6時30分に、目覚まし時計があなたの耳元でけたたましく鳴りました。あなたは慌てて飛び起きます。
今日は8月2日、この更紗町にやって来て、2日目の朝です。
もう、天井のしみや枕の鷹さがあなたの家のものと違うことに戸惑ったりはしませんでしたが、
あなたのすぐ隣で大きな欠伸をしている、不思議な生き物のことには、やはり少しばかり驚いてしまいました。
「おはよう、イーブイ!」
あなたはイーブイの首元に両手で触れて、顎のところを撫でるようにふわふわと揺らしてみました。
まるで上等な白いマフラーを巻いているようなこのポケモンは、あなたが触れてくれたことを喜ぶように一鳴きして、額のところをあなたの腕へと押し当ててきました。
仕草は犬のようでした。耳はフェレックのようでした。毛並みは兎のようでした。鳴き声は、……あなたが聞いたことのないような、不思議な旋律を奏でているように思われました。
あなたはベッドから降りて、顔を洗うために部屋を出ていきました。
冷たい水でぱしゃぱしゃと顔を洗っていると、あなたのふくらはぎあたりに何かが当たるのを感じ取ることができました。
あなたが驚いて振り返ると、イーブイがその大きな目で真っ直ぐにあなたを見上げていて、あなたは思わず笑ってしまいました。
「付いて来ちゃったの?部屋で待っていてもよかったんだよ」
それでも、ほんの数分でも離れることが惜しいのだとでも言うように、イーブイはあなたの傍から離れようとしないものですから、
あなたは「困ったなあ」と思いつつ、けれどもあなたを絶対的、盲目的に慕ってくれるこの小さな命のことが、どうにも愛おしくて堪らなくなってしまいました。
髪を梳いて、部屋に戻って、小さなフリルのついたトップスに袖を通して、動きやすいように7分丈のズボンを履きました。
麦わら帽子を頭に乗せて、机の上のラジオ体操カードを手に取り首にかけて、お姉ちゃんの部屋に「行ってきます!」と声を投げ、イーブイを抱えて階段を駆け下りました。
まだ冷房の効いていないカフェの扉は、昨日のようにひんやりとはしておらず、寧ろ朝日を外側から浴びてほんのりと温かくなっているようにさえ思われました。
えい、とその扉を勢いよく押し開けて外に出れば、あなたが「会いたい」と思っていた人物を、あなたは幸運にも見つけることができました。
「あ、セラだ!おはよう!」
栗色の短いツインテールをぴょこぴょこと跳ねさせながら、コトネがあなたに手を振っています。隣にはシルバーもいました。あなたも手を振り返し、駆け寄りました。
コトネは歓声をあげて、イーブイが生まれたことを祝福してくれました。シルバーも小さく笑って「よかったな」と言ってくれました。
ヒビキがラジオ体操に参加しないことはあなたも察していたので、彼の不在について特に言及することはせず、イーブイを紹介してから二人の隣に並んだのでした。
コトネのチコリータと、シルバーのヒノアラシは、競うように公園への道を駆けていきます。
あなたもイーブイをアスファルトに下ろせば、嬉しそうに一鳴きしてからその二匹を追いかけていきました。
あんなにも小さな身体であるにもかかわらず、イーブイ達の疾走はとても素早いもので、
あなたは見失わないように、イーブイの小さな背中を必死で追い掛けなければいけませんでした。
けれどもコトネやシルバーは、二匹が視界に入っていなくとも平気であるようで、「ちゃんと公園に向かっているから大丈夫だよ」と、笑いながらあなたを引き留めるのでした。
「コトネちゃんとシルバーくんは今日、何をするの?」
あなたが歩きながらそう尋ねれば、コトネは明るく笑いながら「コトネって呼んで」と、より親しみを込めた呼び方をあなたに許してくれました。
シルバーもそれに付け足すように「わざわざ「くん」なんて付けなくていい」と、男の子らしい言い方で、同じように許してくれたのでした。
「何をするかはその日に決めるの。川で水遊びをしたり、海で泳いだり、テンガン山の3合目あたりに登ってポケモンを探したり……。
私とシルバーはいつも外で遊んでいるの。でも雨の日はヒビキと一緒に、家でボードゲームをしたり、工作をしたりすることもあるよ」
「今日は計算ドリルを終わらせるんじゃなかったか?」
「あ、そうだった!宿題、7月中に終わらせるつもりだったんだけど、少しだけ間に合わなかったから、今日はそれをやらなくちゃ」
まだ夏休みは1か月も残っているにもかかわらず、「まだ宿題が残っている」ことを恥じるような心地で、コトネは照れたように笑いながら首を傾げました。
あなたもまだ、夏休みの自由研究に全く手を付けていない状態でしたので、コトネの家で、自由研究のテーマを考えてもいいかもしれないと思いました。
公園に着くと、もう既に10人以上の子供達が集まっていました。
