灯る赤

(「そしてしずかに」の続き)

運ばれてきたカーディナルは、近くで見るとより美しかった。
先程は「薔薇をたっぷり溶かした」ような赤だと思ったけれど、こうしてよく見ると、どうにもその形容は的外れであるような気がしてしまった。
これ程までに鮮やかな薔薇を私は知らない。どんな花弁を溶かしても、きっとこの赤のようにはなりようがない。
……ならば、このカクテルには「何」が溶けているのだろう。このカクテルは何を飲み込み、何を溶かしてその赤を保っているのだろう。

「美しいでしょう、この店の看板のようだ」

呟くように発せられた彼の言葉に、私はこの店のドアを開ける直前のことを思い出していた。
あの地味でつまらない夜の通りに現れた、明るい赤のネオン。私を肯定し、私を誘い、私を罠に嵌めたあの赤色。
透き通る輝きを持っていたあのネオンは、確かにこのカーディナルの赤にも似ている気がした。今日はよく赤を見る日だ、と思った。

「……貴方は、此処の常連さんなんですか?」

カーディナルを差し出しつつ、そう尋ねてみる。
彼は「どうも」と僅かな微笑みと共にそれを受け取ってから、首を振った。
グラスの中の気高い赤は、彼の白へと引き合わせられたことを喜ぶように、彼の首の動きに合わせてゆらゆらと波打っていた。

「今夜が初めてですよ。あの赤い光がどうにも美しかったもので、ついドアへと手を掛けてしまったのです」

「わ、私も!」

思っていた以上の大声が口から零れ出て、私は勿論のこと、彼も驚いていた。
きょとん、という擬音が聞こえてきそうなその表情は、優雅で尊大な有様を崩さなかった彼の姿を少し、ほんの少しだけ若く幼く見せた。

「私も、赤を見つけて、とても綺麗だと思って、嬉しくなってしまって、それで、此処に……」

「まさかアルコールを振る舞う場所であるとは知らずに?」

「……そ、その通りです」

彼は私の恥じる顔を肴にするかのように、くつくつと笑ってはグラスに口を付けた。
私もそのタイミングに合わせて、フローズンカクテルを少しずつ口へと運んだ。
シャーベットであるにもかかわらず、その冷たさは鋭くなかった。ひどく滑らかな舌触りで、ムースを食べているかのような感覚にも似ていた。
私はやさしい赤色を少しずつ、少しずつ、飲み下した。

「此処が煩いネオン街でなくてよかった。あの繊細な光は、おそらく明るすぎる場所に置くと他のネオンに埋もれてしまうでしょうから」

「確かに、あまりネオンらしくない、上品な光でしたよね」

「ええ、だからこそ、この静かな宵闇に相応しい」

何かにつけて、優雅で尊大な言葉の並びを好む人だった。毅然とした、一切の躊躇のない話し方をする人だった。その声、その視線、その表情、全てが堂々としていた。
立派で、完璧で、その姿が崩れることなど在り得ないのだろうと思わしめるに十分な装甲を、彼は身に纏っていた。

そんな彼と同じカウンターで、席を一つ分だけ空けたささやかな距離を挟みつつ、私はやさしい赤色を、彼は美しい赤色を飲み下しながら、時間を静かに、穏やかに流した。

「香りだけでも味わってみませんか」と、2杯目のカーディナルをこちらに差し出してきたので、私はそのグラスを受け取り、目を閉じて顔を近付けてみた。
濃い、濃すぎる葡萄と、アルコール独特の鼻を突くような刺激に、私は思わず眉をひそめて顔を背けた。
どれだけ美しい色をしていても、どれだけ彼と優雅な共鳴を為していたとしても、やはりこれはお酒で、私が口にすることのできないものなのだと思い知らされてしまう。

