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「今まで書き溜めていたお手紙です。貰っていただけますか?」
不思議な世界に突如として投げ出され、魔力を持たない弱者として過ごすことを強いられた私の、唯一の拠り所。元の世界を恋しく思う気持ちに罪悪感を抱かなくてもいいのだと思える、場所と時間。私の、唯一の安寧。そうしたささやかな理想郷はいつだってこの先生の形をしていた。この先生がいる場所が私のまほろばになった。
「私に宛てられたものなら、目を通すのが礼儀だろうな。受け取ろう」
ノートよりずっと分厚くなってしまった便箋の束を丁寧に両手で持ち、彼は音もなく笑った。揶揄している訳でも呆れている訳でもないと信じられたので、私も同じように微笑んで、ありがとうございますとお礼を言うことができた。
「さて、卒業おめでとう。異世界での暮らしを恐れながらも、最後まで心を折ることなく生き抜いた君のことを尊敬している。君の拠り所になれたことを、私は誇らしく思う」
「トレイン先生のおかげですよ。沢山、……本当に沢山、ありがとうございました」
「こちらこそ」
顔を赤くした私に大きくて少し冷たい手が降ってくる。頭を撫でられたのはこの世界へ来てすぐの頃に経験して以来だった。家に帰りたいと泣いていた私を宥めるため、先生は恐る恐るといった調子で手を伸ばしてくれた。私のみっともない郷愁と涙に向けられたのは、その手と「そうか」という短い相槌。たったそれだけで私のありのままが許されていると分かってしまった。静かな同意が心臓へと注ぎ込まれていくのが、ただ心地よくて、嬉しくて、また泣いてしまった。あの瞬間から、彼のくれる時間が私の理想郷となったのだった。
「君なら元の世界でもしっかりやれるはずだ。自信を持っていい」
「……分かりました。自分のことには正直まだ自信が持てないままですが、でも私が信じた先生がそう言ってくださるのなら、私も、私のことを信じてみようと思います」
もう帰ってしまうのか。君が不自由なく過ごせるよう手配するからどうか戻らないでくれないか。みんなに挨拶はしたのか。グリムにまで何も言わずにいなくなるのは流石に無礼ではないか。彼等のことを嫌っていた訳ではないのだろう。何もこのような形で別れてしまうことなどなかったろうに。戻らなくたっていいじゃないか。元の世界を捨ててこの場所を選んではくれないだろうか。ずっと此処にいてほしい。行かないでくれ。
そういった類のことを、やはりこの先生はひとつも口にしなかった。私の選択をきつく咎めることも手放しで喜ぶこともせず、ただ「そうか」と頷いて、こうして卒業への祝辞を静かに贈ってくれた。私はそれが嬉しかった。そのことに、どうしようもなく救われていた。
この世界で出会えたみんなのことは勿論、嫌いじゃない。好き勝手にこき使われたり、居場所を取り上げられかけたり、監禁紛いのことをされたり……そんな日々は穏やかとは言い難く、頻繁に起こる事件に私は怯えっぱなしだったけれど、だからといって私を仲間に入れてくれるみんなの存在を、恨んだり憎んだりしたことはなかったはずだ。
短くない期間を一緒に過ごしてきた。時には窮地を一緒に乗り越えさえした。愛着がある。楽しい思い出だって沢山ある。だからこそ彼等は帰ろうとする私に対して、その愛着や思い出を突き付けてくるかもしれないと思った。「ずっと一緒にいられると思ったのに」「どうして帰ってしまうんだ」「楽しいと思っていたのは俺達だけだったのか」と、私の帰りたいという気持ちを責めてくるような気がしたのだ。そうされてしまうと、私は……みんなのことを少しだけ、嫌いになってしまうかもしれない。それが恐ろしくて私は今日という帰還の日を秘密にした。みんなを好きなまま、戻りたいと思ってしまったのだ。
そんなことは絶対に言わない。引き留めることなく必ず送り出してくれる。私を責めることも、私が嫌うことも絶対にない。そう確信できる相手は……たった一人しかいなかった。
