<5>
かくして別れの日は来た。監督生が元の世界へ帰る日、トレイにとってはそれに加えて、友の本体を失う日だ。
鏡の間へは多くの生徒が集まっていた。いずれも監督生へと関わることで、あるいは監督生を巻き込むことによって「ほんの少し」の変化を知った者たちだった。ハッピーエンドを見ることは叶わなかったが、それでもその変化により個々に「ほんの少し」救われたと感じる者たちに見送られ、世界を飛び越えて帰っていくこの光景は、もしかしたら本当の「ハッピーエンド」と称するに相応しいものであるのかもしれなかった。
彼女は一年生たちの輪の中央でぐしゃぐしゃに頭を撫でられていた。笑いながら大人しくしているのかと思いきや、ぐいとその小さな手を伸ばして負けじと奴等の髪をぐしゃぐしゃにし始めたので、周りにいた上級生の連中は少なからず驚き、そして笑った。整えたオールバックを台無しにされ大声で怒鳴るセベクから逃れるため、彼女はその喧騒を抜け出し、リドルたちの待つ二年生の輪へと入っていった。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら彼女を抱き締めるカリム、黙って優しく微笑み頭を撫でるシルバー。リドルやアズールに涙声で挨拶をしながらかたく握手を交わした身で、リーチ兄弟には舌を出しつつ手を振り追い払うという邪険な態度を見せた。
公平であるが故に遠慮を知らず、誠意を重んじるが故に好き嫌いを隠さず、真面目であるが故に正直が過ぎる……そんな彼女の、随分と生きやすそうでもあり生き辛そうでもある絶妙な態度にトレイは苦笑する。するとその声を拾われてしまったらしく、彼女はトレイの方へと真っ直ぐ歩み寄ってきた。
「……」
この学園の生徒たちに、そしてこの学園の未来に、それぞれ「ほんの少し」をもたらし続けて来てくれた異分子は、改めてこうして向き直っても、本当に「ただの女の子」でしかなかった。大人びている訳でも幼すぎる訳でも、目を見張るような美貌である訳でもない、弁術に長けている訳でも運動神経に優れている訳でもない、勿論魔法だって使えない、どこまでも平凡な年相応の女の子。ただ、リドルと同じかやや低いかもしれない背丈で、トレイのような高身長の人物に対しても臆することなく真っ直ぐに見上げてくる、その真面目が瞳に焼き付いたような眩しく熱い視線だけは、やはりあの頃と変わらず、普通じゃない……と言えるような気がした。
『あの子の思い出にだけはなりたくないんだ』
あの図書館で彼が発した言葉を思い出しながら、トレイは微笑む。
なあケイト、お前の気持ちが分かる気がするよ。俺がもしこの子をそういう意味で好きになっていたなら、この大きな目に自分が映らなくなることを、きっと……それこそ世界の終わりであるかのように辛く悲しく、寂しく思ったかもしれないから。そんな世界の終わりを回避するためなら、愛してしまった人の目に映り続けるためなら、俺だってきっと、どんなことだってやってのけようとしたに違いないから。
「ケイトを、頼む」
奇しくもあの日と同じ言葉がトレイの喉元から零れ出た。そんなことを言うつもりは微塵もなかったが故に、彼女は勿論、口にしてしまったトレイもまた驚いていた。いや違うんだ、そうじゃなくて、何言ってんだろうな、と慌てて言葉を並べたところでどうしようもなかった。コホンと咳払いしてからトレイは苦笑しつつ、深呼吸をした。
「元の世界でも元気でいてくれ。立派になんかならなくたっていい、無理して大きな事をしようとしなくたっていい。ただ元気に、楽しく、長生きしてほしい」
それらしい別れの言葉をなんとか絞り出してから、トレイはほんの少しだけ泣いた。彼女のためとは言い切れない、少し卑怯で少し寂しい涙を、目元を拭って袖に吸わせて、笑った。
