Route 1-10

8月7日、あなたはいつものようにラジオ体操を終えて、公園を出ていこうとしたのですが、メガニウムを連れたクリスに呼び止められて、慌てて振り向くことになりました。
「私も今日はカフェに行こうと思って」と言いながら、クリスはあなたの隣に並びました。
あなたは一週間前、彼女にこの町を案内してもらったときのことを懐かしく思いながら、カフェへの道を歩きました。
メガニウムはクリスに頭を撫でてもらってから、あなたとは別の方角に歩き始めました。

クリスさんは、コトネとチコリータやヒビキとヒノアラシみたいに、いつでもポケモンと一緒にいる訳じゃないんだね」

あなたが何気なくそう告げれば、彼女は直ぐに「そうだよ」と頷きつつ、少しだけ首を捻りながら、その細い眉をすっと下げました。

「私の時間とメガニウムの時間は、全く違う速度で流れるべきなのよ。だから、きっとこれが一番いいの」

これ、が何を指しているのか、あなたにはさっぱり分かりませんでした。
けれども分からないなりに、クリスが、コトネやシルバーには持っていない、何か複雑な「覚悟」を持っていることをあなたは察していました。

あなたは思わず、腕の中のイーブイに視線を落としました。
イーブイはあなたの視線に気が付くと、その大きな瞳にあなたを映して、とても眩しそうに、嬉しそうに笑ってくれました。

あなたとイーブイは今、こうして同じ朝に、同じ道を歩いているのに、肌と肌が触れ合う程に近いところで生きているのに、両者の「今」は全く同じところにあるように思われるのに、
……それでもやはりクリスという人間は、人の時間とポケモンの時間とが、まるで異なった、相容れないものであるということを、
あなたの理解の範疇を超えたところで、すっかり確信してしまっているような心地で、諦めたように、許すように、その空色の目を細めるだけなのでした。

カフェに着いたあなたには、いつもの朝食が用意されていたのですが、クリスは今朝、カフェを訪れることを予めお姉ちゃんに告げていなかったらしく、
彼女は困ったように笑いながら「少し準備に時間がかかるわよ、いいかしら?」とクリスに確認を取っていました。

「ううん、新しく作ってくれなくてもいいの。お夕飯の残り物があれば、食べたいわ。例えば、新作のポタージュとか」

あなたは息が止まるのではないかという程に驚きました。
クリスは一体いつ、お姉ちゃんが昨夜、ピーマンを使った創作料理を大量に振る舞ったことを知ったのでしょう。
勿論、あなたはクリスに昨日の話などしていません。そしてクリスとお姉ちゃんは昨夜、会っていない様子です。
にもかかわらず、やはりクリスはカフェの冷蔵庫に「新作のポタージュ」があることを確信しているような調子なのでした。何もかもを、見抜いているようなのでした。

「流石に、お客様に残り物ばかり出す訳にはいかないでしょう?オムレツとトーストも付けてあげるから、食べていってよ」

「ふふ、ありがとう。マスターは優しいね」

そう告げてから、クリスはあなたの方へと視線を向けました。
そしてあなたが愕然とした表情になっていることを、一瞬のうちに認めたのです。
あなたが「しまった」と思う間もないくらい、あまりにも短い時間でそれは行われました。あなたが表情を繕うための時間的な猶予を、彼女は全く与えてくれませんでした。

そうして彼女は、ふわりと花を咲かせるように笑いました。まるで、あなたの胸の内に沸いた驚愕と恐怖を、喜んでいるような目の細め方でした。
喜んで、許して、受け入れて、そしてやはり、どこかすっかり諦めている調子なのでした。

セラちゃん、明日は台風が来るよ」

「……」

「これは、天気予報を見れば誰でも分かることなんだけどね」

……あなたは、あなたとイーブイの勇気をもってして、ヒビキの優しい拒絶を押し切ることができました。
ヒビキのところへ駆け寄り、遅すぎるのだと、それでも私は君といたいのだと、声を大にして伝えることができました。
相手がヒビキである場合には、そうすることができていました。貴方の繊細な勇気は、確かにヒビキの心に届いていました。
そんなヒビキとクリスは、優しすぎるという致命的な点においてとてもよく似ていました。

「……」

けれどもあなたはヒビキに奮ったのと同じ勇気を、この寂しい人に奮うことができないのです。
あなたが拙い勇気を奮うことを、クリスは全く許していないようなのです。

『……君はきっと、お姉ちゃんといい友達になれるかもしれないね。』
あなたはヒビキの言葉を思い出しました。思い出して、そして小さく首を振りました。

違うよ、ヒビキ。私はクリスさんの友達にはなれない。
私にはきっとまだ、その資格がない。

白イチジクの木に登ったコトネが、次々とその果実を収穫して回っていました。
彼女は実をもぎ取っては下にすとんと放り投げていましたが、地上ではチコリータが待機していて、その大きな葉っぱで器用にイチジクの実を受け止めていました。
受け止めた実は、竹製のカゴの中に次々と放り込まれていました。あなたがそのカゴの中を覗き込めば、花の蜜のような甘い香りが鼻先をくすぐりました。

