Route 1-7

8月6日、あなたは朝食の席で思わぬ出会いをすることになりました。
ヒカリとコウキが、畑で収穫したというピーマンを持って来てくれたのです。

お姉ちゃんは口の中にパンを詰め込んだまま、くぐもった声音で「わあ、ありがとう!」と告げました。
セラも見てごらん、と促され、あなたはカゴの中に山ほどはいったピーマンを覗き込みました。
ゆうに30個はありそうなその山盛りのピーマンからは、都会ではまず嗅ぐことの叶わないような、青っぽい匂いとやわらかい土の香りがしました。

こんなに沢山のピーマンを、一体彼女はどうやって調理するつもりなのでしょう。
そう思い、尋ねようとしたあなたは、けれどもそのピーマンの山の中に、驚くべきものを見つけて、思わず「あ」と声を上げつつ手を伸べてしまいました。

「赤いピーマンだ!」

緑色のピーマンと全く同じ形、同じ大きさでしたが、色だけがパプリカのように鮮やかな赤色を呈していました。
これがヒビキの言っていた「そのまま放っておくと赤くなる」というピーマンなのでしょう。
あなたが赤いピーマンを取り上げて眺めていると、コウキが「珍しい?」とあなたに尋ねてきました。

「うん、赤いピーマンなんて初めて見た。これもちゃんと食べられるの?」

「勿論、食べられるよ」

「辛い?」

「まさか!むしろ緑だった頃のピーマンの苦さが弱くなっているから、食べやすいと思うよ。
もし味が気になるのなら、マスターに頼んで、そのピーマンだけで何か料理を作ってもらうといいかもしれないね」

コウキは流暢にそう説明してから、ヒカリやポケモン達と一緒にカフェを出ていきました。
あなたは「辛くない」という赤いピーマンをそっと緑の山の中へと戻して、少しだけ冷めてしまったオムレツに手を付けました。
お姉ちゃんが緑のピーマンと赤いピーマンでジャグリングのようなことをしながら、「それじゃあ今夜はピーマンパーティね!」と、
まだ子供であるあなたにとってはあまり嬉しくないパーティの開催を宣言して、とても楽しそうに笑いました。

「あら、もしかしてピーマンはあまり好きじゃない?」

小学6年生であったあなたには、まだピーマンへの苦手意識がありました。
ひとつ屋根の下で暮らしているお姉ちゃんに虚勢を張るのもおかしな話だと思い、あなたは大きく頷きました。
彼女は「そうだよね、私も子供の頃はこれが苦手だったわ」と笑いつつ、それでもピーマンパーティの開催を取りやめるつもりはないようでした。

「ふふ、腕が鳴るわね。必ずセラに「美味しい!」って言わせてみせるから、今晩、楽しみにしていてね!」

ピーマンはどう調理したところで、美味しくなどなりようがないのではないかとあなたは思いましたが、それを駄々っ子のように口にすることはやはり躊躇われてしまいました。
けれども彼女はそうしたあなたの複雑な胸の内を読んでいるかのように、困ったように笑いながら肩を竦めて、

「デザートにはとびきり甘いケーキを作っておくからね」

と、あなたの機嫌を上向きにさせる単語を奏でてみせるのでした。

今日は少し体調が悪かったらしく、ヒビキは水遣りをしに外へは出てきませんでした。
彼ととても仲のいいマリルが、「ヒビキの分まで頑張ろう」と意気込んでいるかのように、その小さな身体で森の中をあっちへこっちへと駆け回り、
朝顔、日々草、千日紅、その他あなたの知らない花へと懸命に水をあげている姿を、あなたは見つけることができました。

「私も手伝っていい?」

あなたが屈んでマリルにそう尋ねれば、マリルは嬉しそうに声を上げてから、家の東にある水道のところまであなたを案内してくれました。
マリルは、いつもヒビキが使っているジョウロがどこに置かれているかを、完全に把握しているようでした。

ジョウロに水をたっぷりと満たして、あなたはマリルと一緒に水遣りをしました。
森の中で気紛れに茎を伸ばす植物たちの中で、あなたの知っている花があるとすれば、それは朝顔と向日葵と、あとは先日、ヒビキに教えてもらった日々草と千日紅くらいのもので、
その他の、たとえば倒れた木の影にひっそりと生えている小さな黄色い花や、高い木の枝から垂れ下がるようにして咲いている、ラッパのような大きなオレンジ色の花などは、
まだあなたにとっては「花」という一括りの域を出ず、その花固有の名前も、その生態も、やはり分からないままなのでした。

名前の分からない淡い青の蕾が、今にも開こうとしている様子を確認して、マリルやイーブイに「花が咲くのが楽しみだね」と笑いかけました。
やはり名前の分からない、玉ねぎのような形の果実を見かけましたが、イーブイがその木に登り、まだ緑色のそれを採ろうとしていたので「駄目だよ」と苦笑しつつ窘めました。
名前が分かればもっと楽しかったのかもしれませんが、十分でした。また後で、ヒビキに尋ねればいいだけの話だと思ったからです。
だから、此処にヒビキがいればもっと楽しかっただろうと思いましたが、それも別に構いませんでした。水遣りを終えれば、すぐにでも彼に会いに行くつもりだったからです。

