ロマンティック・サクリファイス

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 さて翌日、彼女は大きな鞄を引きずって砂浜に現れました。丈の長い、淡いピンク色のワンピースと、同じ色をした細長いピアスを潮風にのんびりと揺らしながら、彼女は陸のファッションについて話してくれました。組織に属することを示す制服とは異なり、私服の多様性は髪型と同様、そのまま個性の演出のために使われるのだとか。彼女はシンプルなワンピースやヒールといった、大人しさ、淑やかさを演出するものを好んでいるようでしたね。実際、それらの装飾は彼女にとてもよく似合っていました。綺麗だったんです、とても。
 そうして会話を終えるや否や、彼女はワンピースもヒールも豪快に脱ぎ捨て、ピアスも乱暴に外して鞄の中に詰め込んで、今日はこれを取り上げてほしいと言ってきました。惜し気も恥じらいも見せぬまま、白いTシャツと短パン姿で朗らかに笑う彼女に度肝を抜かれながらも、僕はその重たい鞄を引き取りました。中には女性用のドレスや帽子や靴やアクセサリーの類が山ほど詰め込まれていて、どれも彼女に似合っただろうに、などと、やはりらしくもなく口惜しいことを考えたのですよね。

 更に翌日、彼女は素朴なシャツとパンツスタイルでやって来ました。陸で流行っている歌だとして聞かせてくれたバラード調の曲を、彼女は楽しそうに奏でていました。水ではなく空気を震わせて作る美しい旋律、それを夢中で聞いているだけで、時間はあっという間に過ぎました。そして……やはり彼女は笑いながら、今日はこの高い声を取り上げてほしいのだけれどね、と軽い口調で告げてきたんです。声を取る、となれば流石に魔法を使わない訳にはいきません。ですが僕の実力をもってすれば造作もないことでした。得意な魔法を奪うこと、自慢の尾ひれを頂くこと、美しいテノールをしわがれ声にすり替えること、対価としてそれを契約書の中に封印すること。ミドルスクール時代から何度もやってきたことでした。今回だってそれと同じこと。ええ、難なくこなせましたよ。僕の個人的な不安と苦痛を抜きにすれば、他愛もない仕事でした。

 何故、貴方はこんなことを?
 髪や衣服や声を手放し、女性らしさを次々に置き捨てることで、貴方は何になろうとしているんです?
 貴方の叶えたい願いとは一体、何なんですか?
 それは本当に、これだけの素晴らしいものを犠牲としなければ叶わないものだった?

 次々に浮かぶ疑問を、しかし僕はただの一つも尋ねませんでした。そんなことをすれば、にわかに芽生え始めていた僕の「弱み」が彼女に見抜かれてしまいますからね。ほら僕、感情が、言葉に引きずられて顔に出てくるタイプなので。

 嫌な予感を抱えながら、次の日も僕は砂浜に向かいました。その日彼女が話したのは、陸における男女の性差についてでした。女性にあって男性にないものの話をする彼女の横顔を、僕はおそろしい気持ちで見ていました。筋肉の隆起を感じさせない滑らかな肩や腰の曲線も、柔らかな脂肪で構成されたまるい胸の膨らみも、脚の付け根にあるという、子供を宿すための窪みも、男性にはついぞ持ち得ないものでした。そうしたことを低い声で穏やかに、いつもの笑顔のままに話していました。断じてそのような意図はありませんが、やましさを疑われることを覚悟で正直に告解します。その曲線も膨らみも、彼女にとても似合っている、と感じました。ええ似合っていました、似合っていたはずなんです。でも、彼女はやはりこう言ったんですよね。

「こういうもの、全て取り上げてくれないかな」

 自らが女性であることを完全に放棄するその依頼、男性の姿にすり替わることを望むその言葉。従わなければなりませんでした。僕の力をもってすればそれくらい造作もありませんでした。悔いることなど、胸を痛める必要など、何処にもないはずでした。
 僕は手元にある四枚の契約書を見ました。僕の字で記された、彼女からこれまで取り上げてきた全てのものへと視線を滑らせました。その魂を装飾する、彼女の元にあるからこそ素晴らしいと思えた髪や服や声や体のことを想うと、どうしようもなく遣る瀬無くなりました。彼女はお礼を告げつつ嬉しそうに笑うばかりでした。
 ええおかしいでしょう? 苦痛を覚えるなんてどうかしているんです。だって彼女はただの契約相手であったはずなのに。能天気で、考えなしの、搾取対象として絶好の人間であったはずなのに。僕は彼女から得た「成功体験」を自信の元手にして、これから陸で、僕の商才を思うがままに奮っていくはずだったのに。

