自身の考えを、見え方を、聞いていたい。猫が以前から思っていたことでした。すなわち彼女がこうして元気になってくれることは、彼女だけではなく猫にとっても、相応に楽しく嬉しいことだったのです。

「嘘を吐かないようにすることはできるだろうさ。何なら今此処で約束してみせてもいい。だが現実の見え方や価値観の違いはどんなに約束したところで埋まらんよ。どのみち俺たちは、誰の何とも相容れない、おかしくて寂しい生き物なのさ」

『誰も彼も、助けなんか要らないくらい強いのに……誰かに助けられることを待っているような、寂しそうな人ばかり』
 以前、少女が猫に話した「寂しい」をなぞる形で猫は語りました。その言葉の中に含まれた「相容れない」には……二者の生きる世界がどこまでも捻れており、このお茶会の時間だっていつかなくなるのだろうという諦念と、本当は相容れるようにしたいのだけれどなあというささやかな執心が含まれていたのですが……流石にそのようなことまで察せるほど、少女は聡明ではありませんでした。

「……じゃあもっと話をしましょう」

 けれども聡明ではない代わりに少女は、歩み寄ることを選んだのです。

「あなたにとっての同じと、わたしにとっての同じがどれだけ違うか、沢山話して、分かり合いましょう。それでも埋められない違いが残るなら……それはもうどうしようもないことだわ。その場合はわたしが努力する」
「努力?」
「今回のことは、あなたがわたしを嘘で騙そうとした訳じゃなくて、この現実の見え方や価値観の違いによって起こった事故なんだって、ちゃんと思えるようにする。信じられるようにする。同じように、あなたとわたしがどこまでも相容れない生き物だってことも、悲しむだけじゃなくて、面白く楽しく思えるようにだって、してみせる。だからそのためにもっとあなたと話をさせて」
「……」

「あなたのことを、もっと信じさせて」

 おや、と猫は驚いて、そして嬉しくなりました。それはまさしく、猫が少女に願っていることだったからです。互いの目に見える現実の違いを会話によって擦り合わせていき、自由な思考で沢山のことを考え、笑い合う時間を、猫はそれなりに愛していたからです。同じことを願ってくれている。その事実がくれる喜びを処理しきれず、猫は少し狼狽えました。誤って姿を消してしまいそうになるくらいには、動揺していたのです。

 ただ「それは俺がずっと思っていたことだ」と告げたところで、まだこの少女は猫の言葉を「信じない」でしょう。「そんな嬉しいことを言ってくれたところで、今日はもう林檎ジュースしか用意がないのよ」などと茶化し文句が返ってくるだけに決まっています。信じてもらうには、今の猫が抱えるそれなりの愛をほんとうの愛に変えるには……やはり少女の言う通り、もっと話をするしかないようです。

「……おみゃーに」

 ぽつりと呟いてニヤリとしながら、望むところだ、と猫は思いました。一か月かかろうと一年かかろうと、百年越しの願いになったとしても、構いやしないと本気で思っていました。叶ってしまえばそれはもう猫にとっての「近道」にほかならないのですから。そうしたでたらめだって、きっと最後には少女も笑って喜んでくれるに違いないのですから。

「ほんとうの意味で信じてもらうのは骨が折れそうだにゃ」
「猫にも骨はあるのね」
「そりゃそうだ。そこはおみゃーと同じ。指だってほれ、この通り」

 猫はにいと笑って両手を差し出しました。少女も笑って握り返してきました。その指の中に硬い骨が通っていることを確かめるように、彼女は自身の手で関節部分を触ったり、爪の周りを掴んだりしました。ささやかな、傍目には何をしているのかさえ分からないような指先でのじゃれ合いに二人は顔を見合わせて笑いました。本当だわ、と骨があることに安心してからも、少女はしばらくその手を離すことができませんでした。猫もまた、目を細めたまま、彼女の好きにさせていたのでした。

 大きな猫の手には肉球もやわらかい毛も生えておらず、少女と同じ五本の指に丸い爪が生えているばかりだというのに、二人はこんなにも違いました。見目も年も性別も、住む世界さえ、こんなにも。
 それでもその違いや相容れなさを、悲しむのではなく楽しんでいたいと彼女が言ったので、猫もまた、彼女の手の小ささや冷たさを楽しんで、喜んで、慈しんでみることにしたのでした。体温が少女よりもやや高いという点においてのみ、猫は本当に猫のようでした。

 それが、この談話室での最後のお茶会になったのです。

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