「本当に立派になった」
その「たった一人」の手が私の頭の上に乗っている。降ってくる声は教室で聞くものと変わらず、穏やかで涼しくて優しい。
「そうでしょうか? 魔法も使えないまま、空も飛べないままで、頭だって大してよくないし……。先生に誇ってもらえるようなところは、何も」
「そういうことではない、分かっているだろう」
教師が何よりも先んじて評価すべき成績や実力や知能の類を、彼は「そういうことではない」という言葉であっさりと否定した。それ以外のところを見て私を立派だと言ってくれること自体はとても嬉しかった。けれどもそうした言い方は教師らしくないもので、少しばかりおかしかった。
頭に手を乗せられたままの私はそちらを見上げた。ゆるゆると撫で続けている彼は視線が合ったことに驚きつつ目を細めた。私はくすくすと、先生はくつくつと笑った。きっと照れ隠しだ、仕方ない。私達、これまでずっと、生徒と教師でやってきたのだから、ちゃんと互いに相応しいかたちで在り続けてきたのだから、最後くらい羽目を外してしまったって仕方がない。
「私も何か餞別を用意できればよかったのだが、生憎、持ち合わせが何もない。今贈れるもので簡単に済ませることになるが、構わないだろうか」
「お見送りに来てくださるだけで十分すぎるくらいですよ。本当に何も要らないんです。これまでの時間でもう沢山頂きすぎているから、これ以上はもう抱えきれないかもしれない」
「それは困るな。これしきのこと、しかと持ち帰ってもらわなくては」
そうして少し、ほんの少しだけ羽目を外した彼の言葉は、私を少なからず驚かせる。困る、なんて、今までこの人からついぞ聞いたことのない音だったからつい身構えてしまう。肩の強張りを見抜いたのだろう、彼は安心させるように眉を下げつつ目を伏せて、私にではなく自分に言い聞かせるようにして、その喉を震わせていく。
「……この想いを」
「!」
「教師である私が、君に伝えることはできない。こういったことに関して、私は君に何をすることも何を言うことも許されない。その倫理が前提にある以上、私はやはりこの期においても言葉を濁さざるを得ない。それを踏まえた上で、聞いて欲しい」
手が、私の頭から離れた。彼はその腕で手紙の束を抱え直した。私を真っ直ぐに見ていた。私は頷いた。
「君がおそらく、この手紙に書いているはずのもの。そして私が、君の前で口にすることを許されないもの。この二つと同じものを、私は今後一切、他の誰にも向けないと誓おう」
こういう時、きっと信じられないという気持ちになるのだろう。こんな時に冗談なんて質が悪いとでも思うものなのだろう。ても私は疑えなかった。何故ならこれは彼の言葉だったからだ。私が何よりも信頼し、誰よりも敬愛し、心の底から恋焦がれた人の言葉だからだ。彼はその場凌ぎでこのようなことをいう人ではないという確信が私にはある。だから、彼の口から零れる思いもよらない言葉たちに、驚くことはできても疑うことはできない。はっきりとした物言いを避けつつも、私にだけは確実に分かるように仄めかしてくれているその想いを、私はただ驚愕と共に受け止めるしかない。
どれだけの魔力があればこんな奇跡を起こせるのだろう。どれだけの対価を払えばこれだけの慈悲を授かれるのだろう。私は何も持っていないし何も支払っていないのに、どうしてこんなにも身に余る言葉ばかりが降ってくるのだろう。どうしてこの人は、こんなにも眩しい言葉ばかり私に向けてくれるのだろう。どうして、……どうしてだろう。
きっと何か理由があるのだと思う。彼に此処まで言わしめた「何か」があるのだと思う。もしその何かが、私が彼に隠れてこっそりと手紙を書き溜めてきた理由と似たものであったなら、私のそれとお揃いであったなら、それはとても幸せなことだと思う。夢のようだと、思う。