こうなることを読んでいたかのような、至極楽しそうな笑い声と共に「おやおや、お嬢さんにはまだ早すぎたかな」だなんて、そんな言葉が飛んでくる。
否定しようにも、見栄を張ろうにも、この美しい赤を飲み下せず、香りさえも満足に楽しめない人間であることは、
既に彼の知るところとなってしまっており、散々、からかわれた後であったのだからもう、どうしようもない。

同じ人の形をしているのに、同じバーの席にこうして座っているのに、私とこの人とでは決定的に何かが違うのだ。
そう、思い知らされてしまった。あの葡萄とアルコールの匂いが雄弁にそれを語っていた。

けれども私と彼との間にそうした隔たりがあるのならば、苦しむのが私だけ、というのはどうにも不公平である。彼にだって、苦しむ「隙」があるはずなのだ。
そう思い至った私は、2杯目のフローズンカクテルを彼の方へと差し出して、「香りだけでも味わってみませんか」と、先程の彼と一言一句違わぬ勧め方をした。

彼はカクテルグラスの細いステムを指で摘まみ、顔に近付けたが、すぐに眉をひそめて遠ざけてしまった。
それは私が先程、カーディナルに顔を近付けた時の動きにとてもよく似ていたものだから、「甘いものは苦手なんですね」と告げて彼からグラスを受け取った。
ささやかな仕返しのつもりであり、鼻で笑われる程度に終わると思っていたのだけれど、殊の外、彼は悔しそうに顔を歪めていた。
大きな手で二筋の髪を掻き上げながら「やれやれ」と大きく息を吐く。三日月のように弧を描く、その口の端から覗く歯の白と舌の赤に、またしても私は、息を飲む。

そうした、悉く私とは違う何もかもを飼いこなしておきながら、その悔しそうに楽しそうに笑う様はまるで子供のような、私にも覚えのあるものであるものだから、
私はこの人が、近くにいるのか遠くにいるのか、同じ人間なのか違う人間なのか、益々分からなくなって、混乱してしまいそうになる。
……けれど、それでも、私の飲むべきやさしい赤色と、彼の飲むべき気高い赤色は、一席分の間隔を置いたすぐ傍にこうして並んでいるから、
私はこの適切な距離感に甘んじて、ただ静かに目を閉じ、彼の優雅で尊大なところも、彼の陽気で勝気なところも、受け入れて、笑うしかないという有様なのだった。

白い帽子、白いシャツ、白いベスト、白いズボンに白い靴、白いコート、そこから伸びる白い指、それらを纏う彼の白い微笑み。
それらの装甲、純白の装甲からたまに覗く、私に似た笑い方のことが忘れられない。
彼の纏う白、彼の纏う装甲、その内側に招かれたかのような、あまりにも優しい一瞬が、脳裏に焼き付いて、離れてくれない。

今は苺のフローズンカクテルしか飲めない私、アルコールの夜を知らない私、彼と同じ赤を楽しめない私、やさしい赤色に甘んじている、私。
けれどもいつか、彼の好む優雅で尊大な赤に、美しく気高い赤に、触れることが叶うのだろうか。
彼の飲んでいる赤いカーディナルのグラスを隣に並べて、同じ赤を飲み下すことができる、そんな日がいつか訪れるのだろうか。
そうであればいい、と思う。そうあれるようにしたい、とも思う。

「……」

私は足元を見た。この身に生える二本の足を見た。
私を正解の道へと運んでくれないままに、ふらふらと覚束なくアスファルトを踏み拉くばかりであったその足を、見た。

今なら、歩き出せる気がした。
この優雅で尊大で美しい赤、それを大事に大事に覆う純白の装甲、その眩しいコントラストを覚えている限り、私は歩き続けることができる気がした。

「あの、ありがとうございます。貴方が、その、此処にいてくださったから、私、とても救われたんです」

「……それはそれは、どういたしまして」

彼は最後の一滴を惜しむように、グラスを高く掲げてその美しい赤を飲み終えた。
コトン、とカウンターに置かれたグラスはまだほんの少し赤色を残していて、それがとても綺麗な色だったものだから、私はまた、いいなあ、などと思ってしまったのだった。

