朝食のホットケーキを食べながら、コトネの家に向かうという旨の話をすると、お姉ちゃんは笑顔で了承してくれました。
あなたが少し苦めの野菜ジュースを一気飲みして、あまりの冷たさに頭を痛めていると、彼女は笑いながら「お土産に」と言って、
おそらくは売り物であった筈の、小さなスイートポテトを袋に詰めてくれました。
親指と人差し指で輪を作ったくらいの、一口で食べられてしまいそうな可愛らしいスイートポテトでしたが、
彼女は何を思ったのかそれを20個も詰めて、惜しげなくあなたに「はい」と持たせてくれたのでした。
「そんなに沢山、お土産に貰っていいの?お店の商品として用意していたんでしょう?」
「ううん、これはコーヒーや紅茶を頼んでくれた人に、飲み物の横に一つだけ添えて出すサービスのお菓子なの。
でもちょっと作り過ぎちゃったから、丁度良かったわ。まだあと10個くらいあるけれど、日持ちするようなものじゃないから、余ったら私の夜食として食べるつもりよ」
だから気にしないで、と告げた彼女の厚意をあなたは受け取り、「ありがとう」と「行ってきます」を告げてから、小さな鞄を持って外へ飛び出しました。
「行ってらっしゃい!」という、あなたの母よりも少しだけ高い声での見送りを心地良く鼓膜に浴びながら、あなたは蝉の声が木霊する夏の空を見上げました。
あなたが朝食を食べたり、彼女と話をしたりしていた30分の間に、外の気温はずっと上がってしまっていたようでした。
あなたはお土産にと持たされたスイートポテトが痛んでしまわないかしらと、少しばかり不安に思いながら、コトネと約束した小川までの道をやや急ぎ足で駆けました。
イーブイはというと、走っている筈のあなたよりもずっと速いペースで、あなたを置き去りにするかのようにぴょんぴょんと無邪気に駆けては、
時折ふと思い出したように振り返って「まだ?」という風にその大きな目を真っ直ぐあなたへと向けつつ、あなたが追い付くのを待っている、という具合だったのでした。
あなたの息が切れてきた頃、コトネの甲高い「おーい!」という声が聞こえてきました。
小川の方から、あなたが昨日、渡ることを苦戦していた飛び石を、息をするかのような自然さで、一人と一匹がひょいと飛び越えてくるのが見えました。
コトネはチコリータの素早い動きに置いて行かれることもなく、寧ろ彼女の方がチコリータを追い越してしまいそうな勢いで、あなたの方へと駆けてきてくれました。
「よかった!本当に来てくれた!」
「え?来ないと思っていたの?」
あなたは驚いてそう尋ねました。あなたが「驚いた」ことに、コトネもまた驚いたようでした。
あなたは自分が変なことを言ってしまったかと少し不安に思ったのですが、けれどもよく考えてみても、やはりおかしいのはコトネの方であるように思われました。
コトネとあなたは、朝食を食べ終えてからこの小川で待ち合せる約束を確かにしました。破れられることを想定した「約束」など、在り得ません。
けれどもコトネは、守られるべき約束が、守られて当然の約束が守られたことに驚いています。不自然なのはあなたではなく、やはりコトネの方でした。
コトネは暫く迷うような素振りを見せてから、「だってね」と、おそらくは彼女の本音に相当するところを話してくれました。
「この町には、楽しいことが沢山あるもの。都会から来たセラにとっては特にそうでしょう?だからセラが別のところに目移りしたとしても、全然不思議じゃないよね。
……そう思っていたら、ほら、もしセラが来なかったとしても、あまり悲しまなくて済むじゃない?」
「……」
「私、もう、ヒビキが元気になってくれるって、考えないようにしているの。いつか私やシルバーと一緒に外で遊べるようになるって、そんな風に期待すること、やめたの」
実の姉であるクリスの喋り方を思い出させるような、リズミカルな、歌うような調子でコトネはそう告げました。
「セラのことを信用に値しない人間だって思っている訳じゃないんだよ、ごめんね」と、すかさずフォローを入れて謝罪の言葉を告げながらも、
それでもやはり、守られて当然の約束というものは、どうにもこの少女にとっては「当然」のことではなく、もっと特別で異質なもののように思われていたようでした。
あなたはこの夏の間、約束を必ず守る人間でいようと、誰にも宣言することなく、静かに心に決めました。
そうすることで、コトネの大きな琥珀色の瞳に映る、謙虚めいた諦めの色を少しでも取り払えるなら、そうしたいと思ったのです。
チコリータとイーブイは、競うように小川を飛び越えていきました。
そんなポケモン達と遜色ないような身軽さで、コトネはぴょんぴょんと小川を飛び越え、あなたの方へと振り返って手招きしました。
あなたはまだ上手ではない川渡りを、この運動神経抜群の少女の前で披露することに抵抗を感じたのですが、迷ってばかりもいられないだろうと、勢いよく足元の岩を蹴りました。
