Route 1-6

「びっくりした?」

ジョウロの水は細く流麗に、マリルの吹き出す水は太く豪快に、朝顔の葉をぴょこぴょこと揺らして落ちていきました。
湿った土は、あなたの見慣れない、とても綺麗な茶色をしていました。
小学校のグラウンドにある、乾いた黄色の硬い土とは比べ物にならないくらい、その土はとてもやわらかく、水と空気をいっぱいに含んでいました。

何の脈絡もなく唐突に尋ねられたその言葉でしたが、あなたはその「びっくりした?」が、昨日のコトネ達の反応を指しているのだと、すぐに勘付くことができてしまいました。
「少しだけ」と正直に告げれば、ヒビキはジョウロを両手に抱え直して静かに笑いながら、目をすっと細めて優しく伏せました。
それはまるで大人のような表情でした。どこまでも優しく悲しい表情でした。
そんな顔をする男の子は、少なくともあなたの通っていた学校のクラスメイトには、ただの一人もいませんでした。

「僕が体調を崩すと、よくああやって咳き込むんだ。だからコトネやシルバーは、誰かが咳をしただけで、とても不安になってしまうみたいだ。
……おかしいだろう?君はラムネの泡にむせただけだっていうのに」

小さく肩を竦めたヒビキに、あなたは「おかしいね」とも「心配になる気持ちは分かるよ」とも告げることができず、
ただ沈黙して、水滴を乗せた朝顔の大きな葉に視線を落とし続けていました。
じっと見られていることを恥ずかしがるように、タイミングよくそのうちの一枚がふるりと揺れて、キラキラと光る水を土へと落としました。
ふかふかの茶色い土は、その水をあっという間に飲み込んでしまいました。

「僕の身体が弱いから、僕の大事な人が苦しむ。僕が元気じゃないから、僕の大切な人が不安になる。だから僕はあまり、シルバーとも、他の子供達とも、仲良くしたくない」

「……シルバーもコトネも、他の皆も、ヒビキに傷付けられたと思って、苦しんだり不安になったりしている訳じゃないと思うよ」

少なくとも、あなたは町の子供達から、ヒビキを疎んでいるような言葉を聞いたことはただの一度もありませんでした。
コトネやシルバーの口から、彼の悪口を聞いたことだってありませんでした。
彼は嫌われている訳ではありません。それなのに彼は一人になろうとしています。ただ「体が弱い」というだけで、彼はひどく臆病になっています。
そんなヒビキに、あなたはどんな言葉をかけるべきだったのでしょう。よく、解りませんでした。

「そうだね、解っているよ。でも「好き」ってもっと幸せな気持ちの筈だよね?その人のことを考えると、幸せになったり、元気が湧いてきたりするものだよね?」

「……うん」

「でもコトネやシルバーは、僕のことを考えると不安になる。こんな「好き」はきっと間違っているよ。誰かを幸せにできない「好き」なんて、あっても悲しいだけだ」

だから、とヒビキは一呼吸置いて、次の水遣りの場所へと歩き始めました。
あなたはいつものように、彼の後ろへと続こうとしたのですが、くるりと振り返った彼が、今までで一番の笑顔を作って、こう言ったのです。

 
「だから君も、僕に「好き」なんて思っちゃいけないよ」

 
頭を殴られたかのような衝撃でした。パチン、とあなたの思考は四散して、真っ白になって、すうっと脳が凍り付いてしまって、何も、考えられなくなりました。
けれどもそのような鈍った頭でも、この男の子はあなたを窘めているのだと、あなたは彼に拒まれてしまったのだと、そうしたことだけは理解できました。
あなたは、ふかふかの柔らかい地面に縫い付けられたように動かなくなりました。
茶色い地面が、木の香りのする心地良い土が、あなたの足をずぶずぶとそこに沈めているかのような、そうした重く苦しい感覚に襲われました。

ヒビキはそれを見て、悲しそうに笑ってから小さく「ありがとう」と紡ぎ、あなたに背を向けました。
さく、さく、と、彼の小さなゆっくりとした歩みは、けれども時を経ることで確実にあなたと彼とを引き離していきました。
あなたが駆け寄ることを忘れていたのですから、当然のことでした。

このまま、ヒビキの姿が森の中へと消えてしまうまで、濃く暗い木陰が彼の華奢な姿を覆い隠してしまうまで、あなたはずっと、固まったままでいるように思われました。
もしこの場にあなたしかいなければ、間違いなく、あなたはヒビキを見失っていました。

けれどもあなたの足元にはイーブイがいます。
イーブイはあなたを励ますように、急かすように、甲高い声で何度も鳴きながら、あなたの靴をその鼻先でぐいぐいと、彼の方へ押しています。
あなたは我に返り、勢いよく、そのふかふかの土を蹴りました。あなたの足を絡め取り、深く沈めようとしていた筈のその茶色い土は、けれども呆気なくあなたを手放しました。
あなたは生まれて間もない小さな命に、この上ない勇気を貰っていたのです。

