1(Prologue)

どうにも不気味でならなかったのだ、この生き物は。

彼女は女性である。彼女は少女である。彼女は老人である。彼女は、母である。
あたしはこの不気味な生き物の娘である。あたしはどちらかというと親不孝な人間である。あたしは彼女を「母」と呼べない捻くれた少女である。あたしは、女性である。

あたしは「母」になったことがない。けれど今、まさに「少女」である。あたしは「老人」になったことがない。けれど生まれてこの方ずっと「女性」である。
そういう訳であたしはこの生き物の持っている、半分程度を理解し、半分程度に共鳴し、半分程度を愛して然るべきであった筈なのに、どうにも半分どころか、欠片も叶わないのだ。
母というものは、少女というものは、老人というものは、女性というものは、こんなにも難しいものかしら。こんなにも不気味で陰鬱で神秘的で、死にたくなるようなものかしら。
否、そうではない。世の女性の大半が「そう」でないことをあたしは知っている。あたしも「そう」でないことを、解っている。

あたしが彼女になることは不可能だ。どんなに「なりたい」と切望しても、彼女のような、華憐で優美で華奢で儚い、ガラス細工のような何もかもを手にすることなど叶わない。
けれど同時に、あたしが彼女のように落ちぶれることも決してない。あたしがどんなにやさぐれても、どんなに悪いことをしても、それでも彼女が纏う死臭には到底、及ばない。

死臭、とは、けれど彼女が放つ臭いではない。彼女が死んだことは未だかつてないし、きっとまだ何十年かはしぶとく生き続けるだろう。
それでも彼女は死臭を手放さなかった。冥界でダンスを踊るように生きている人だった。
日常の小さな死を掻き集めて「ああ、また死んでしまったわ」と愛しんでいるようなところがあった。不気味な人であった。

あたしが暮らしているアパルトマンの階下にはフラワーショップがある。彼女は3日と空けずにそこへ行き、花を一輪だけ買っていた。
ピアノを弾けることくらいしか取り柄のない彼女だったけれど、花の名前はよく言い当てていた。一緒にいたあたしも、いつの間にか様々な花を覚えてしまった。
家のあちこちにある一輪挿しに、ラナンキュラスやトルコキキョウといったささやかに華やかな花を差し入れて、飽きることなくずっと、本当にずっと、眺めていた。

けれど花は散る。土から切り離された植物は早くその命を落とす。故にそれらが見るも無残に花弁を落とすことは必至の、避けられないことであった。
そして彼女はその花弁を捨てない。花瓶の真下に落としたままにしている。茎が垂れて葉が色褪せて、水に浸かった根本の部分がドロドロに溶けてしまっても、彼女は花を片付けない。
見かねた彼女の夫がこっそりと片付けてしまうか、あるいはあたしが花瓶を取り上げるかしなければ、彼女はいつまでも、いつまでもそうしていただろう。

とても気味の悪い光景であったから、あたしは幼少期、一輪挿しの近くに行くのが怖かった。
彼女がニコニコとお日様のように微笑みながら、ミイラのようになったスターチスを眺めている姿が、今でもたまにフラッシュバックすることがある。
けれどスターチスのような水気の少ない花はまだいい方であった。水分の多い花、特にユリが溶ける様子はあまりにも無様であった。ああいう花は非常に溶けやすく出来ているのだ。
水は腐るものであるのだと、あたしは花の死臭を嗅ぎながら学んだ。耐えられない臭いさえも彼女は楽しんでいた。ニコニコと笑いながら、死者と軽やかにワルツを踊るのだった。

彼女がたまに、ピアノを弾くためではなく、料理をするために立ち上がることがある。
出来上がったものはレタスとプチトマトのサラダであったり、ヨーグルトをガラスの器に盛り付けてハチミツをかけただけのものであったり、
そうした、子供でもできるような代物に過ぎず、それを料理というにはあまりにも足りなさ過ぎたのだろうけれど、
それでもキッチンからあたしの名前を呼んでくれるとき、あたしは毎度のことながらとても、とても喜んだ。
それがぬか喜びになると知っていながら、手酷い裏切りを受けることになると解っていながら、どうしても笑顔になってしまうのだった。