最後の最後で足が滑り、片足がちゃぽんと川の中へと入ってしまいました。あっとあなたは声を上げて、そして、その川の冷たさと心地良さに驚きました。
足を上げることさえ忘れて、あなたは歓声を上げつつ、待っているコトネの方を見上げて、
「川の水ってこんなに冷たくて気持ちいいんだね!」
と告げました。
コトネはとても嬉しそうに笑いながら、「そうでしょう!」と、まるで自分の宝物を褒められたような心地で、得意気に胸を少しばかり逸らしてみせました。
けれどもあなたがコトネの隣に並ぶや否や、あなたに顔をそっと近付けて「でもそういうこと、ヒビキの前では言っちゃ駄目だよ」と、優しく忠告してくれました。
あなたは、この明るく陽気で快活な少女と、その双子の弟が、あなたの思っていた以上に繊細であることを察し始めていました。
シャンデリアのように美しく煌めく木漏れ日を抜けた先に、昨日、ラムネをご馳走になった大きな一軒家が見えてきました。
コトネはきょろきょろと辺りを見回して、ヒビキの名前を呼びましたが、彼が返事をすることはありませんでした。
「もしかしたら、今日はあまり調子が良くないのかも。部屋で本を読んでいるのかもしれないね」
「具合が悪いの?じゃあ、挨拶しにいかない方がいいかなあ」
「ううん、行ってあげて。セラが顔を出せばヒビキはとても喜ぶと思うから」
あなたはコトネに手を引かれるままに、木々に囲まれた家へと足を踏み入れました。
玄関で靴を揃えて脱いで、洗濯物のカゴを抱えて現れたコトネのお母さんに挨拶をして、リビングから小さく手を振ってくれたシルバーに手を振り返してから、
あなたは階段へと足をかけ、2階に上がってすぐのところにある扉の前に立ち、慣れた調子でノックをするコトネの傍にぴたりと、くっついていました。
「コトネ、どうしたの?」
コトネはまだ、2階に上がってから一言も声を発していなかった筈なのに、扉の向こうにいるヒビキはあまりにも自然な調子で、ノックをした人物の名前を言い当てました。
けれども流石に、物音を一つも立てていないあなたの存在にはヒビキも気が付いていなかったようで、
扉を開けた先の彼は、あなたと視線を合わせると、とても驚いたようにその大きな目を見開きました。
「わわ、ちょっと!セラがいるなら先に言ってよ、まだ片付けも掃除もしていないのに」
慌てたようにヒビキはそう言いましたが、彼の部屋には片付けや掃除をするべき、散らかった場所や汚れたものなど、何一つ存在していないようにあなたには見えました。
しいて言うなら、ベッドの上に数冊の本が、そのページを開いたまま乱雑に置き捨てられているくらいのもので、大きな本棚も机の上も、とても綺麗に整頓されていました。
「ヒビキの部屋は片付けなんかしなくても、いつだって綺麗でしょう?」
「そうかなあ……。あ、いいよセラ、入ってきて」
困ったように笑いながら、ヒビキはその細い手であなたへと手招きをしました。
まるで中学生か高校生くらいの学生の部屋であるような、子供っぽい遊び道具の気配が微塵も感じられない空間でした。
ベッドの横にある白い小さな棚に、あなたの見たことのないような機械が置かれているのが印象的でした。
「今日はどうして此処に?」
「コトネとシルバーが夏休みの宿題をするって聞いて、私も一緒にしようと思ったの。……自由研究が残っているんだけど、どんなことをすればいいか、ちっとも思いつかなくて」
「そうなんだ。僕も自由研究はまだやっていないから、何をするか一緒に考えようか?」
とても有難い誘いだとあなたは思いましたが、彼の体調が少し気掛かりでした。
無理をさせてしまっていないだろうか、横になっていなくていいのだろうか、そんな不安があなたの返事を少しばかり、遅らせました。
けれどもヒビキはあなたの心を読んだように「体調なら大丈夫だよ」と告げてくれました。
「……本当?無理しないでね」
「あはは、ありがとう。でも自分の身体のことだから、無理をしたら僕が真っ先に気付くよ。だから僕が「無理」って言うまでは、絶対に大丈夫なんだ」
それはとても不思議な自信であるように思われました。絶対に大丈夫、だなんて、こと生き物においてはまずあり得ないようなことであるようにあなたは思いました。
けれども彼の病気のことについて、まだ何も知らなかったあなたには、ヒビキが「大丈夫」なのか「大丈夫ではない」のか、彼の言葉から判断するより他にありませんでした。
「それじゃあ、一緒にやってもいい?」
「勿論!ノートと図鑑を準備しておくから、君はコトネと一緒にリビングで待っていてよ」
あなたは頷き、コトネと共に部屋を出ていきました。
階段を下りながら、あなたはあなたの持って来ていた小さな鞄の中に、勉強道具の一切を入れていないことを思い出し、慌てて、
「ヒビキくん!私、鉛筆もノートも持って来ていないの!」
と、上の階に向かって叫びました。
彼は「ヒビキでいいよ」と苦笑交じりに告げながら、あなたの分の筆記用具を用意してくれたのでした。
2017.9.6