ヒビキのベッドの上にマリルがぴょんと飛び乗って、その丸い尻尾をヒビキの腕に軽く叩きつけるようにしました。
まるで「構って」と言っているようなその仕草に、ヒビキは苦笑しながらも、慣れた様子でマリルを抱き上げて膝の上へ乗せました。
「ふふ、外の匂いがするね。もしかして水遣りをしてくれたのかい?」
ヒビキがそう尋ねると、マリルは慌てたようにくるりとあなたの方を振り返って、声を発しつつ小さな手であなたを真っ直ぐに示しました。
あなたにはそれが何を意味しているのか分からなかったのですが、長くマリルと一緒にいるヒビキには理解できたらしく、すぐに柔らかい笑顔を湛えて、
「君も水遣りを手伝ってくれたんだね。ありがとう」
と、あなたに向かってそう言いました。
ああ、マリルは「僕だけじゃなくてこの子と一緒に水遣りをしたんだ」という旨のことを伝えようとしていたのだと、あなたはようやく察するに至りました。
「まるでポケモンの言葉が分かるみたい!本当にこのマリルと仲良しなんだね」
「うん、もう何年も一緒にいるからね。パートナーポケモン、という訳じゃないんだけど」
「パートナーポケモンとそうじゃないポケモンとは、何が違うの?
私には、コトネとチコリータも、ヒビキとマリルも、同じように仲良しに見えるよ。まるで生まれてくる前からずっと一緒だったみたい」
あなたがふと気になってそう尋ねれば、ヒビキは困ったように笑いながら、不思議なことを告げました。
「僕にもまだよく解っていないんだけど、でもコトネと僕には天と地ほどの差があるんだよ」
あなたにはとてもそうは思えなかったのですが、ヒビキはあなたの納得の如何にかかわらず、「ヒビキとコトネは違う」のだということを、確信しているようでした。
その振る舞いは、やはりどこか姉のクリスに似ていました。ヒビキとクリスにはそうした、どこか「悲しい確信」が付いて回っているように思われました。
けれども天真爛漫なコトネには、彼等のような優しい影がありません。
ヒビキとクリスにあって、コトネにないものとは一体、何なのでしょう。あなたにはまだ分かりませんでした。あなたはその違いを、まだ知ることが許されていませんでした。
「そういえば、高く真っ直ぐに伸びた青い花の蕾がもうすぐ咲きそうだったよ。小川の近くの、木陰が濃い場所に生えている植物なんだけど、あれにも名前があるの?」
「うん、あれはアガパンサスという植物なんだ。彼岸花って知っているかい?
アガパンサスも彼岸花の仲間で、あの種類は茎ばかりが高く伸びて、葉は何処にも見当たらないように見えるけれど、実はちゃんと、葉っぱは土の中にあるんだよ」
「彼岸花なら私の街にも咲いているよ。真っ赤で、花火みたいに綺麗な花弁をしているから私は好きなんだけど、でもお母さんやお父さんはあの花、嫌いだったみたい」
「あまり縁起の良い花じゃないからね。でも僕も、彼岸花やその仲間は好きだよ。
ネリネっていう花も彼岸花の仲間なんだけど、あれも綺麗な形をしているんだよ。森の西側に白いネリネを植えているから、また見せてあげるよ」
アガパンサス、のくだりでヒビキは植物図鑑をパラパラとめくり、その花の説明が書かれている言葉を引き当てました。
そうかと思えば、ネリネという花の名前を口にするや否や、彼はまたその分厚い図鑑の中から、あっという間にネリネの花が載ったページを探し当てたのでした。
まるでこの分厚い図鑑の中の、どこにどの植物がいるのか、ヒビキには全て解っているような、そうした、あまりにも滑らかで淀みない手の動きでした。
あなたはヒビキの説明に聞き入りながら、植物図鑑の中に咲く、宝石のように美しい花達をじっと見つめていました。
「ネリネは白だけじゃなくて、赤やピンクもあるんだ。君は何色の花が好き?」
「小さい頃は赤いチューリップが好きだったけれど……でも今は何色の花も好きだよ。花は何色でも、どんな形でも、咲いているところを見るとなんだか幸せになれるよね」
「あはは、そっか、そうだね!君は本当に優しい子なんだね」
優しすぎるところのあるヒビキに「優しい」などと評されてしまい、あなたは少しだけ面食らいました。
何色の花でも好き、なんて、主体性や関心の少ない退屈な人間か、あるいはひどく欲張りな人間であるように思われても、仕方のないことだとあなたは考えていました。
けれどもヒビキはあなたの言葉に「優しさ」を見ていて、どんな花でも好きだと言うあなたのことを、とても好意的に見てくれているようでした。
あなたはそのことに多少の気恥ずかしさを覚えたので、誤魔化すように「ヒビキのせいだよ」と拗ねた調子で告げました。
「ヒビキと一緒にいると、花がとても綺麗なんだよ」
「え?」
それはあなたの本心でした。
この町に来てヒビキに会う前から、綺麗な花を見るのは確かに好きでしたが、
その花のことについて詳しく知りたいと思ったり、いろんな花を見たいと強く願ったりすることはありませんでした。
花に限らず、野菜も、果物も、その他のあらゆるところに生えている植物も、あなたにとっては「そういうもの」であり、