「君に向けた『これ』を、私は生涯に渡り専有しようと思う。君で最後だ。他の誰にも渡さない。もう永遠に私だけのものだ。そうだな、此処に閉じ込めて鍵でも掛けてしまおう。二度と外になど出してやるものか」
此処、として心臓を指差した彼を見上げて、私は何度も頷いた。否定などしたくなかった。どのような拙い形であれ肯定したかった。彼の宣誓に静かな同意を示したかった。だってそれこそ、彼がこれまでずっと私にしてくれたことに他ならなかったから。
生涯に渡り、永遠に、二度と。私よりも倍以上長い時を生きてきた彼が使う言葉たち、その重みに胸が潰れそうだった。一日一日を丁寧に誠実に生きてきたこの人ならば、本当に「そう」してくれるに違いないと信じられてしまった。彼に寄せ続けた信頼は、この最後の瞬間においても揺らがなかった。不安に思う必要など何もなかった。そしてだからこそ少し、怖くなった。
手を強く握って、爪を手の平に食い込ませた。こっそりと痛めつけることでなんとか泣かずに済んだ。そうした小さな意地をきっと彼は見抜いている。見抜いていても尚、そんな意地さえ尊重してくれる。
「嬉しい、です。そんな風に私への、そういうものを大事に閉じ込めて、一生に一度きりのものにしてくれるなんて、とても……幸せです。私、幸せです」
「そうか」
「でも、これからずっとそんな風に生きてしまうのは……寂しくありませんか? 辛い思いを、しませんか?」
「寂しくないさ。私はもう一生寂しくない。それだけのものを私は君から受け取った。だから大事に此処へ抱え置く。それだけのことだ」
彼の腕の中、本来ならば使い魔たるルチウスさんの特等席であるべき場所。そこに私の想いの束がある。抱え置く、という言葉通り、紙にしわが寄るほど強く抱き込んでくれている。
その束の向こう、彼の命の中心、きっと今も規則正しく鼓動を続けている整然たる臓器に私達の想いが溶けていく様を……想像したらもう、どうしようもなかった。目の前が真っ白になってしまうような、気を飛ばしてしまいそうな程の感激を、私はもう、どんな風に言葉にすればいいか分からなかった。
私の想いがこれからずっと「そこ」に在る。彼が寂しくないように「そこ」に在る。
ふっと目を細めて笑う様はいつもの通り穏やかだった。でもそんな表情で紡がれた先程の言葉には、嵐のような激情が込められているように感じられた。健気や誠実といった綺麗な形容を通り越して、いっそ痛々しくさえ思われてしまったのだ。そんな痛みをこの人にだけ負わせたくなくて、私は居ても立っても居られなくなって、ぐいと身を乗り出して「私もです!」と思わず叫んだ。突発的な私の幼い宣誓を、彼は遮ることなく聞いてくれた。
「私もきっと寂しくない。ずっとこれだけで生きていかれます。頂いたもの、全部抱えて生きていきます。いつまでも大好きです、貴方のこと……これからもずっと!」
彼は息を飲んだ。その唇は僅かに開いた状態で固まっていた。綺麗な緑色をした目は瞬きを忘れていた。子供のような我の忘れ方であった。疑っている? 呆れている? 怒っている? 信じてくれている? 分からなかった。読み解きたかったけれど、彼の瞳はただ沈黙するばかりだった。その数秒の間、きっと私の息も止まっていた。
やがて彼は目を閉じて、いつものようにふっと息を吐いた。緩慢に目蓋を上げて、そして微笑んだ。呟かれたのはいつもと変わらない「そうか」という相槌で、ああきっと私はこの静かな同意がくれる世界一幸せな瞬間を思い出して、この先ずっと生きていくのだろうと確信してしまったのだった。
最後に彼はもう少しだけ子供になって、声を上げて笑いながら私の頭を先程よりもずっと乱暴に撫でた。この人が満面の笑みで私の髪を乱してくれたという奇跡。それが、この世界で私の見た最後の魔法だった。
「こら、私は同じ言葉を返せないと言ったばかりだろう。言い逃げしていくつもりかね。まったく、マナーのなっていないことだ」
宣誓。私の学び舎よ、どうか聞いてください。
私達、世界さえ飛び越えて互いの孤独を埋め合っていくと誓います。