本やドラマの中に登場する、チーズを混ぜ込んだオムレツやふわふわのホットケーキというものを、どうにも食べてみたくなるときがあった。
別段、あたしが甘えん坊であるということではないと思う。あたしはそれ程、大それたものを望んではいなかったように思う。
上手でなくともよかった。それが「母」の料理であるということを私は夢見ていた。

けれどあたしは、彼女の料理を完食できたことがない。何故ならそのサラダに盛られたレタスは腐っていたし、プチトマトだって本来の張りを失って、しわしわになっていたからだ。
鼻元に近付けずとも、フォークでトマトを突き刺すだけで当然のように死臭がした。ぬめぬめとするレタスを小指の先ほどだけ齧って、フォークを置かざるを得なかった。
ヨーグルトも一口だけしか食べられない。まるでお酢を飲んでいるかのような強烈な酸味が舌を指すからだ。
発酵食品であり、元々「腐っている」ような食べ物でも、度を超すとこのようになってしまうのだと、そうした、知りたくもなかったことをあたしはとてもよく知っていた。
トーストだけは食べられた。焦げすぎていたけれど、腐っていなかったのだ。けれどこれだってもしかしたら、賞味期限を大きく過ぎた、とんでもない代物だったのかもしれない。

彼女は、野菜にせよ花にせよ、完全に死んでしまわなければ愛せないようなところがあった。
生命の息吹を感じさせるものを、彼女は何故だか恐れていた。
彼女は野菜に触れられない。綺麗な水で構成された食べ物に触れようとしない。辛うじて触れられる乾麺やお米の調理の仕方を彼女は知らない。知ろうとしない。
彼女がフラワーショップで花に触れたことは一度もない。包み紙越しにそっと抱きかかえるだけだ。そのみずみずしい花弁を指先でつついているところを、あたしは見たことがない。

そんな彼女が愛することの叶う「生きている命」は、あたしと、彼女の夫を置いて他にいなかった。

あたしはそんな彼女と、彼女の夫の娘である。けれどあたしは彼等を「父」「母」と呼んだことは一度もない。
もっともそれは私に限ったことではなく、二人もまた、互いのことを「お父さん」「お母さん」などと呼ばないのだ。
いつだって彼等は互いのことを互いの名前で呼ぶ。恋人のように、兄弟のように、親しみを込めて名前の音を乞う。「ズミさん」「アルミナ」と名前で囁き合う。
彼には父であるという自覚がない。彼女は母であることを認めることができていない。

……あたしは彼女よりも若い見た目をしているけれど、それでも我が家の有様を見れば、誰もがあたしを「母」と呼び、彼女を「娘」と呼ぶだろう。
あるいは彼女の夫を指して「息子」とさえ呼ぶのかもしれなかった。

彼女の夫は、ミアレシティの大きなレストランで料理長を任されている。おそらく、一番偉い立場にあったように思う。
彼の職場はあのレストランから一度たりとも変わったことがない。彼はあの立派なレストランの外にある世界を知らない。
芸術家気質である彼には教養がない。アートの世界にのめり込み過ぎた彼は世間を知らない。彼女にしか恋をしたことのない彼は、一般的な女性の姿を理解しようがない。
そういう意味では彼も彼女も同じだった。二人の時は少女と青年のままに止まっていた。
体は確かに大人の様相を呈しているけれど、心はあまりにも若く、あまりにも幼かった。

彼女は変わらない。彼も変わらない。けれどあたしは変わり続けている。あたしは二人の、時のない世界には入れないから、あたしは体も心も成長し続けている。
そういう訳であたしはとっくの昔に彼女の年を追い越していた。もしかしたら彼の年をも、追い越してしまっているのかもしれない。
あたしは彼女が30、彼が40の時に生まれた子だ。故にどう足掻いてもあたしが二人を追い抜かすことなどできないのだけれど、それでも、今ではあたしの方が年上だった。

