Empathic painful love

<2>

 こいつが「帰りたがっている」ことは学園の連中のほとんどが知っていた。いついなくなってもいいようにと、私物の一切を持ちたがらないことも周知の事実だった。生徒からのちょっとしたプレゼントさえ受け取ろうとしなかった。オンボロ寮の修繕道具、使えばなくなってしまう日用品や食品、学ぶための学術道具、迫りくる冬に備えての防寒着、彼女が受け取り求めるのはそういうものばかりだった。生きていくために必要になるもので、かつ「持ち主不在の思い出の品」に化けてしまうおそれのないものだ。
 錬金術で精製できる薬に夢中になったのは、それが魔力を持たない彼女がそれなりに取り組める唯一の実技であったことに加えて、自らの作ったものが、彼女がいなくなった後も学園に有用な形で残ると確信したからという、そうした理由も隠れていたのかもしれなかった。学園にストックされた薬を使う側の生徒は、その薬の製作者が「誰」であるかなどほとんど気にも留めない。ささやかな形ではあるが、自分の作ったものは絶対に益になる。持ち主不在のゴミになることは在り得ない。彼女はきっとそのことに安心したのだ。薬なら、思い出になどなりようがないだろうと。

 この世界で楽しめることは楽しんでおきたい。みんなの役に立てることがあるなら取り組みたい。でもいずれ帰ることになるから、残るものを所持していたくはない。思い出は置き捨てていきたくない。
 そんな弱者の言い分。誰にも迷惑を掛けておらず、むしろ誰しもの力になりたいと奮起している真面目で健気な草食動物の、唯一の「帰りたい」という我が儘。そんなものに己が情緒を引っ掻き回されていることがレオナは我慢ならなかった。だから苛立ちを隠そうともせず、大きく舌打ちをして吐き出してしまった。

「こっちへ腰を据える度胸もない癖に、掻き回すな。中途半端な執心なんざ迷惑なんだよ」

 ……何を言っているんだろう。何故そんなことでこいつに憤らなければならないのだろう。
 そうした、自らの苛立ちと、その苛立ちが放たせた言葉に当惑しかけていたレオナに、監督生は濡れたタオルを胸元に抱き直しながら追い打ちをかける。

「貴方だって」
「あ?」
「貴方だってお兄さんや甥っ子さんを殺せなかったのに?」

 熱中症の余韻を色濃く残しても尚、「猛獣使い」と形容されたこいつの刃は鈍らない。魔法を使えず身寄りもないこの人間は、学園においてカーストの底辺に位置しているはずなのに、その小さな口で為される反論は強者さえ怯ませる程のそれだ。そのアンバランスな弱さと強さはもう三度も、この学園における絶対的強者だった奴等の柔らかく脆いところを踏み抜いている。リドル・ローズハート、アズール・アーシェングロット、そして。

「前に話してくれたこと、覚えていますよ。レオナさんの頭上にはずっと大きな岩があって、そのせいでずっと窮屈だったんですよね」

 細められた柔らかい目がレオナを見上げる。頬を綻ばせ、僅かに微笑んでさえいる。こちらを責める意図がある訳ではないことは明白だった。むしろ何かに喜んでいるようにも思われた。だがその「何か」が推し量れる程、レオナは草食動物に明るくなかった。
 弱者の心持ちを理解することは難しすぎる。カーストの頂点に位置している彼の牙が眼前にあっても尚、臆することなくそのように微笑める監督生の意図など、到底分かるはずもない。

「でも岩なんか、どかしてしまえばよかったのに。邪魔な人はみんな蹴落として、一番になってしまえばよかったのに。レオナさんくらい賢くて強い人なら、できたはずなのに」
「……」
「貴方の心が邪魔をしているんでしょう。貴方が持っている優しい気持ちのせいで、貴方は苦しんでいるんでしょう」