大きな木の下には、昨日のメガニウムが首をゆるやかに曲げて居眠りをしており、その背中にも凭れ掛かるようにして、クリスとアポロが話をしていました。
アポロのヘルガーは、まるで彼に忠誠を誓っているかのように、低く頭を伏せた状態で彼の足元に沈黙していました。
クリスはあなたの視線に気が付いたのでしょう、顔をあなたの方に向けるや否や、ぱっと顔を華やがせて、大きく手を振りました。あなたも手を振り返して、駆け寄りました。
アポロはやはり子供であるあなたにも丁寧な言葉を使い、クリスはとても嬉しそうに微笑みながら、麦わら帽子をひょいと外してあなたの頭を撫でてくれました。
公園に集まっていた子供達は、やはり事前に示し合わせていたかのように、ラジオから曲が流れ始めるや否や、さっと等間隔に散らばりました。
当然のようにその足元にはパートナーポケモンがいて、その数は決まって1匹でした。
ミヅキのように、2匹のポケモンを連れ歩いている子供は他に居るのだろうかと、あなたは気になって公園を見渡しましたが、
やはり、あなたを含めた誰も彼もが、ただ1匹のみをパートナーとしており、それ以上と共に在ることなど、端から全く望んでいないような風であったのでした。
イーブイはあなたのすぐ傍で、あなたの真似をするように、大きく背伸びをしたり、小さな前足を振り回したりして、イーブイなりの「体操」をしていました。
昨日生まれたばかりである筈なのに、隣のチコリータや後ろのヒノアラシと遜色ない動きをしてみせるその子に、あなたはとても驚いていました。
あなたの腕にすっぽりと収まってしまう程の小さな命ですが、ポケモンというのはとても賢く、力強い生き物であることは間違いなさそうでした。
ラジオ体操が終わり、あなたはコトネに手を引かれる形で勢いよく走り、列の前の方へと滑り込むことができました。
けれども、そのスタンプへの駆けっこに、シルバーは参加していなかったようです。
最も豪華で大きなスタンプを貰って喜ぶコトネに少し遅れる形で、ささやかな向日葵の絵のスタンプを自らのカードに押してもらった彼は、
得意気に微笑むコトネに呆れながら、けれどもどこかそんな彼女をすっかり許しているような眼差しで「よかったな」とだけ小さく告げるのでした。
「俺達はこのまま家に戻る。流石に朝食くらいはお前も、自分の家で食べてくるだろう?」
……まるで、朝食でない食事なら、コトネやシルバーの家でご馳走になれるかのような言い方に、あなたは驚き戸惑いました。
けれどもあなたが「驚いた」ということが、コトネやシルバーにしてみれば予想外の反応であったようで、二人は困ったように笑いながら、顔を見合わせて首を捻りました。
「そういえば、お姉ちゃんが言っていたっけ。都会じゃ、余所の家でご飯を食べたり、友達の家で暮らしたりしないんだって。
都会じゃ、血の繋がっていないシルバーと一緒に暮らすことも、セラをいきなり家に招いて昼食を振る舞うことも、「おかしなこと」なんでしょう?」
「……おかしいかどうかは分からないけれど、珍しいことではあると思うよ」
「そうなんだ。私の町と君の町では、いろんなことが違うんだね。でも私、シルバーと一緒にご飯を食べない生活なんて、もう想像もつかないや」
自らの町の異常性を誇るように、そのおかしさを愛するようにコトネは告げました。
シルバーはその言葉に付け足すことこそしませんでしたが、コトネの発言を否定するような物言いも一切、しませんでした。
二人は互いを否定する言葉の一切を紡ぎません。けれども互いを甘やかすこともしていないようでした。
冷めているようでいて、その実どこまでも仄温かい、そんな絶妙な温度の糸が、この二者の間にはピンと張られているのかもしれません。
二人はまるでずっと前からそうであったように、とてもよく似た血が流れているかのように、本物の家族であるように、あなたには見えました。
けれどもそんな二人は、二人だけでも十分に幸せで在れそうなコトネとシルバーの傍には、やはりもう一つ、確かな存在があるのでした。
ポケモンという、かけがえのない存在でした。
「それじゃあ、朝ご飯を食べたら小川のところまで来てね。私、ちゃんと迎えに行くから!」
「ありがとう!それじゃあまた後でね」
コトネとシルバーは、ずっと先を駆けているチコリータとヒノアラシを追いかけるようにして、走り出しました。
二人の走る速度はあなたに比べればとても速いものでしたが、若干、コトネの方が勝っているように思いました。
あなたは遠ざかる二人を見ながら、ゆっくりと歩き始めました。走る体力がなかった訳ではありませんでしたが、今は走りたい気分ではありませんでした。
あなたの隣をイーブイが歩いているという、ただそれだけのことを、もう少しゆっくりと噛み締めていたかったのです。
2017.9.1