彼女はそんなトレイを真っ直ぐに見上げていたが、やがてリリアが彼女の肩に腕を回したことにより、あっという間に今度は三年生の輪の中へと引きずられて行ってしまった。
最後に、学園での生活を共にしたグリムとかたく抱き締め合い、その小さな体を床へと下ろせば、いよいよその時が来る。彼女はみんなに向かって深く頭を下げてから、はにかむように肩を竦めて笑いつつ、手を振る。
トレイを除く全員が彼女を見ていた。トレイだけはケイトのことを見ていた。けれども彼はトレイの視線に気付くや否や、ほら、と彼女を指差してそちらを見るよう促した。トレイはケイトから視線を外すのが怖かった。外せば、その瞬間、このケイトは分身へと入れ替わり、二度とは戻ってこないことが分かっていたからだ。
「……」
彼の変わらぬ笑顔を目いっぱいに焼き付け、同じく笑顔を贈り返してから、トレイは意を決して、監督生の方へ視線を移した。みんなへと満遍なく向けられていたはずの視線、その真っ直ぐな目がその瞬間、何故だかトレイの方をじっと見ていて、驚きのあまり息が詰まった。
……こちらこそ、クローバー先輩。
彼女の口が音もなく、そのように動いた気がした。
光る鏡がその輝きを増し、この場にいる全員の視界を奪う程の閃光を放つ。パタパタと監督生の方へと駆ける靴音を鼓膜に捉え、トレイは懸命に目を凝らせた。白い光の向こう、彼女の小さな手を包むように握った長い指が誰のものであったかをトレイだけが知っていた。
「……」
悲しかった。悲しくて悲しくて堪らなかった。その悲しみ具合がいっそ笑えてしまえる程に酷かったものだから、トレイはこの別離による悲しみに、何処まで浸り尽くせるか試してみたくなった。耐えられなくなる程であればユニーク魔法でも何でも使って感情を塗り替えてしまえば済むことだと分かっている。それでも今日は、今日だけは悲しみ尽くすのも悪くないのではと思えてしまった。
今日はもう、食べ物の味が分からなくなるくらい絶望してやろう。枕がぐしょぐしょになるくらい泣いてやろう。そうして無事に明日を迎えられたなら、トレイは変わらず彼の友人で在れる気がした。彼の真偽にかかわらず、彼との友情はこれから先も続いていくだろうと確信できる気がした。これから先、を『信じられない』質である彼の分まで信じてやれる気がした。
「あーあ、帰っちゃった。無事に元の世界に戻れてるといいね」
「……」
「ほらほらみんな! もうすぐ授業が始まるよ、早く準備しなくちゃ! 特に一年生、今日は魔法史のテストでしょ。トレイン先生には『お見送りしてました』なんて遅刻の言い訳、通用しないんだからね?」
静まり返った鏡の間、すすり泣きがあちこちで聞こえるこの空間、彼はそれをいつもの明るさで軽快に破きにかかった。トレイの肩にそっと腕を預けつつ、笑いながら自寮の生徒たちにそう促している。昨日までと何も変わらない、ケイト・ダイヤモンドの姿がそこに在った。
昨日までと何も変わらない、ケイト・ダイヤモンドの姿がそこに在った。
昨日までと何も変わらない、姿が。
「トレイくんのクラスは午前中、錬金術だっけ?」
「……ケイト」
「ん? どうしたの。オレ、朝から飛行術で着替えなくちゃいけないからさ、そろそろ」
「どうして」
予想外の過ぎる混乱が津波のように押し寄せ、息ができなくなった。トレイの膝は実に呆気なく、カクンと折れた。崩れ落ちないようにと何とか片腕を床に付けて体を支えたけれど、力の抜けたこの脚では此処から立て直すことなどできそうになかった。
くらくらと揺れる視界の中央になんとかして「彼」を収めるべく、トレイは眉をひそめながら顔を上げようとする。でもあまりにも光が眩しい。頭が重い。気持ち悪い。吐きそうだ。口を押さえて背中を丸めれば、胃の中身の代わりに涙が溢れてその手を濡らした。周囲のざわつきの中、繰り返し「大丈夫?」と奏でられる彼のやや高い声が、トレイの気分を益々乱していった。