 王位継承権を持つ甥と、現王位である兄を蹴落とせない理由。国を捨てて新しい場所で一番になることを目指せない理由。それらを簡潔に表す言葉として「情」という単語を彼女は選んだ。レオナは舌の上でその音を何度か転がしてみた。
 こんな言葉は嫌いですか、と少し不安そうに問うてきたので、別に、とぶっきらぼうに返した。乾いた簡素な肯定でしかなかったにもかかわらず、ただそれだけのことを喜ぶように彼女は笑って、ゆっくりと体を起こした。レオナはその手からタオルを取り上げた。よく冷やしておいたはずのタオルは、監督生の熱を吸って温くなっていた。

「王様になれない苦しみも、正当な評価を受けられない苦しみも、偉くも賢くもない私にはピンと来なくて。理解と把握しか、できなくて。でも甥っ子さんやお兄さんや生まれた国を切り捨てられない苦しみなら、分かります。ちゃんと共感できる気がするんです」

 一番になりたいのならなってしまえばいい、貴方にはそれだけの知能と実力があると監督生は断言する。そしてその方法が目の前にあるにもかかわらず、実行に至れないレオナのことを柔らかく非難している。そしてその不実行が、レオナの実力不足や怠慢によるものではなく、彼女の語るところの「心」「優しい気持ち」に起因するものであることに安堵している。その「心」による不実行に彼女は理解を示し、その苦しみに共感できることを……喜んでいる?

「情を、覚えてしまったんですね私達」

 情。それは、この監督生がこの世界に留まることを選べなくしているものの正体である。いつか帰るという唯一の我が儘であり絶対の願いを捨てきれなくさせているものの正体である。レオナに兄や甥を蹴落とし切り捨てることを躊躇わせるものの正体でもある。レオナと監督生の生きづらさを結ぶ共通点である。レオナと監督生が互いに苦しみ合っている真の原因である。
 そんなものを、こいつはひどく嬉しそうに語っている。いつもの暢気で無邪気な笑い顔であるにもかかわらず、そこに見える妙な色の影は、もう手の打ちようがない病者の目元に差すようなそれである。レオナにはその笑顔がむず痒く思われてならない。

「それがどうした。草食動物の分際で俺を憐れんでいるつもりか?」
「……えっと、ごめんなさい。喜んでいるつもりでした」

 ……訂正しなければならない。嬉しそうに、ではなく、本当に嬉しいらしかった。喜んでいるつもりだとはっきり口にした彼女には、どうにも俺の苦しみやら不実行やらが喜ばしいものに映っているらしい。
 勿論、そこに未来永劫二番手に甘んじなければならない俺への嘲笑が含まれていないことは分かる。そうした悪意の類がないことくらいは簡単に信じられる。だからこそ「どういうつもりだ」と思ってしまった。その答えを自分では導き出せない以上、レオナは彼女の言葉を待つしかない。そして彼女は、レオナの沈黙という形の待機にしかと応えるだけの誠意を持った人間だ。

「もしレオナさんが情を持てない人間だったなら、貴方の欲しいものはもっと簡単に手に入っていたはずなんです。でもそんな貴方だったなら、きっと私はさっきの熱帯エリアに置き去りにされていました」
「はっ、だろうな」
「貴方に情があったから私は助けてもらえたんです。貴方に情があったからお兄さんも甥っ子さんも生きているんです。だから私は、情っていう理由で頭上の岩を退かせられないレオナさんのことを嫌いになれないし、そんな貴方にこそ、いつかハッピーエンドを見てほしいって思うんです」

 永遠の二番手にハッピーエンドとは笑わせる。めでたい夢を見がちな草食動物らしい、とんだ戯言だ。戯言……戯言か? こいつの本気の願いは本当に下らないものか? 戯言と唾棄して忘れて砂にして、それで俺は後悔しないか?
 レオナの思考はそこで一度止まった。監督生の言葉は止まらず、切なる祈りは無自覚な追い打ちをレオナにかけていった。

「こんな風に考えている人、きっと私以外にも沢山いますよ。その人たちにとっては貴方が、レオナさんこそが王様です。だからサバナクローの皆さん、口を揃えて言うんでしょう。王様万歳、って」

