34

※この回には悪魔がいます。

「貴方が頑なに偽名を使い続けるのは、あの少女との約束があるからなのでしょう」

再びフォークを構えたマリーに、私はそう告げました。
彼女は困ったように笑うだけで何も弁明しませんでしたから、それをいいことに私は更に、続けました。

「貴方はあの少女を「只一人の、唯一無二の親友」としていつまでも大切にするために、本当の名前で「友達」を作ることを悉く拒んできたのでしょう。
貴方の「偽名」という不誠実は、親友に示すべき誠意の裏返しだったのでしょう」

「……」

「それでも、貴方がマリーの名で彼女と友達になってくださったこと、「友人になってほしい」という私の願いを聞き届けてくださったこと、本当に感謝しているんですよ」

嘘を言ったつもりはありませんでした。それは私の心からの言葉でした。

外へ出られない彼女、料理も掃除も洗濯もできない彼女、白以外の衣服を受け付けない彼女、窓から差し込む日差しを悉く恐れる彼女……。
そんな女性を愛すること、そんな女性と共に在りたいと望むこと、それ自体には何の躊躇いもありません。彼女への想いが耐えたことは、一度もありません。
けれども、やはり違い過ぎるのです。彼女を普通の「女性」として見るには、私と同じ空間に生きている「人間」として見るには、やはり何もかもが欠けすぎていました。

私は彼女と、デートというものをしたことがありません。一緒に何処かへ出かけたことがありません。
女性の喜びそうなアクセサリの類を贈ったことは、あの婚約指輪を置いて他にありません。
彼女は私に何も望みません。何かを欲しいと口にしたこともありません。行きたい場所など当然のようにありません。

一般的な、愛した存在と為すべき何もかもを、私は彼女としたことがありません。
愛した存在にして差し上げたかったあらゆることは、ただ彼女を恐れさせ、怯えさせるだけでした。
異常を極めた二人での生活に、まだ正常であったと思しき私は疲れ果てていました。
彼女への想いを絶やしたことはありません。けれども彼女と生きることへの志は、既に折れかけていました。
力が必要でした。私ではない誰かの、力が。

「貴方がいなければ、私の心はきっともう折れていたでしょう」

たった一人を支えることなど、一人で十分にできると思っていたのです。思い上がっていたのです。
生きるということはそんなにやさしいものではないのだと、解っていた筈なのに。

……そうして私は厨房へと戻り、「いくらお得意様とはいえ、挨拶に何十分かけるつもりだ」と料理長に叱られ、肝を冷やしながら再び調理作業に従事しました。
冷たい水で調理器具を洗い、明日の昼に提供する料理の下ごしらえを終えて、調理服を脱いだ頃には、やはり10時半を回っているという状態でした。
早く帰らなければ、と急き立てられるようにレストランを飛び出した私の背中に、つい2時間前に聞いていた、あのメゾソプラノの声音が投げかけられたのです。

「ズミさん」

私は弾かれたように振り向きました。
3歳の娘は彼女の腕の中でぐっすりと眠っていて、あれからもマリーは私の仕事が終わるまで、何処かで時間を潰していたのだということが容易に察せられたのです。
マリーはその子を起こさないようにと、努めて小さな声音で、囁くように告げました。

「私、それでもいいって思うことにしました」

「え……」

「ズミさん、貴方はきっと間違っていません。仮に間違っていたとしても、私がアルミナさんとその子を支えます。貴方と一緒に、支えてみせます」

まるで詩歌を口ずさむようなその言葉は、しかしもう美しくはありませんでした。マリーの現実的で生命的な言葉は、私の胸を深く深く穿ちました。
それにきっと、貴方も子供を愛さずにはいられなくなりますよと、我が子のかけがえのなさというものは、親になってみないと解らないものですからと、
どうか優しくしてあげてくださいと、男性の力に女性のそれが敵う筈がないんですからと、私の友人を怖がらせないであげて、と、
そうした全ての言葉が、マリーらしくない諦念と許容のリズムに乗せて奏でられていました。
私はその悲しい歌を、ただ茫然と聞いているばかりでした。

今の私なら、マリーにそのようなことを言わせてしまった私自身を、恥じることができた筈です。
けれども当時の疲れ切った私には、そうした人間的な感情がすっかり失われていました。
ただ、マリーも納得してくださったのだと、唯一の支援者であるマリーの賛同が得られたのだから、もう恐れることなど何もないのだと、私は安堵するばかりだったのです。

そのような悲しい、優しくない結論に達してしまった彼女を申し訳なく思う気持ちを、……ええ、恥ずかしいことに当時の私は全く、抱くことができなかったのです。
それ程に、私は疲れていたのだと思います。おかしくなっていたのだと思います。
……いえ、私達がおかしくなかったことなど、それまでただの一度もなかったのですが。

