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18歳、その日のお誕生日の席は、けれどいつもと少しだけ違っていました。
まるであのレストランにいるかのような素敵な料理が沢山、運ばれてきて、両親と一緒にお食事をするのはとても久しぶりのことで、
わたしはどうにも嬉しくなってしまって、スープのおかわりまでしたのでした。
けれどわたしがデザートのショートケーキを食べ終えて、金色のフォークをお皿に戻すや否や、お父様はわたしの名前を呼んで、こう言ったのです。

「世界を壊す準備が整った。お前が住みやすい世界を作るために一度、あの惨たらしい場所を綺麗に掃除するから、わたしがいいと言うまで決して外に出てはいけないよ」

ショックを受けるわたしの手から、お母様はケーシィの入ったモンスターボールを取り上げました。
この地下の基地から「世界」に出る術を奪われてしまったわたしは、けれどどうすることもできませんでした。

恥ずかしいことに、わたしは、ここから「世界」に出て行く通路があることを知りませんでした。
いつもケーシィを使って外に出ていたため、どこかの階段を上って「世界」に出て行く、という発想ができなかったのです。そのような通路があることさえ、知らなかったのです。
……いいえ、それだけではなくわたしは、わたしの暮らしているこの場所が「世界」の地下にあるということさえ、本当に、全く知らなかったのでした。
大人達が口々に言う「世界」と「地下」の意味する本当のところを、わたしはまるで解っていなかったのでした。

そういう訳で、ケーシィがいなくなった今、わたしが「世界」に出て行く術は全く残されていませんでした。
駄々を捏ねて泣き叫んで、レストランに行きたいと、彼に会いたいと喚いても、お父様とお母様は首を縦に振ってくれませんでした。
おそらくわたしの泣き声は部屋の外まで響いていたのでしょう。お父様はわたしが泣いていること自体を窘めるようになりました。
それでも泣き続けていたわたしに、きつい罰が下されました。「部屋から出てはいけない」という、罰でした。

泣いてばかりのわたしは、幼子のように駄々を捏ねるわたしは、ひどくみっともない姿をしていたのでしょう。みっともないわたしを、彼等は他の人に見せたくなかったのでしょう。
けれど当時のわたしに、わたしの姿を冷静に見るだけの余裕などありませんでした。わたしはただ、わたしのことで、彼に会えないということだけで、心が壊れそうだったのです。

それでも、この部屋に閉じこもっているだけでは彼に会える筈もないことが解っていたので、わたしは何度か、部屋の外へ出て行こうとしたことがありました。
けれども赤いサングラスをかけていないわたしの姿は悪目立ちしていたものですから、すぐに見つかってしまいました。
お母様はわたしをひどく叱りました。お父様はわたしを自室に連れ戻して、そこでわたしをひどくぶちました。
わたしは次第に、部屋の外へ出ることを諦めるようになりました。外に出ると酷い目に遭うということを、わたしは学び始めていたからです。

白く清潔な冷たい部屋の中、わたしは生まれて初めて「不自由」というものを知りました。
不自由という絶望の前には、ピアノを弾きたいとさえ思えなかったのでした。

けれどその不自由は、数日後、思いもよらぬ形で破られることになりました。

いつものように一人で自室のソファに座っていると、突然、床が大きく揺れました。
窓などというものはありませんでしたが、テーブルの上のグラスが倒れて、棚の上に飾られていたデルビルのぬいぐるみが、わたしの頭に落ちてくる程の大きな揺れでした。
わたしはにわかに怖くなって、ブランケットを被って震えていました。あまりの恐ろしさに動くことができませんでした。いつものように泣くことさえも忘れていました。

これが「世界」を壊す音なのでしょうか。壊れた「世界」はどうなるのでしょうか。
もしわたしが新しい「世界」に住むことが叶ったとして、お父様の言うように幸せになれたとして、そこにあのレストランはあるのでしょうか。そこに彼はいるのでしょうか。
わたしは彼に会えるのでしょうか。

わたしはフレア団幹部の娘でした。この「世界」を新しく作り変えるために働く二人の子供でした。
けれどわたしは、お父様やお母様のように「世界」を忌み嫌ってなどいませんでした。むしろわたしは赤くない「世界」が、優しい「世界」が、好きでした。
そしてわたしの「世界」とは、他の誰でもない彼の形をしていたのですから、仮にお父様やお母様の言うように、
より美しい「世界」になったとして、そこに彼がいなければわたしにとっては何の意味もなかったのでした。
彼のいない「世界」に生きる理由など、わたしが持てる筈もなかったのでした。

廊下の外が騒がしくなりました。子供達の悲鳴と、大人達の怒鳴り声が聞こえました。彼等はバタバタと足音を立てて遠ざかっていきました。
そして、ドカンという、機械が暴発したときのそれよりもずっとずっと大きな音が聞こえて、ガラガラと天井の方で色々なものが崩れるような気配がして、
……けれどそれきり、部屋は再び静まり返ってしまって、何の音も聞こえてこなくなったのでした。

わたしは自分の身体の震えが収まるのを待ってから、ブランケットを冷たい床に置き捨てて、ふらつく足でドアへと歩を進めて、扉にそっと手をかけて、押し開きました。
自室から外に出ようとしたのは随分と久しぶりのことで、またお母様に叱られないかしら、お父様にぶたれたりしないかしらと、恐れながら、それでも手は止まりませんでした。