歩いていれば、もしかしたら彼のような、優雅で尊大で美しい「何か」になれるかもしれない。
彼のように、とはいかずとも、彼の飲み残した、グラスの縁に付いた僅かな赤色くらいには、なれるかもしれない。彼を知る赤色に、なってみたい。
そうした、めでたい希望と共に私は苺のフローズンカクテルを飲み干した。
よく冷えた甘酸っぱい決意の温度をしたやさしい赤色は、私の喉をつう、と通って、心臓の奥深くに小さな火を灯した。
このやさしい火はきっと、私が歩みを止めるまで燃え続けるに違いない。

「しかし、できれば次回までにもう少しマシなものを飲めるようにしておいてほしいものですね。その方が私もより楽しめるので」

「……次回が、あるんですか?」

「さあ? どうでしょうね」

次、を仄めかす発言をしておきながら、私の追及にはそんな風にはぐらかす彼は、代金をカウンターに置いて立ち上がった。
背の高い人だった。帽子を被るその姿が更に凛として見えた。
帽子の下から二つの目が射るように私を見ている。帽子が深い影を作ってしまっても尚、私は彼の表情を読むことができる。
あの笑顔、優雅で尊大な微笑みが「そこ」に在るのだろうと、分かっていたから私は沈黙して、彼の作る空気を壊さぬよう静かに続きを待った。

「私と貴方が今夜、同じ光に惹かれたのはきっとただの偶然です。一度きりのことかもしれない。私と貴方はもう二度と、出会うことなどないのかもしれない」

彼は帽子のつばに手を掛けて、上げた。

「それでも私は、赤を探しましょう」

「!」

「貴方も「次回がある」と思うのなら赤を探しなさい。そこに再び私がいたならば、それは運命が私達を許したということ。その時には、貴方の名前を聞かせてほしい」

コツ、コツと彼の足が床を叩いている。ドアに手を掛ける音がする。木の軋む音が僅かに聞こえる。
「マスター、お釣りはそこにあるジュースの代金に充てておいてください」と告げて、すぐにドアを閉める。
カツ、カツ、とアスファルトを叩く音がする。靴音は徐々に小さくなり、やがて完全に消える。

私はそこで、止めていた息をようやく吐くことができた。
長く、長く呼吸を止め過ぎていたせいで軽く眩暈がした。動悸もした。眩暈はすぐに止んだけれど、心臓の音は……一向に静かになる気配を見せなかった。
震える手で空のカクテルグラスをもう一度手に取り、縁に口を付けた。苺の甘酸っぱい香りが、彼が顔をしかめた匂いがそのまま残っていて、少し、寂しくなってしまった。
この夜の偶然。私とあの人が同じ赤を見つけたという偶然。もう二度と起こることのない偶然。運命と呼ぶにはあまりにもおこがましい、ただの偶然。
けれどもその偶然が再び起こったのなら、私の見つけた赤の傍にもし彼がいたなら、彼に相応しい赤の場所でまた、彼に会えるのなら。

その時にはどうか、この偶然を運命と呼び変えることを許してほしい。
そのために何をすべきであるのか、私にはもう、分かっている。

初老のマスターはにっこり笑って「お代金はもう頂いておりますので」と言い、私が財布を出すことをやわらかく禁じた。
私は深く深く頭を下げつつお礼の言葉を何度も口にして、先程の彼と同じように、ドアを開けた。
木の軋む音がする。アスファルトを私の靴が叩く音がする。夜明けはまだ遠く、この道はやはり地味でつまらない。
それでも私の足は、何処へ向かえばいいのか分かっていた。灯された火はまだ小さく、けれども確かに私の行くべき道を照らしていた。

毅然とした、一切の躊躇がないこの歩みを、まるで彼の声音のようなこの足取りを、もしまた会うことができたなら、彼は褒めてくれるだろうか。

2019.5.17
ケイさんへ

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