 ……さて。
 何もかもを僕に取り上げさせてほぼ完璧に「男性」を装った彼女が、約束の最終日に取り上げてほしいと願ったものは、この五日間の記憶でした。成る程実に理に適っています。この五日間をすっかり忘れてしまえば、彼女の頭では「一瞬にして男性の姿を手に入れた奇跡」が起こったかのように錯覚できるのですからね。おまけに、おぞましい人魚と共に過ごしたという事実さえ忘れてしまえるのですから、彼女の元に残るのは、姿を変えられたという利益のみです。非常に「よく出来た」依頼でした。全てを手放し、損ばかりしているように見せかけておきながら、彼女はしっかり全てを手に入れ、全面的に得をしていったのです。
 もし僕が初日に「男性の姿に変えてほしい」という願いを聞き取ることができていれば、相応に質のいい変身薬を用意して、相応の対価を要求できたはず。迂闊でした。僕としたことが、見誤ったのです。彼女が先んじて示してきた見せかけの犠牲に怯んだばかりに、ろくな対価を求めることもできず、ただ僕ばかりが勝手に心苦しい思いをする羽目になってしまった。陸の人間との初めての交渉はこのように、大失敗に終わりました。
 ……もっとも、彼女は僕から対価を踏み倒す気など微塵もなかったようでしたけれどね。彼女はただ、一気に女性でなくなることへの恐れがあっただけです。何もかもを捨て置いていく様を、誰かに見守ってほしかっただけです。この契約の大失敗、原因は、彼女が僕よりも一枚上手だったこと、ではありません。僕が、彼女の手放そうとしているもの全てに愛着を見たことにより、単なる契約遂行に尋常ならざる苦痛を覚えてしまったこと、これに尽きます。

「全部取り上げてね。この五日間のこと、全部だよ。でないと私、悔やんでしまいそうになるから。もう会えない君のことを好きなままだと、きっとこれから先、思い出す度、ずっと辛いから」

 これは僕の一方的な失態であり、過失でした。僕が苦しんでいるのは、僕のせいでした。

 髪も服も声も体も、どれも彼女に似合っていました。彼女にこそ相応しいものでした。彼女が手放したそれらを僕自身の損失だと錯覚してしまえる程度には、僕はその相応しさを愛していました。百歩譲ってそれらが本当に必要な犠牲であったとして、僕が押し付けた時間を彼女が相応に楽しんでくれたのだという、その記憶の共有さえあればギリギリ採算がとれるような気がしていました。でも彼女はそれさえ手放すことを望んでいます。だから取り上げなければいけませんでした。中途半端な仕事は許されませんでした。僕の矜恃が許しませんでした。
 ……でも本当はそんなこと、したくなかった。嫌だやめてください捨てないで忘れないでと、みっともなく縋り付いて契約破棄に持ち込んでやりたかった。そうしてやれたらどんなにか、と思う程度には愛着があったんです。本当に好きだったんですよ。彼女が手放していった全てのものが。ただ穏やかで楽しいばかりだった五日間のことが。彼女のことが。

「ありがとう、海の魔法使いさん。君のおかげで願いが叶う。夢見た場所へ行ける」

 蛸の人魚である僕は、水中での暮らしと八本の脚を封じて陸へと上がりました。女性である彼女は、女性たる全てを契約書の中に封じ込めて、何処かに上がろうとしているようでした。彼女は何を夢見ていたのか、彼女にとっての「陸」が何処であるのか、本当にこれだけのものを犠牲としなければならなかったのか、彼女の犠牲は本当に報われたのか……。何も知ることのないまま、僕は全てを忘れた彼女に背を向けました。夢見た場所で彼女がこれ以上の犠牲を払う羽目になりはしないだろうかと、勝手に案じさえしていたんです。

 けれどもそれって、とんだ杞憂だったんですよね。だって彼女にはすぐに会えましたから。NRCに入学してすぐ、僕は同じオクタヴィネルの腕章を身に付けた「彼」と出会えてしまったのですから。彼女が女性の姿を捨ててまで上がりたかった「陸」は、なんてことはない、男子校である此処、僕と同じ舞台、NRCに他ならなかったのですから!
 招待状が手違いで女性の元へ届いたとき、彼女はそれはそれは歓喜したのでしょうね。そしてこの機会を決して逃すまいと思った。魔法士としての将来が約束される名門の養成学校、NRCは彼女にとって、自らの性別を捨ててでも上がりたい「陸」だったんです。明らかになってしまえばどうということはなかった。彼女が僕の手により望んだ「陸」へ上がれているという事実、願いを叶えたその姿をこんなにも近くで見られるという僥倖に、僕はたいへん満足しましたよ。
 ただ、商人としての僕に敗北を叩きつけた「彼」が、この、少々野蛮なところのある学園で落ちぶれるようなことがあっては我慢なりません。ですから僕、親切にも彼の友人として、学園生活をサポートすることにしたんです。僕のことをすっかり忘れた彼と仲良くなるのは、拍子抜けするほどに容易いことでした。彼が「彼女」であった頃の全てを犠牲にして上陸したこの学園での生活を、何にも誰にも脅かさせてなるものかという気概で、僕は執拗に彼へと関わり続けました。そんな僕の執着を、彼は「君は本当に親切な人だね」と、以前と変わらぬ陽気な心地で笑いながら許すばかりだったものですから、ええ、そりゃあ毒気も削がれるというものです。
 彼は座学も飛行術も魔力も平均並み、真面目でしたが隙の沢山ある方だったので、手を貸す機会はごまんとありました。ただ彼、音楽の才能だけは桁違いなんですよ。高く透き通る声を失っても尚、歌唱の技術は完璧でした。それに彼はピアノも嗜んでいるようでしたので、たまに昼休みの音楽室で待ち合わせて、連弾や弾き語りで一緒に遊ぶこともあったんですよ。……ねえ、僕等まるで友人みたいでしょう?