「こんなに沢山、一度に収穫してもいいの?」

あなたがヒビキにそう尋ねれば、彼は困ったように笑いながら首を捻りつつ、今日という日に大量の収穫を強行した理由を話してくれました。

「本当はもう少し待った方がいい実もあるんだけど……明日の台風で傷んでしまうだろうから、早めに採っておいた方がいいと思って。
それにイチジクは収穫してからでも熟れるから、今は少し硬い実でも、何日か常温に置いておけば食べられるようになるかもしれないよ」

「あ!……もしかして、イチジクも「エチレン」を持っているの?」

「そうだよ、よく知っているね」

お姉ちゃんに教えてもらったのだとあなたが伝えれば、ヒビキは少しだけ悔しそうな顔をしました。
ヒビキ曰く、「食べ物のプロに僕が敵う筈がない」とのことでしたが、あなたはお姉ちゃんの解説もヒビキの説明も、同じように素晴らしいもののように思われたので、
ヒビキの知識がお姉ちゃんに劣っているとは思わないし、お姉ちゃんよりずっと若いヒビキがそれだけの知識持っているのは本当にすごいと思う、とありのままを告げれば、
彼は恥ずかしそうに顔を赤くして俯き、けれどもしばらくしてから伏せていた目をそっと上げて、照れたように笑ってくれたのでした。

「朝顔や千日紅も、明日の台風で枯れてしまうのかな」

「どうだろう。こればかりは空に尋ねてみないと分からないや」

ヒビキとマリルが、この森や庭に咲く花達をとても大切に育てていることをあなたは知っていたので、
それらが強風と豪雨によって痛んでしまうのは、とても惜しく悲しいことだと思いました。
けれどもヒビキもマリルも、明日の台風を憎らしく思っている様子はなく、
台風が来ることも、それによって野菜や果物や花が痛んでしまうことも、どこか「仕方のないこと」として、割り切っているような様子なのでした。

明日という日に台風がやって来るのは「何故」なのでしょう。
すぐそこまで迫っていると思しき、その理不尽な嵐を、まだあなたは上手に受け入れることができずにいました。
「どうして台風が来るんだろう」と、あなたが拗ねた調子で思わず零せば、イチジクの収穫を終えたと思しきコトネが木からすっと滑り降りてきました。
あなたと同じ地面に足を着けて、ぱっと弾けるような笑みを湛えて顔を上げた彼女は、あなたに向かって歌うように、告げました。

「明日、雨が降る意味」

「……?」

「あまりそういうこと、考えない方がいいよ。理由があってもなくても雨は降るんだもの。
理不尽に意味を見出したところで、誰も救われないし、何も変わらないよ」

上手に諦めること。期待しないこと。
それらに慣れ過ぎたコトネの、無邪気ながらも残酷なその言葉は、あなたの心の中にとても長く残り続けていました。

台風がやって来る意味が分かったところで、どうしようもありません。
ヒビキが弱い身体で生まれてきた意味を知ったところで、どうすることもできません。
コトネはそうした趣旨のことを告げているのです。「理由」を考えるだけ無駄だと、あなたの徒労を優しく窘めているのです。

彼女の言葉は、正しいのでしょう。コトネは、間違ったことを言っている訳では決してないのでしょう。
それでも、あなたはとても悲しくなりました。眉をくたりと下げずにはいられなかったのでした。

ありとあらゆる植物たちが、「その時に」「その場所で」「その色と形で」存在している理由。
それをあなたはこれまで、ヒビキと一緒に考えては、その興味深い理に感動してきました。
当然のようにそこに在る植物の「理由」を紐解く作業は、あなたにとってとても楽しいものでした。
その楽しい時間さえも、コトネに否定されてしまったような気持ちになったのです。
あなたが調べている「理由」など、何の価値もないのだと、遠回しにそう言われているような気がしたのです。

愕然とした表情で佇むあなたにフォローを入れる形で、シルバーが徐に口を開きました。

「お前とヒビキが調べている植物の理は、きっと一つの矛盾もない、理路整然とした美しいものなんだろう。それを紐解くことには、きっと価値があるんだろう。
でも、そうじゃない理もあるんだ。そして俺達を悩ませるのは、決まって、綺麗じゃない理の方なんだ」

……世の中には、綺麗な理と、綺麗ではない理がある。そして、綺麗ではない理の方を、人は「不条理」と呼ぶ。
そうしたことをあなたはこの日、知りました。

あなたは徐に、コトネがつい先程まで上っていたイチジクの木を見上げました。そして思わず「あ」と声を上げることになりました。
その木の向こうに見える雲が、台風の訪れを告げるが如く、凄まじいスピードで流れていたからです。

台風という、綺麗ではない方の理が、更紗町を飲み込もうとしていました。

2017.9.11

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