「ケイト、……け、イト」
「どうしたのさ、落ち着いて。ね、トレイくん」
「どうして、いるんだ」
「……」
「どうしてお前が、こっちに残った!」
他の誰が気付かずとも、トレイには分かる。このケイトは「本体」だ。分身を前にしたときに訪れるお約束の違和感が、このケイトを前にしても全くやって来ないからだ。何より、トレイの怒声を受けた彼がとぼけることも言い返すこともせずに、困ったような笑い声を落としている。申し訳なさそうな沈黙が、トレイの判別に「大正解」と花丸を付けているのだ。
最早疑いようもない、このケイトは間違いなく本体だ。ではついさっき、鏡の向こうへと消えてしまった彼は、彼女の小さな手を握って異世界へと旅立ったあの彼は、まさか。
「あの子ね、『オレくん』じゃなきゃ嫌なんだって」
「!」
「これまで生きてきた18年を捨ててあの子を選ぼうとするオレのことは、どうしても好きになれないんだって。酷い話だと思わない? オレ、こんなに頑張ったのにさ」
『こちらこそ、クローバー先輩』
監督生の、音にさえならなかったあの言葉をトレイは思い出した。あれはまさか「こちらこそ、ケイトさんのことをよろしくお願いします」という意味だったとでもいうのか。トレイが喉から手が出る程に欲しかったそれ、度重なる説得の果てに諦めざるを得なかった「本体の存在」を、彼女はあろうことか拒絶してこちらへと留め置かせたとでもいうのか。彼女は自らの手を包むあの指が分身のものであることを分かった上で、元の世界へ帰還していったとでも。
「あの子がずっと、元の世界に帰りたがってたのは知ってるよね? これまでの人生の全部を捨て置いて、こっちの世界を選ぶことなんてできそうにないって、いつも言ってた。だから、たった16年しか生きていない自分でさえ捨てられないようなものを、自分よりも二年長く生きているオレに捨てさせる訳にはいかないんだってさ。失うものが二年分多いオレに、そんなこと絶対にさせられないって」
「……そ、んな」
「うん、酷いでしょ、惨いでしょ? でもね、あの子のそういう、公平性とか誠意とかそんなものばっか大事にしたがる、真面目で融通の利かない生き辛そうなところ、大好きなんだ、オレ」
伸びてきた手がトレイの眼鏡を外していく。涙でぐしゃぐしゃになった視界は、視力矯正の道具を失ったところでほとんど変わらなかった。男性があまり好むものでないような「可愛さ」を二人の姉から押し付けられて育った彼は、その所持物も大抵が愛嬌のある可愛いもので構成されている。ほら、と笑いながら乱暴に押し付けられたハンカチにも、猫らしき動物のマークが付いているのがぼんやりとではあるが確認できる。ああこれは刺繍だろうか、それともプリントだろうか。
「オレの気持ちは尊重したい。でもオレに不義理を働かせたくはない。どっちもギリギリで許せるラインが『分身の方と一緒に行く』だったんだよ、あの子にとってはね」
「なあ、ケイト」
「いいんだ、ちゃんと納得してる。オレの気持ちは全部あいつに託してきた。あの子にとってはオレがあいつであいつがオレ。だからいいんだよ、これで」
涙が止まらない。悲しんでいるからでも喜んでいるからでもないのに、泣き止めない。受け入れたくない。認めたくない。もう取り返しが付かないのだと、もう終わってしまったのだと、分かりたくない。納得などできない。いいんだ、などと言えるはずもない。
「ごめんねトレイ、折角許してくれたのに、応援してくれたのに」
もし此処に事情を知る第三者がいれば、苦しみを吐き出すように泣くトレイの姿を訝しみでもしたのだろうか。
何故喜べないのかって? 本体、を譲ってくれた監督生に感謝すべきじゃないかって? これからも本物の友人と一緒にいられるなら、お前にとってこの結末は万々歳じゃないか、って?
