水を固める指

京都へ連れて行って。
中等部の校門前で大和の訪れを待っていた少女は、真っ直ぐに彼を見上げてそう言った。

ティーンエイジャーの身に相応しい、ささやかな、プラトニックな付き合いというものを始めて1年が経とうとしているが、
彼女の方から大和に何かを、それもデートや欲しいものの類の要求をしてきたことがこれまで一度もなかったため、大和はそれを少々寂しく思っていたのだ。
それ故に、唐突でこそあったものの、「京都」という、具体的な地名まで出して遠出への同行を、彼女から求めてきたという事実には、浮かれてしまわざるを得なかった。

「ええ構いませんよ。京都の、何処に行きたいのですか? 紅葉の名所は沢山ありますが、人のあまりいない穴場を探すとなると少し手間取りそうですね」

「……ふふ、大和さん、あたしが葉っぱを愛でて喜ぶような品の良い人間に見えるの?」

見える、と思ったが、大和はそれを声に出さなかった。
代わりに肩を小さく竦めて肯定とも否定とも取れない様相を彼女の眼前に晒せば、彼女はそれだけで満足したようにクスクスと笑ってくれた。

中学生、テニス部部長の手塚国光と同学年でありながら、彼女は驚くほどに小柄であり、またそのささやかな背丈に似合わず強烈に大人びていた。
それは彼女の体つきがグラマラスであるとか、声が色っぽいとか、そういった話では勿論ない。
彼女は空気をコントロールするのが異様に上手いために、話をしていると、大和はよく、彼女が自分よりも3つ年下の女の子であることを忘れてしまうのだ。

黙ってさえいれば、彼女は年相応の女の子である。
少しきつめの目とストレートな黒髪を静かにその場へと停滞させ、無言のままににこっと微笑んでいれば、その実、実年齢よりも幼く見えることさえある。
そうした静かな彼女には、同じく静かな花や紅葉が似合っていた。他にも音を吸い込み押し黙る雪景色や、目を穿つような鋭い夏の日差しもよく似合った。
そうした彼女も勿論魅力的である。けれども大和が好んでいるのは「そちら」の彼女ではない。沈黙する美しい彼女の姿は「スパイス」に過ぎない。

「わらび餅、食べてみたいなと思って。あたしは何度やっても上手に作れないから、参考のために一度、本場の味を知っておきたいのよ」

大和の心をひょいと取り上げさらっていったのは、こちらの彼女だ。
品のない少女を演出する振りをして、食い意地が張っているのだと見せつけるように笑ってみせて、けれどもその実、食には大した拘りを持っていない彼女だ。
付き合うよりも前の段階で、大和がたった一度だけ好物だと言った「わらび餅」をずっと記憶してくれていて、定期的に手作りを試みては玉砕している彼女だ。
所謂「彼氏の好物」のための参考研究に、その当人である彼氏を引き連れて向かおうとしているという、そうしたことを恥じらうことなくさらりと告げてしまえる彼女だ。

こうやって、自らの想いや思惑を、一切の躊躇いなしに堂々と開示する、その行為は彼女が元から持ち合わせていた、度胸や自信や勇気と呼ばれるもののおかげなのだろうか。
それとも本来の彼女は人並みの恐れや警戒心や恥じらいというものを持っていて、
けれどもその相手が今は「彼氏」である大和であるから、その信頼が故に開示を厭わないだけなのだろうか。
前者であれば、それでこそ彼女だと、それでこそ僕が焦がれた彼女だと思って嬉しくなるのだろう。後者であれば、きっともっと嬉しくなってしまうのだろう。
大和はその程度の男であった。その程度でいい、構わないと、思わせてくれたのは他でもないこの少女であった。

「ええ、好きですよ。それじゃあ行きましょうか。いつがいいですかね。
テスト期間が終わったばかりで、特に根を詰めて勉強する必要もありませんから僕としてはいつでも。……ああ、でも香菜さんのテストはこれからでしたっけ」

夕暮れの小道を等しい歩幅で歩きながらそのようなことを口にしつつ、思案する。
できるだけ早い方がいい、と思った。真っ赤な紅葉が地に落ちてしまう前に、枝を燃やすその色を彼女と一緒に見たいと思った。
「葉っぱを愛でて喜ぶような品の良い人間」ではないと豪語した彼女だけれど、それでも綺麗なものをその目に映せば多少なりとも喜んでくれることを大和は知っていたのだ。

「大和さん、そんなに早口で喋れたのね」

隣からそのような言葉が飛んできたので、今度は大和がふふっと笑ってしまう番であった。
どうしたのよ、とつられたように笑いながら彼女が尋ねてくるので、大和も彼女に倣って自身の心境を開示してみることにした。

香菜さんから遠出の誘いが来るのは初めてのことですからね、はしゃいでいるんですよ、年甲斐もなく」

そして大和の笑いが止むと、更に今度は彼女が声を上げて笑い始める。
どうしたんです、とつられて苦笑しながら尋ねれば、彼女は細めた目をキラキラと瞬かせつつ、

「だって大和さん、まだ高校生なのに「年甲斐」だなんて!」

と、大声で吐き出し、また笑った。

たった1日の外出くらいで成績を落とすような、付け焼刃の勉強しかしていない訳じゃないから大丈夫だと告げていたのだけれど、
大和さんは頑として「君のテストが終わってから」という姿勢を崩さず、結局、京都に向かえたのは11月も終わろうかとしている頃だった。