あたしは彼女にできないことを沢山、できる人間だった。
洗濯物を綺麗に畳むこと、冷たい水で食器を洗うこと、靴紐を素早く結ぶこと、重い荷物を運ぶこと……。
馬鹿げている。こんなことができたって何の自慢にもならない。解っている。けれど言わせてほしい。これは「できて当たり前のこと」ではないのだ。現に彼女は、できないのだ。
彼女は洗濯物を畳めない。冷たい水に手を差し入れることができない。蝶々結びには私の3倍の時間を要するし、マグカップより重いものを持ったことがない。
何をするにも「あら、どうしましょう」と困ったように笑っていた。あたしが小さな頃から彼女はずっとそんな調子だった。
だからあたしは、突き飛ばせば折れてしまいそうな彼女の前にそっと出て行って、洗濯物を畳み、お皿を洗い、靴紐を結び、荷物を運んだ。そうやって生きてきた。

またあたしは、彼の知らないことを沢山、知っている人間だった。
リビングの切れた電球の取り換え方、窓ガラスに付いた汚れの落とし方、電車に乗るための切符の買い方、万年筆の芯の取り換え方……。
ふざけている。こんなことを知っていたところで何の取り柄にもならない。けれど言わせてほしい。これだって「知っていて当然のこと」ではないのだ。現に彼は、知らないのだ。
彼は電球を取り換えたことがない。窓ガラスを掃除したことがない。宅配便の受け取り方を知らない。万年筆の芯をどうやって取り換えればいいのか、解らない。
けれど彼はプライドの高い人間で、あたしのような子供の姿をした人間に手を貸されることをひどく嫌っているようだったから、
あたしは彼のあずかり知らぬところで密かに、電球を変え、窓ガラスを掃除し、宅配便の伝票にハンコを押し、万年筆の芯を取り換えていた。物心ついたときからずっとそうしてきた。

何もできない彼女が、何も知らない彼が、ただ哀れで、悲しかった。

彼女も、彼も、あまりにも無知で、あまりにも一途で、あまりにも純粋だった。
「美しい」カロスにおいて、本当に「美しく」生きているのはこの二人だけなのではないかとさえ思われた。
けれど美しく生きることは、そう楽しいものでもないのだ。現に二人は苦しみながら生きている。泣きながら、震えながら、生きている。
可哀想だと思った。何もできないままに40を超えてしまった母のことが、あのレストランに閉じ込められたまま50を超えてしまった父のことが、可哀想だった。

……否、それは建前に過ぎない。本当はあたしが耐えられないのだ。
屈辱を噛み締めるように生きている彼女を、これ以上、見ていられないのだ。何も知らずに料理と彼女だけの世界を回し続ける彼を、これ以上、無視できないのだ。

「そういう訳だから、あたし、二人を殺そうと思うの」

ミアレシティのポケモン研究所で働いている、唯一の理解者にそう告げた。
彼女の海の目が大きく見開かれた。美しく伸びたブロンドの髪を、窓から吹き込んできた秋風が揺らした。
その風にはオレンジ色の匂いが溶けている。淡いライラックの香りだ。この街の至るところに植えられている、金木犀の香りだ。
この心地良い香りでさえ、あたしには「死臭」に思えた。……それはあながち間違いでもなかったのだけれど。

4つ年上の「お姉ちゃん」は、私が物心ついたときからずっとあたしを支え続けてくれた彼女は、悲しそうに悔しそうに眉を寄せて、それでも笑顔で、告げた。

「あいつを止められなかった母さんの屈辱が、やっと解った気がする。きっと母さんもこんな気持ちだったのね。私も、きっと止められないのね」

金木犀が、今年も咲いている。忘れないで、と風が囁いている。


2017.4.6
【17:22】(47:57)
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