冗談じゃない。
その「これから」が信じられないからこそ彼は旅立とうとしたのだ。二年半の歳月を同じ学び舎で過ごした、気の置けない友人であったはずのトレイでさえ、一度離れれば「信用に足らない」とするのが彼の性なのだ。彼女に付いていかなければ、未来永劫、彼の安寧は手に入らない。その確信があったからこそ、彼は身を粉にする勢いでユニーク魔法を磨き続けていたのだ。
友の半分を失うことは苦しい。我が身が割ける程に辛い。それでもこうして送り出せたのは、最早この友人が幸せになる道はそれしか残されていないのだろうと分かってしまったからだ。不信を重ねすぎたこの世界に見切りを付けて、絶対に「思い出」と化さないような居場所を、彼にとっての夢の国を探すための旅。そうであったからこそトレイは送り出そうと思えた。そのための己が苦しみくらいどうとでも塗り替えてやる覚悟が出来ていた。
「悔しい」
でも、これは。……これではまるで、もう「諦めてしまった」かのようではないか。また「諦めていた頃」に戻ってしまったかのようではないか。
こちらの世界で彼の求める幸福が手に入らないことが分かっていながら、それでも彼女の言うところの「公平性」だとか「誠意」だとかのためにこちらへ身を置き続けることを選んだ彼が、あちらの世界へ旅立った分身以上の幸福を手にする道など、もうどう足掻いたところで残されていないではないか。
こんなことがあっていいはずがない。彼に、友の想いの果てに、こんな深く悲しい傷しか残らなかったなんて。
「あははっ、ねえちょっと! なんでトレイが泣くの!」
「……うるさい、構うな。放っておいてくれ」
「ちゃんと立てもしない状態でそんなこと言わないでよ。オレ、此処にいるからさ。もう泣き止みなって」
「此処にいるって……それは、お前の望んだ形じゃなかったろ。なあいいのか本当に。お前、取り零したんだぞ、あんなに鮮やかだって、魔法みたいだって喜んでた、あいつとの世界を」
「うん、そうだね。勿論悲しいよ。あの子のいない世界は彩度が低くて冷たくて、泣きたくなるよ。でもさ、オレの望んだ形を、幸せを、こんな形で取り零す羽目になったとしても、それでも……あの子の嫌がることだけはできなかったんだ」
残念なことに、トレイは「そういう」風に人を好きになったことがない。だからケイトの言っていることが半分も分からない。だから友人の想いの顛末、人を好きになった結果、愛した結果が、このようなもので終わることに、最後までどうしても納得ができなかった。
愛のため、彼女と一緒にいるため、禁術レベルにまでユニーク魔法を磨き続けた彼が、けれども愛のためにまた一人になる。そして彼の愛はもう二度と報われることがない。少なくとも「この彼」にはもう、愛による幸福は訪れない。
悔しい。遣る瀬無い。お前が許せても俺が許せない。
「オレが捨てようとした世界のこと、あの子が拾い上げて大事にしてくれたんだ。まだ捨てるべきじゃないって、貴方が本当に諦めちゃいけないのはこっちだって言って、オレの手の中に戻してくれたんだ。だからオレも、諦めずにもうちょっと頑張ってみようかなって、思って」
けれども友がくれたその言葉で、納得はいかずとも、トレイは最後の最後に「ほんの少し」だけ、安心できたような気がしたのだ。
忘れられたくないと願い、思い出なんかになりたくないと願い、共に生きていきたいと思える相手のためにユニーク魔法を磨き上げ、けれども寸でのところで拒まれて、置いて行かれて……。そんなこんなで何もかもが嵐のように過ぎ去った後の、友の心に残ったのは「諦めずにもうちょっと頑張ってみよう」と思えるようになったという「ほんの少し」の変化だけだった。
それは、この学園に生きる生徒たちに訪れた変化の量と比べるならば、成る程確かに公平であったのかもしれない。けれどケイト・ダイヤモンドが彼女に向けた想いと比べるならば、その救いの量は実に不公平で、不実であったと言わざるを得ない気がした。ただその不公平も不実も、第三者であるトレイが糾弾していいものではきっとない。彼女がこう在ることを願い、彼がそれに応えた上でこれでいいと笑っている。ならばこれで本当に終わったのだ。終わるしか、なかったのだ。
彼女は去った。残された者たちは彼女のおかげで「ほんの少し」ずつ、変わった。ケイトは幸せになる権利を己が分身に譲り、彼自身はこの、諦めるしかなかったとばかり思っていた世界で、もう一度、諦めることなく生きていく。
ああそれならば覚悟しろ、覚悟しろケイト。お前が諦めることなく生きるのなら、俺だって金輪際、お前の友人を、諦めない。
「ああ、頑張ろう。……頑張ろうなケイト」
濡れた拳を互いに突き合って、二人は笑った。ケイトから眼鏡を受け取り掛け直して、顔を上げて……そこで初めてトレイは、明るい声音でトレイへと話しかけ続けていた彼が、トレイの比ではないくらいに顔をぐしゃぐしゃにして泣いていることに気が付いたのだった。