これはもう紅葉の類は散ってしまっているだろうなと、新幹線の中で手を結びながらぼんやりと思う。
別にいいじゃないか、本願は紅葉狩りではないのだから、という潔い気持ち。
それでも彼にはああいう重厚で静かで美しいものが似合うから、どうしても惜しみたくなる気持ち。
双方が天秤にかけられ、ゆらゆらと揺れている。

「晴れてよかったわね」

「ええ、そこまで寒くもないようですし安心しました」

あたしは、たとえ紅葉が散ってしまっていたとしても、観光客の混雑極まってわらび餅のひとつも食べることができずに京都を去ることになったとしても、特に問題はなかった。
この、師走を直前に控えた休日、大和さんのその貴重な一日をあたしが占領して共に遠出するというのだから、その遠出の成果に拘泥するつもりは更々なかった。
そうした無益で無駄な遠出になったとしても、隣で大和さんが「残念でしたね」と笑ってくれるなら、
困ったような笑顔で励ましてくれるなら、もうそれだけで「チャラ」になるような気さえしていたのだ。

けれども、大和さんにとってはそうではないかもしれない。そうした一抹の不安があたしの心を揺らす。

普段から絶対に近いレベルの信頼を寄せている相手だけれど、信頼で相手の心が読めるのならば苦労はしない。
とりわけその読心の試みには、あたしの「期待」めいたものがどうしても混ざってしまうから、まるで役に立たないのだった。
あたしの「喜んでほしい」「大和さんにも、楽しいと思っていてほしい」などという、まるで至極まっとうに恋をしているかのような心理が「期待」となって読心の目盛を歪ませる。

香菜さん」

通路側の座席に座っていた彼が、あたしと緩く結んでいた手に少しだけ力を込める。
テニスの強豪校である青学で長年ラケットを振るい続けてきたとは思えないくらい、その力の加え方はひどく繊細で、妙な愛しさがぐっと込み上げてきてしまう。
あたしよりもずっと背が高くて、あたしより3つも年上であるはずなのに、このようなことをしてあたしの名前を呼ぶ彼は、まるで子供のようだと思う。
そして、それでもいいと、そうであったとしても何も変わらないのだと、本気でそう思っている。

あたしは彼を支える側でも、支えられる側でも、どちらでもいい。どうであれ、その相手が彼であればきっと、これからもずっと楽しい。
そうした確信なら、もう、息をするようにあたしの中で生成することができる。

「誘ってくれてありがとうございます。今日を、楽しんでくれるといいのですが」

「えっと、その、楽しんでいないように見えた?」

結んだ手の先、彼の肩が小さく震える。
新幹線の中であることを考慮してのことだろう、いつもに増して静かに笑った彼は、あたしの目をぐいと覗き込むようにして顔をこちらへと持ってくる。
距離の近さに一瞬怯み、言葉を絶やしたあたしに、彼はトドメを刺すかのような容赦のなさでとんでもないことを歌う。

「僕はこうして、貴方と京都行きの新幹線に揺られているだけで十分に満たされてしまっていますから、今日は貴方のしたいことをできるだけ叶えてあげたいんですよ」

「……ま、待って」

あたしの脳内で構成されていた文章を、紙媒体に印刷してそのまま読み上げたかのような彼の言葉に、あたしは顔を赤くしていいのか青くしていいのか分からず、息を飲んだ。

そう、彼はこういうところがある。
人の闇を知らない子供めいたところがあり、はたまた社会を知り尽くしたような大人びたところがあり、繊細で慎重なところがあると思えば、大胆なことだってやってのける。
青春学園のテニス部部長、あの頃の彼を遠くから見ているだけでは決して知ることの叶わなかった、彼の幼く、大人びた、繊細で、豪胆な、あらゆる側面。
それらを、所謂「交際」を始めてから次々と知りつつあるあたしは、最近よく、思い上がりがちになっている。

香菜さん、今日はどうしたいですか?」

あたしが彼に寄せているような絶対の信頼に似たようなものを、彼もあたしに寄せてくれているのではないかと考えてしまう。
あたしが彼に想いの開示を躊躇わないのと同じように、彼もあたしにあらゆる面を隠さないようになっているのではと、期待してしまう。
そうした思い上がり、決して口には出していないはずの傲慢を、
けれども彼は時折、心を読んだかのようなタイミングで肯定しにかかってくるのだから、こちらとしてはもう、たまったものではない。

「……何処へでも行きたい、貴方と一緒に」

敗北を宣言するように、降参だと白旗を上げるように、馬鹿みたいな願望を口にすれば、
けれどもそんなあたしの言葉さえこの人は喜んで、笑って、大きな手であたしの指を更に強く抱いてしまうのだ。

ああ、もういっそ、紅葉もわらび餅も一切、堪能することなく帰ってしまった方がいいんじゃないだろうか。
あたしなんかを好きになってしまったこの人には、無機質なあたしの部屋と、あたしの作った、硬くて弾力性の欠片もない不格好なわらび餅が、きっとお似合いだ!

2019.11.30
泉さんへ 

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