マリルはとても聡明でした。
水の必要な植物と、水遣りをしてはいけない植物との区別がついているようで、どんなものにもジョウロを向けるあなたを、何度か大きな声で咎めていました。
あなたはその度に「ごめんね」と謝りつつ、小さなマリルの堂々とした態度に、ただただ感心している、といった具合なのでした。

……ヒビキと長く一緒にいるマリルは、この森に咲く花のことを、既にとてもよく知っているようでした。
ポケモンという生き物が、その小さな身体に反してとても賢く、とても勇敢で、とても力強い生き物であることをあなたは知り始めていましたから、
あなたよりもずっと小さいマリルが、あなたよりもずっと多くの知識と経験を有していたとして、今更、それについて「信じられない」などと驚くつもりは更々ありませんでした。

「マリルは凄いね。私も君みたいに、もっとお花のことについて詳しくなりたいなあ」

ふと、あなたはヒビキが数日前に見せてくれた植物図鑑のことを思い出しました。
彼の体調が芳しくなくて、外に出られないような日には、彼の部屋で彼と一緒に、あの大きな図鑑を広げてみたらどうだろう、とあなたは思いました。
外に出られなかったとしても、元気でなかったとしても、楽しめることは沢山ある筈だとあなたは確信していました。
少なくともあなたは、図鑑を眺めるその時間を想像するだけで、居ても立っても居られなくなるような、途轍もない高揚感に満たされることができていました。

水遣りを終えたあなたは、ジョウロを水道のところに戻してから、マリルやイーブイと一緒にヒビキの家へと入っていきました。
家にカギが掛けられていない、という、あなたの住んでいた街では信じられないようなことにも、あなたはすっかり慣れてしまっていました。
お母さんに挨拶をしようと思ったのですが、見当たらなかったので、あなたは先にヒビキに会いに行こうと、階段をトントンと軽快に駆け上がりました。
階段を上がってすぐのところにあるドアをノックすると、ドアの向こうからヒビキが確信を持った声音で、

「どうぞ、セラ。入って」

と告げたものですから、あなたはとても驚いてしまいました。
ドアノブに手をかけてゆっくりと開けば、ベッドに腰掛けたヒビキがあなたの方を真っ直ぐに見ていました。

「どうしてドアの向こうにいるのが私だって分かったの?まだ私、今日はこの家に入ってから一言も声を出していなかった筈なのに」

「階段を上がってくる足音が、君のものだったからね」

足音で誰が来ているか判別できるなんて信じられない、とあなたは思いましたが、よく考えればあなたにも、心当たりがありました。
あなたは、あなたの通っている学校において、教室に「先生が近付いてきている」ということを、いち早く察することができていました。
生徒の上履きはどれも同じものであり、その靴音も当然のように同じものでしたが、先生の履く上履きには「指定」がないため、先生がそれぞれ好きなものを選んで履いていたのです。
パタパタ、というスリッパの軽い靴音は教頭先生。ザッザッという乾いたスニーカーの音は音楽の先生。ペタペタと小さな歩幅で駆けてくるのは、小柄な家庭科の先生。
……といった具合に、あなたも「足音で誰が来ているのかを当てる」という経験を、少なからずしたことがあったのでした。

けれどもそうした芸当は、1か月や2か月といった長い期間、先生の靴音を聞き続けていたからこそ為せるものであって、
彼のように、まだ出会って一週間も経っていないようなあなたの足音を、即座に見分けられるようになるというのは、やはり並の芸当ではないように思われました。
そのためあなたは「もう私の足音を覚えたの?凄い!」と、感心したように告げましたが、
ヒビキにはあなたのその反応がどうにも予想外であったらしく、その華奢な肩を震わせて小さく笑いつつ、「ああそっか、そうなんだ」と零しました。

「どうしたの?」

「いや、こんなことを言うと気味悪がられるかもしれないって思っていたから、君の反応が予想外で、面白かったんだ。
……君はきっと、お姉ちゃんといい友達になれるかもしれないね」

そう言われて、あなたはいつも一人でいるクリスのことを思い出しました。
『私はきっと、一人でいた方がいいんだと思うから。』
彼女が悲しい笑顔で歌うようにこう告げたあの日のことを、あなたはまだはっきりと覚えていました。

『だから君も、僕に「好き」なんて思っちゃいけないよ。』
あなたはまた、昨日のヒビキの言葉を思い出しました。昨日のことでしたから、こちらは覚えていて当然のことでした。
ヒビキとクリスという、見た目はあまり似ていないこの姉弟は、けれども「優しすぎる」という致命的な点において、とてもよく似ていたのかもしれません。

2017.9.9

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