それがその時にそこに在り、そうやって育つ「理由」など、考えたこともありませんでした。
けれども、ヒビキに出会ったのです。ヒビキが植物のことを教えてくれたから、毎日、いろんな花や草木の話をしてくれるから、あなたも植物のことがもっと好きになったのです。
もっと、その図鑑の中のことを、この森の花に咲く鮮やかな色のことを、知りたいと思ったのです。
その気持ちをくれたのは、他の誰でもない、ヒビキでした。
「……」
そうした、あなたにとって「当然」のことに、けれどもヒビキはとても驚いているようでした。
そして驚くだけならまだしも、彼は顔を真っ赤にして深く俯いてしまったのでした。
あなたは何かおかしなことを言ってしまったのだろうかと慌てましたが、彼もまた、慌てたように「いいや、なんでもない、なんでもないんだよ」と、笑いながら誤魔化しました。
誤魔化されたところで、あなたには「何」を誤魔化しているのかよく解りませんでしたから、
「そうなんだ」と困ったように笑いながら、彼の頬に差した赤が薄まるのをのんびりと待つほかになかったのでした。
「……あ、そういえば、玉ねぎみたいな緑色の実を見かけたんだけど、あれは何の木なの?」
「あれは白イチジクだよ」
「イチジク?私がスーパーで見かけるイチジクは、もっと丸くて赤紫色をしているけれど、あれもその仲間なんだね」
「うん、バナーネっていう品種なんだけど、少し細長くて珍しいよね。
白イチジクは熟しても皮の色が赤くならないから、食べ頃を見分けるのが難しいんだ。でもそろそろ収穫時期だから、セラもお土産に沢山持って返ってよ」
あなたはその言葉に、イーブイがまだ緑色の実を採ろうとしていたことを思い出しました。
あなたはその実がまだ「熟していない」ものだと思っていたが故に、イーブイのあの行動を窘めたのですが、
もしかしたらイーブイには、あの白イチジクが熟していて、食べ頃であることが分かっていたのかもしれません。
そのことをヒビキに伝えると、彼は面白そうに笑いながら、
「ポケモンって、僕等には想像もつかないような凄い力を沢山持っているから、もしかしたらイーブイは本当に、食べ頃を見抜いていたのかもしれないね」
と、イーブイの長い耳を優しく撫でながら、そんなことを口にしました。
そうしてあなたがヒビキの手元にある図鑑に視線を落とせば、やはり既に「白イチジク」のページが捲られているという状態なのでした。
「私も、その図鑑を一緒に見てもいい?」
あなたがそう尋ねれば、彼は驚いたように目を見開いてから、ふわりと花を咲かせるように笑いました。
ベッドから腰を下ろして、檸檬色のカーペットの上に寝転がり、その隣をぽんぽんと右手で叩いて示してくれたので、あなたもぱっと笑顔になって、そこへ寝転がりました。
アガパンサスやネリネの、土の中に隠れた葉っぱのこと。白いイチジクと赤いイチジクのこと。
もうすぐ庭の朝顔が満開になりそうであること。コウキとヒカリから譲り受けた、赤色をしたピーマンのこと。
ヒビキは大きな図鑑をパラパラと捲りつつ、あなたのちょっとした疑問にも、分かりやすく答えを組み立ててくれました。
鮮やかな写真の中、赤や黄色の花たちが「その時期に、その場所で、その形で存在している理由」に、あなたは真摯に耳を傾けながら、
すぐに「そうなんだ」と納得したり、あるいは「でもそれっておかしいよ」と反論したリ、ときには「よく解らないや」と匙を投げたりもして、
……そうしてずっと、あなたはこの部屋から出ていくことをせず、ヒビキと共に植物の世界を折り続けていました。
イーブイとマリルは部屋の隅でじゃれ合ったり、一緒に図鑑を眺めたり、2階の廊下で追い掛けっこをしたりして遊んでいました。
2匹が仲良くなっている姿を見るのは、あなたにとっても嬉しいことでした。
「ピーマンやゴーヤを赤や黄色の状態にするには、沢山のエネルギーが必要なんだ。完熟になるまで育てていると、すぐに苗が疲れてしまうんだよ。
食べられる状態のものをできるだけ多く、長く収穫するために、人間はまだ完全に熟していない、緑色の、少し苦い状態であれを食べることを選んだみたいだね」
「甘い野菜を少しだけ収穫するよりも、苦い野菜を沢山収穫する方が、人にとって都合がいいってこと?」
「そういうことだよ。……ふふ、納得がいかない、って顔をしているね」
「そりゃあ、苦いものよりは甘いものの方がいいに決まっているじゃない。ヒビキだってそうでしょう?」
彼はあなたの方へと顔を近付けて、とても小さな声で「そうだよ」と囁き、笑いました。あなたも嬉しくなって、クスクスと笑いました。
人間が創り上げた立派な合理性よりも、あなたとヒビキの子供っぽい嗜好の方が、この小さな部屋の中では意味のあることでした。
そうした、世の中の仕組みを織ることだって勿論、楽しかったのですが、今はただ、「苦いものが嫌い」という、あなたと彼の正直な心のままに、笑っていたかったのです。
そういう気分だったのです。
2017.9.10