 おや、どうしました監督生さん。随分と青ざめた顔をしていらっしゃいますね。……ふふ、もう察しが付いているでしょうけれど、イソギンチャク騒動の折にはそれはもう焦りましたよ。砂になった500枚以上の契約書、あの中には彼女と結んだものも入っていましたから。女性の姿に戻ったところを見られた彼女が、性別詐称入学だとして学園を追われるのは自明の理。ですが勿論、そんなことはさせませんでしたよ。招待状の送りミスを起こした学園長と交渉し、特例として在学を認めさせることなど造作もなかった。
 ただ、妙に潔いところのある彼女は「もう此処にはいられない」として荷造りまで始めていたものですから、その説得には少々手こずりましたね。おかげで僕は彼女を引き止めるために、とんでもない犠牲を払う羽目になってしまいました。……まあ、後悔はしていませんけどね。人の心を揺さぶるには、契約を結ぶのではなく犠牲を払うに限るのだと、僕は他でもない彼女に教わりましたから。

 それに、貴方にはむしろ感謝しているんです。契約書を破棄しない限り、彼女が「海の魔法使いさん」を僕と一致させることは永遠になかったでしょうから。全てを思い出した僕の友人に、改めて名前を呼ばれることの至福は言葉にならないものでしたよ。
 陸に上がった女性と人魚は、かりそめの姿で友人ごっこに興じながら、互いの犠牲の果てに欲しいものをしっかりと手に入れて、大団円。以上が現在に至るまでの、僕が語れる唯一の恋物語です。

 僕の犠牲ですか? それは勿論、僕の弱みを自ら明かすことですよ。ほら「ずっと好きだった」とか「貴方を失いたくないからもう一度取り上げさせてくれ」とか、そんな告白、そんな懇願、ともすれば泡になりかねない致命的な弱みであり、矜持の損失でしょう? ロマンチックかどうかは知ったことじゃありませんが、そうした弱みの開示、嘘偽りない言葉こそが、当時の僕に払える最大の犠牲でした。その犠牲のおかげで説得は大成功、再契約を交わした彼女は今日も男性の姿のまま、元気に僕の友人をやってくれていますよ。
 彼女がこの学園を卒業し次第、取り上げた彼女のものを全て返すつもりです。その後のことはまだ考えていませんが、どのような形であれ、彼女の願いが叶い続ければいいと思っています。彼女が飛び回りたいと思う「陸」へ、僕の力でずっとずっと、橋渡しをしてやるんです。幾らでも力添えするつもりですよ。勿論その場合、橋渡しの通行料、力添えの対価は彼女との時間という形でしっかり頂きますけれど、ね。

 さあ、お楽しみいただけましたか? 僕がお話できることはこれで全てです。ポイントカード三枚分の誠意は示しましたよ。ご利用、ありがとうございました。

 此処からはただのお節介なので聞き流していただいても構いませんが……恋に夢を見る気持ちは分からなくもありません。ですが慎重になさった方がいいですよ。これは簡単に損失を生むものです。致命的な弱みを晒しかねない危険なものです。こんなものに呆気なく飲まれたせいで僕は、陸で初めての契約を棒に振ることになったのですからね。その屈辱は、いくら結末が好ましくあったところで帳消しにできるものではないんですよ。まったく忌々しい! ……コホン。まあ、あれはいい勉強代だったと思うことにしています。等価交換を徹底すること、契約の対象物に愛着を持たないようにすること、犠牲などという健気で綺麗な行為には十分に気を付けること。不本意ながら色々と教わるところがありましたのでね、あの大失敗からは。
 ですがこんなもの、僕はもう二度と御免ですね。……何って、恋のことですよ。あんな風に心を乱すような無様な真似は一度きりで十分です。もっと分かりやすく言うなら、そうですね……「僕は生涯、彼女以外に恋をすることはない」ということになるでしょうか。犠牲を払うのも、弱みを晒すのも、愛を差し出すのも、彼女限りだ。当然ですよね?
 ほら、そこで聞き耳を立てている貴方、いい加減こちらを向いてはどうですか。さっきから楽譜を見る目が泳いでいること、気付いているんですからね。

「ねえ、狡いよアズール。どうしてこんな時に限ってひとつも嘘を混ぜずに話してしまうの。おかげでもう、君の想いを何一つ、疑うことさえできやしない!」

 俺は思わず声のする方へと振り返った。オクタヴィネルの腕章を付けた小柄な先輩、……深海の商人の慈悲により完璧な男性のかたちを取る「彼女」は、大声で友人への抗議を歌いつつ、真っ赤な顔でひどく嬉しそうに笑っていた。
 成る程、どうやら俺のポイントカードはアズール先輩の告白の舞台として、都合よく利用されてしまっていたらしい。なんてことだ、やられた!

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