ルーズリーフの恋文

(U-17翌年、「3分デート」の前にあったかもしれない話)

「暇だったから、君のことを書き出してみたんだ」

駅前のカフェで、彼はクリアファイルからルーズリーフを取り出した。
私は飲んでいたコーヒーをテーブルに置き、それを受け取る。彼の整った字で、私のことがずらりと書かれていた。

余計なお世話だ、と呟いてしまいそうになるものから、こんなところまで見ているのかと感心してしまうようなことまで、私に関することが箇条書きでびっしりと書かれている。
B5サイズのルーズリーフも、まさかこんなことに使われてしまうとは思ってもみなかったに違いない。

……それよりも、大学の授業を朝から夕方まで全て受けてきた筈の彼が「暇だった」とはどういうことだろう。
推薦入試で医学科への進学を決めてしまった彼には、その授業すらも退屈だとでもいうのだろうか。
授業の暇潰しにこんな落書きをするような人物に将来、診てもらうことになる患者を思うと居たたまれない。

「授業はどうした、大学生」

「ああ、ちゃんと医学科の授業は真面目に受けているから安心して。これは英語の授業中に書いたんだ」

「……いや、英語だって進級に必要でしょう?」

けれど、要領のいい彼のことだ。ちゃんとするべきことをしてから書いたのだろう。
何より大学どころか、高校生にもなったばかりである私が、あまり口うるさく言うのもおかしい気がして、私は再びそのルーズリーフに視線を落とした。

『携帯にずっと付けているストラップは、友達とお揃いで購入したもの』
『2年前、ヨーグルトダイエットをしようとして失敗したらしい』
『指が短いことを気にしているけれど、可愛くていいと思う』

……読み進めている内に、段々と恥ずかしくなってきた。
もし、私がこうなることを見越してこれを書き連ねたのだとしたら。いや、そもそも端から私に見せるために書いていたのだとしたら。
そんな深読みをしそうになったけれど、彼の策謀など、どうでもいいことなのかもしれなかった。
私に見せようと見せまいと、此処に書かれている内容はきっと変わらなかっただろうから。
そう信じてしまえる程には、私と彼とは共に過ごす時間を重ねてきていた。相手を信頼するに足る程度の言葉を、私達はずっと投げ合ってきたのだ。

「楽しかったよ。君に会えなくても、君のことを考えているだけで嬉しい気持ちになれるものなんだね」

「ちょっとそういう恥ずかしいことをさらっと言うの止めてくれない」

ぴしゃりと窘めるが、この男には効いていないらしい。
人畜無害そうな笑みを湛えている彼の、その胡散臭い丸眼鏡の奥の目は、ありとあらゆるものを見通している。
この男が、ただ笑っているだけの人間ではないことを、私はあの合宿で嫌という程に思い知らされた。
その笑みは、その丸眼鏡は、彼の鋭い眼光と複雑すぎる内面を隠すための装甲なのだと、私は気付いていた。

その証拠に、彼は私の前ではあまり笑わない。
出会ってから暫くして、彼はその思い装甲を、私の前では外すようになっていた。
丸眼鏡は相変わらずだったが、意味もなく笑みを湛えることはなくなった。
私をからかうように、見定めるように、時に挑むように、時に打ち負かすように、私と向き合い、その目に真剣な色を宿す。
ああ、彼が隠していたのはこの色だったのだと、その色をした目が私には開かれているのだと、そう気付いた瞬間、私はこの男をただの先輩として見ることをやめた。
私も一人の人間として、この男の真摯な挑戦を受けて立とうと決意したのだ。
私と彼とが今のこうした関係になるまで、そう時間は掛からなかった。

彼はあまり笑わない。装甲としての笑みを私の前では見せない。
だからこそ、二人の時に彼から零れる笑みが「本物」であると私は確信している。
仮にその笑みが装甲だったとして、その違いを見抜くことなど私には容易い。伊達にこいつと同じ時間を重ねてはいないのだ。
見抜けなければこいつと一緒にいることなどできない。何を考えているのか解らないような人間にくっついていられる程、私は鈍くお気楽な人間ではない。

「ねえ、この紙、あたしが貰ってもいい?」

ルーズリーフをひらひらと揺らしてそう尋ねれば、入江は最初からそのつもりだったとでも言わんばかりに、一瞬の躊躇も見せず「いいよ」と頷いた。
私は彼の整った字を眺めながら、それを自分の鞄に仕舞った。
面白いものを手に入れることができた。家に帰ったら、もう一度見直してみよう。きっと楽しい。

「あたしの宝物にするわ。それで、3年くらい経った後で見せてあげるの。きっとあんた、顔を真っ赤にするわよ」

おどけたように、至極楽しそうな笑みでそう紡げば、しかし彼は何か意味有り気な含み笑いをした。
何?と視線で訴えれば、彼は機嫌の良さそうな笑みを湛えて口を開く。

「3年後もボクの傍に居てくれるんだね」

「……」

「そうかそうか、香菜ちゃんは3年後もボクのことを好きでいてくれるのか、嬉しいなあ」

何を馬鹿なことを、と思う。
この男は、そんなことで私の表情を変えられるとでも思っているのだろうか。
「貴方の良き理解者」が聞いて呆れると思ったけれど、それは私にも言えたことだったのかもしれない。
私だって、彼が私の「3年後」という単語にここまでわざとらしく喜ぶことを、予想できなかったのだから。
きっとこれは、彼の想いの質量を正確に測り取ることのできなかった私のミスなのだろう。

「何を言っているのよ、あたしはあんたのそのド近眼の眼鏡に老眼が加わるまで、あんたから離れてやるつもりはないわ」

仕返しにそう紡げば、彼は益々楽しそうに目を細め、鞄から新しくルーズリーフを取り出して何かを書き始める。
私は思わず身を乗り出したけれど、そこに「家族構成」と書かれていて、思わず笑ってしまった。
将来のことなんて、なるようになるしかないんだし、予定通りになることの方が少ないわよ。
そう言ってやりたかったけれど、彼の笑みが本物だったので付き合わざるを得なかったのだ。

「その頃には子供は何人いるかな。君はどんな仕事をしていると思う?
……ああ、ボクの仕事の心配はしなくてもいいよ。開業しなくても、実家が医者だから跡を継ぐだけでいいんだ」

「子供は2人。仕事は文系の職業なら何でも。あたしはお母さんになっても働きたいから、ちゃんと家事も手伝ってよね」

「えー、ボクは3人ほしいな。将来、10人以上の孫に囲まれるのが夢なんだ」

「……お年玉、用意するのが大変そうね」

彼はボールペンで次々と将来の家族構成や仕事内容、家事の分担などを書き込んでいく。
「え、結婚するの?」なんていう野暮な質問はしない。私達はまだ子供だ。そう信じていたっていいじゃないか。
これも保管しておこうかしら。そうして、いつかこの男に突き付けてやろう。
「家事を手伝ってくれる約束だったわよね」と、毅然とした笑みで言い放てる日が今から楽しみだ。

2015.6.24

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