そういった具合で、私はマリーの言葉に都合よく背中を推される形で、彼女の待つアパルトマンへと帰宅しました。
ピアノの音は止んでいたのですが、リビングに彼女の姿は見えませんでした。
私は迷うことなくピアノの部屋へと続く扉を開け、その狭い部屋の中で、五線譜のノートに音楽を書き込んでいる彼女を見つけることに成功しました。

私には黒い星が散っているようにしか見えないその記号は、けれども音楽に精通する者なら誰でも読むことのできる、音楽の世界での「言語」であるのだそうです。
ピアノを奏でていなくても、彼女はそうした調子でした。その視線はいつだって、鍵盤、五線譜、枯れた花、そのいずれかに向けられていました。
唯一、彼女が生物学的な営みを受け入れていることがあるとすれば、それは私との食事に他なりませんでした。
そのため、彼女の時を動かすべく、私は「アルミナ」と名前を呼びました。彼女は顔を上げて私をその目に映すや否や、ふわりと笑ってから「おかえりなさい」と言ってくださいました。

……そういえば、彼女を「アルミナさん」ではなく「アルミナ」と呼ぶようになったのは、いつの頃からだったのでしょう。
共に暮らし始めてすぐは「アルミナさん」と呼んでいた筈なのですが、そこから「アルミナ」に変わった転換点というものを、私は上手く思い出すことができません。
本当に「いつの間にか」彼女は「アルミナ」になっていたのでした。

愛し合っている二人の間において「変化」というものは恣意的に起こすものではなく、自然に、いつの間にか起きるものである。
そうした「世の真理」とも呼べそうなそれは、私が彼女の名前を呼ぶその現象に、綺麗に当て嵌まってくれました。
ただその一点のみにおいて、私達は非常に正しい夫婦の形をしていたのかもしれませんね。

「子供って大きくなるのがとても早いのね」

夜の11時、いつもの遅い夕食の席で彼女はそう呟きました。
私は彼女の方からその話題が出てきたことを驚きつつも、ええそうですねと笑顔で相槌を打ちつつ、自らの作ったパスタをフォークに絡め取っていました。

「あの子、わたしの名前を覚えてくれたの。アルミナさんって私の名前が呼ばれたとき、とても嬉しかったわ」

「おや、羨ましいですね。私はあまりあの子と会う機会がないものですから、未だに怯えられてしまいますよ。貴方は子供に好かれやすいのかもしれませんね」

そうなのかしらと首を捻り、わたしがそんな風だったなんて知らなかったわと微笑みました。
彼女の皿に盛られたパスタが一口、また一口と運ばれていく度に、私は自らの心臓が締め付けられるような痛みを強く覚えていました。
いっそ悪魔のような思考を展開させていた私も、やはり中途半端に人間だったものですから、やはり本題を切り出すには相応の度胸を要しました。

非倫理的な勇気を持ち合わせていた私は、けれども暴力的になることはできませんでした。
何故なら私は、悪魔になったとしてもならなかったとしても、変わらず彼女を想っていたからです。
想っていたからこそ、愛した彼女に生きてほしいと願ったからこその「非倫理性」であり、そこに暴力めいたものを付随させるつもりは更々ありませんでした。
故に私はとても緊張した心地で、彼女の話に相槌を打っていました。
彼女は私の心臓が張り裂けそうになっていることなど露知らず、いつものように穏やかな、ゆったりとしたソプラノで話を続けていました。

「マリーの髪は茶色なのに、あの子の髪は金色でしょう。不思議に思ってマリーに訊いてみたの。そうしたら、お父さんが金色の髪を持っているんですって。
目の色はお母さんから、髪の色はお父さんから。……子供ってそんな風に、両親の色を気紛れに引き継いで生まれてくるみたい」

デザートに作り置きしていたレモンのジェラートを盛り付けながら、私は彼女の話を聞いていました。聞いて、そして静かに覚悟しました。
彼女を傷付けてしまうかもしれないという覚悟を、彼女に嫌われてしまうかもしれないという覚悟を、決めました。
それでも彼女に生きてほしいのだと、彼女が生き続けてくれるという確信が欲しいのだと、そのためなら私は悪魔にだってなれるのだと、
何度も固めた筈の決意を繰り返して微笑めば、ようやく、心臓の音は弱まりました。
私の中の悪魔はこうして、私を完全に征服するに至ったのです。

「子供は、好きですか?」

「ええ、とっても可愛いと思うわ」

ジェラートにスプーンを差し入れた彼女が、その一口目を飲み下した頃を見計らって、私は小さく息を吸い込み、そして。

「子供が欲しいと思ったことはありますか?」


2017.6.30
【-:3】(29:39)<25>

© 2024 雨袱紗