廊下の蛍光灯がチカチカと不安気な点滅を繰り返していました。壁に大きなひびが入っていました。
けれどそれ以外は何も変わらない、いつもの空間であるように思われました。わたしは少しだけ安心して、静かな廊下を歩きました。

お父様とお母様を何度も何度も呼びましたが、二人の姿は見つかりませんでした。……いえ、二人の姿どころか、わたしは誰の姿も見つけることができなかったのです。
大勢、この地下のいたるところにいた筈の赤いサングラス姿の人々は、けれど先程の爆音に全て飲み込まれてしまったかのように、全員、いなくなっていたのでした。
わたしはにわかに恐ろしくなって、誰か、と喉を枯らすように叫びながら、白く冷たい廊下を、歩きました。

このような状況においても、わたしは走りませんでした。走ろうとも思えませんでした。
「走る」ということをこの地下にて厳しく禁じられてきたわたしは、足を忙しなく動かすことを、どうにもはしたない、下品な行為であるように思っていたからです。
この異常なときに、そのようなことなど気にしている場合ではなかったのでしょう。けれどもわたしは走りませんでした。走ることができませんでした。

どの部屋をノックしても、返事は返って来ませんでした。廊下をどれだけ歩いても、わたしの靴音が響くだけで、誰もいませんでした。
誰もわたしの呼び声に応えてはくれませんでした。誰の気配も感じられませんでした。
わたしには知る由もありませんでしたが、わたしはこの時、置いていかれてしまったのでした。わたしという命はこの騒動の中で呆気なく淘汰されてしまったのでした。

わたしの部屋からは、いつもわたしの弾くピアノの音が響いていました。ピアノを弾けなくなってからは、その音色の代わりにわたしの煩い泣き声がずっと響いていた筈でした。
故に、ピアノの音も泣き叫ぶ声もせず、しんと静まり返っていたわたしの部屋が「無人」であると判断されてしまったとして、それは無理もないことであるように思われました。
フレア団の人達も、まさかわたしが部屋に残っているとは誰も思わなかったのでしょう。泣き叫べない程に怯えているとは、考えもしなかったのでしょう。

以上のことから、わたしが置いていかれたのは事故によるもので、故意のものではないように思えました。
けれど煩く泣き叫ぶわたしを忌み嫌った両親が、わざとわたしを置いていったのだという風にも考えられるような気がしました。
けれどそうしたことを、何も知らない当時のわたしが推測できる筈もありません。わたしは訳が分からないまま、ただ無人の廊下を歩くしかなかったのです。

お母様がいつも使っていたデスクに、ケーシィの入ったモンスターボールがなければ、わたしは本当に死んでしまっていたのかもしれません。

その赤と白のボールが残っていたことが、わたしの唯一の救いであるように思われました。
わたしは夢中でボールを手に取って、中からケーシィを出しました。
そして「お父様とお母様のところへ連れて行って」と頼んだのですが、ケーシィは困ったように首を捻るばかりで、わたしを何処にも動かしてくれなかったのです。
ケーシィにも、お父様とお母様が何処に行ってしまったのか、分からないようでした。
ポケモンという命は全能ではないのだと、わたしはそのような当然のことを、この時になってようやく気付くに至ったのです。

お父様とお母様のところへ行くことは、不可能であるように思われました。
それに、仮に二人に会うことができたとして、わたしはお母様に叱られてしまうような気がしていました。お父様にぶたれてしまうように思いました。
わたしは二人の言いつけを破って、部屋の外に出てしまったからです。彼等の隠していたみっともないわたしが、隠せないところに出てしまったからです。

二人には会えません。会ったところでわたしはきっと酷い目に遭ってしまうことでしょう。けれどこのままでいる訳にはいきませんでした。
わたしに料理を作ってくれる男性も、わたしの身の回りの世話をしてくれる女性も、誰も此処にはいません。わたしは彼等の助けがなければ生きていけません。
わたしというのはそうした、とても不完全な姿をしていたのでした。不完全でも生きてこられたから、完全になるための努力などしたことがなかったのでした。

わたしはもう、生きていけない。

その時わたしは確かにそう思いました。きっと今日がわたしの最後の日なのだと、本当にそう思ったのです。
わたしは皆に置いていかれてしまったのだとか、「世界」から淘汰されてしまったのだとか、そうしたことは何も察せていませんでしたが、
それでも、わたしという人間はこのままでは生きていかれず、いつしか死んでしまうほかにないのではないかと、それくらいの想像はすることができたのでした。

「ズミさん……」

そんなわたしの頭に彼の姿が思い起こされたのは、最早必然であったのでしょう。
どうせ最後であるならば、彼に会ってからにしたいと思いました。生きていかれなくなるのなら、最後に彼にさようならを言いたいと思いました。
それに、彼に会うためのお金はまだ五千円札が残っています。わたしにはあと1回、彼に会うことができるのです。
せめて、ワンピースのポケットに眠るそのお金を使い果たそうと思いました。彼に会うためのお金を残したまま死んでしまうのは、とても愚かなことであるように思われたのです。

「ズミさんのいるレストランに連れていって」

わたしは祈るようにいつもの言葉を告げました。
ケーシィが大きく頷くや否や、いつものように視界が大きく歪みました。彼の移動はいつだって唐突で、気が付けばわたしの目の前には、いつもの暗闇が広がっている筈でした。

「え……?」

けれど、そうはなりませんでした。何故ならこの時の「世界」は「昼」であったからです。


2017.4.7
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