「待って!」

あなたが駆け寄ってきたことは、ヒビキにとって予想外であったらしく、彼はその大きな目をいっぱいに見開いて、あなたが急速に距離を詰めてくる様子を見ていました。
ヒビキは走ることができません。あなたが動きさえすれば、あなたは彼に追いつくことができました。そんなこと、解り切っていました。
あなたが、この男の子に踏み込む勇気さえ手にすればいいだけの話だったのです。あなたが、心を折らなければいいだけの話だったのです。
たったそれだけのことを、けれどもあなたはイーブイがいなければ、きっと為すことはできなかったでしょう。

「……ヒビキは遅すぎるよ」

「そりゃあ、僕は元気じゃないからね」

「違う、足の速さの話じゃなくて、言葉の話をしているんだよ。
さっきみたいなこと、ヒビキがずっとそう思っていたのなら、もっと早く言ってくれなきゃ、意味がないんだよ」

弱々しく笑いながら、ヒビキは首を傾げました。
あなたは、気を抜けば泣き出してしまいそうな心地の中、けれどもあなたのすぐ傍にはイーブイがいるのだという、その「存在」の事実があなたから涙を奪っていました。
あなたは足元にいてくれるイーブイの気配を認めつつ、大きく息を吸い込みました。深呼吸のつもりでしたが、吐き出す息は滑稽なことに震えていました。
動揺しているのだ、不安なのだ、また拒絶されることが怖いのだと、そう認めればいよいよ目元が熱くなってしまいました。

「もう、間に合わないよ」

5日。今日は8月5日です。ヒビキと出会ってから、この森で彼に声を掛けられてから、今日で5日が経過していることになります。
もう、それだけの時間を、あなたはヒビキと過ごしてきてしまいました。
この広い町の中で、あなたは他の何処でもないこの家を訪れて、他の誰でもないヒビキに会うことを選び続けてきました。
だから今更、当の本人であるヒビキにそのように言われたところで、もうどうしようもなかったのです。

ヒビキはもっとずっと早く、その拒絶の言葉を口にするべきだったのです。
そうすれば、あなたは彼から離れることだったできたでしょう。
新入りを快く思わない人間もいるのだと、そうした小さな納得をして、あなたはヒビキのことを忘れられたことでしょう。

けれど、もう5日目です。彼の言葉は遅すぎたのです。間に合う筈もなかったのです。

「……私、明日も来るよ!次の日も、その次の日も来る。ヒビキが「間違っている」と思ったとしても、私は君に会いに来るよ」

あなたには、友達に「会いたい」と思うことがそこまで悪いことであるようには、どうしても思えませんでした。
それがヒビキの価値観や思考と悉く捻れたところにあったとしても、それでもあなたは彼に会いたかったのでした。
だってまだ、あなたには彼と話したいことが沢山あったのです。葡萄の話も、田んぼに張られた水の話も、朝顔の話も、あなたはまだヒビキとすることができていません。
ヒビキの好きな花の話、本の話、まだ殆ど聞くことができていません。

だってまだ5日しか経っていないのです。だってもう5日経ってしまったのです。
だからあなたがヒビキともっと話したいと思うことも、今更ヒビキを忘れることができないと思うことも、きっと、当然のことだったのでしょう。

ヒビキは諦めたようにその華奢な肩をすっと落として、小さく長い息を吐きながら、弱々しく笑って首を傾げつつ「実はね、」と切り出しました。
彼の足元に咲いている赤い花は一体、何という名前なのでしょう。……ほら、あなたはそんなことさえも、まだヒビキと話すことができていないのです。

「君が僕との時間をしばらく過ごしたら、君はもうこの場所に飽きてしまうんじゃないかと思ったんだ。
だから今日、このタイミングで僕が酷い言葉を言えば、君が此処から離れやすくなるに違いないと思った。その方が君にとってはいいんだって、思っていた」

「……」

「でも、そうじゃないみたいだ。君を楽にするために告げた言葉が、君をそんなにも傷付けてしまうなんて、考えもしなかった。……ごめんね、セラ

ヒビキの言葉は、あなたと同い年の子供らしくない、どこまでも冷静で、丁寧で、そして思慮深いものでした。
けれどもあなたは子供だったものですから、そんな配慮なんかしなくていいのに、とか、ヒビキは私のことが嫌いな訳ではなかったのだ、とか、
それにしたってあんな風に言わなくたっていいじゃない、とか、私は明日からも此処に来ていいのだ、とか、またヒビキと話ができるのだ、とか、
……そうした、子供らしいことだけを考えて、安堵と憤りと呆れとが入り混じった、複雑な表情で笑うことしかできなかったのでした。

忘れていた瞬きを一回だけ大きく行えば、堪えていた涙が大きな粒になってぽとりと落ちました。
あなたが降らせた一粒の雨もまた、赤い花が咲くふかふかの土の上に落ちて、あっという間に飲み込まれていきました。

ヒビキはあなたの雨が止むのを待ってから、足元の花に視線を落としつつ「これは千日紅だよ」と、あなたの知らない花の名前をまた一つ、教えてくれました。

「この真っ赤な楕円体の花は、千日紅の中でも「ストロベリーフィールド」っていう品種なんだ。……ちょっと美味しそうだよね。君は苺、好き?」

2017.9.9

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