 近い将来、元の世界に帰ることを前提にこの学園で懸命に生き抜こうとしているこいつの意思が苛立たしかった。情に飲まれ、身を削るように苦しんでいるこいつがひどく憐れだった。そしてレオナがそう感じているのと同じように、監督生にも、兄や甥や国を切り捨てられず怠慢に甘んじ、覚えてしまった情というものに苦しんでいるレオナのことがそう見えていたのかもしれなかった。弱肉強食の掟においてカーストの底辺に位置するはずの草食動物、そいつが紡ぐ戯言を、レオナはしかしもう「戯言」とは思えなかった。切り捨てられないのだ、情のせいで。

「それで?」
「えっ?」
「俺とお前の情に共通点があることと、お前が進んで苦しみたがっていることとはどう結びつくんだ。まさか俺と似た苦しみを味わって喜んでいる、なんて言うつもりじゃないだろうな」
「えっと、苦しむために動いている訳じゃないんですよ。自分の苦しさなんて、夢中で走り回っているときはずっと忘れています。ただ……」

 真っ直ぐにこちらを見上げた監督生は、そこまで答えてからへたっと眉を下げて笑った。どう続くのかさっぱり読めない微妙な笑顔だったため、レオナは口をつぐんで次の言葉を根気よく待った。彼女はその小さな口の裏側で言葉を組み立てているようだった。思い付きや気紛れで喋っているのではないと分かるその沈黙は、今のレオナには少々好ましいものとして映った。
 そして彼女は、口を開いた。

「ただ、こうして動き回った結果、私が皆さんやこの世界のことをもっと好きになって、その情が、一人になったときや元の世界に帰ったときに私をもっと苦しめるのなら、きっとその時初めて、この苦しみが貴方と揃いのものだったと思い出すことになります」
「……」
「それはきっと、私のかけがえのない救いになる」

 成る程、と頷いてレオナは笑った。笑って、そして妙な安堵を覚えてしまった。こいつが苦しめるものを「救い」と形容できるなら、揃いのものを「喜び」にできるのなら、それらはいつか我が事としてレオナにも降りかかってきて然るべきだと思ったからであった。
 つまりその理論に則るなら、俺はいつか、お前と同じように苦しむことになる。俺の捨てきれない情とやらのせいで俺は苦しみ、そしていつかこの苦しみがお前と揃いのものであったことを思い出し、……それがいつか、俺のかけがえのない救いになる?
 そんなめでたいことがあって堪るかと思う気持ちと、そんな面白いことが起こるのなら是非とも味わってみたいと思う気持ちとが、一対一くらいの比率でレオナの心中に渦巻いていた。手を顔に押し当て大きな溜め息と共に小さく俯いたレオナを眺めながら、彼女はクスクスと楽しむように笑った。手の隙間からチラリと盗み見れば、やはりその顔は暢気で無邪気な病者の色を孕んでいて、救いを語る奴の笑顔にしては救いようがない、などと思ってしまったのだった。

 今はまだ分からない。この情が「人生は不公平だ」と嘆く彼の恨みの矛先になるのか、それとも彼女の語ったような「救い」になってくれるのか、まだレオナには見通すことが叶わない。ただ事実として、レオナと監督生は同じ苦しみを味わっており、そして監督生の側ではそこに救いを見ようとしているのだった。それならば難しく考えずとも、そのめでたい思考へ揃えてやってもいいんじゃないかと思えてしまった。それでもいいかと笑えてしまった。
 なあ、だってそういうものなんだろう。お前が信じ、お前が救いにしたい「情」ってのは、俺やお前がこの先一人になるようなことがあったとしても「一人だと思わずに済むようなもののこと」なんだろう。

 問いかけることなくレオナはその目で監督生を刺した。彼の視線を正面から受け止めた彼女は、何のことだか分かっていないはずなのにしっかりと頷いて笑ったのだった。

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