あなたはミヅキの肩を思い切り、突き飛ばしました。
あなたよりも少しだけ小柄であった彼女は、あなたに突き飛ばされるがままによろめき、アスファルトにぺたりと尻餅をつきました。
その煤色の目は大きく見開かれ、真っ直ぐにあなたを見上げていました。
「やめてよ!どうしてそんなことをするの!?」
「そんなことって、何?どうして怒っているの?」
「わざと踏みつけたでしょう!あなたが、潰したんじゃない!」
完全に頭に血が上ったあなたは、そのようにまくしたてました。
クリスが慌てたようにあなたの手を掴まなければ、あなたはそのまま彼女を更に突き飛ばしさえしたかもしれません。
行き場のない感情が、胸の中で嵐のようにぐるぐると掻き回りました。あなたは泣き出したくなりましたが、ぐっと堪えてミヅキを睨み付けました。
彼女は暫くの間、呆気に取られたようにあなたを見上げていましたが、やがて困ったように笑いながら立ち上がり、大丈夫だよ、とあなたを宥めるように告げました。
「だってこの中にはもうセミなんていないんだもの。これはただの抜け殻だよ。要らなくなったセミのお洋服なの。踏み潰したところで、何を殺したことにもならないんだよ」
「……でも、あなたが、」
ミヅキの言っていることは筋が通っています。合理的です。確かにそのセミの形をしたものは、ただの抜け殻であり、そこに魂はもうありません。
それを粉々にしたところで、それは生き物を殺したことになどなりません。
けれどもその抜け殻の中には、一匹の小さなセミが土の中で過ごしていた、長い7年という月日が詰まっている筈でした。
その小さな軽い抜け殻は、セミという命が夏の空へと羽ばたいた証である筈でした。
そうした気持ちを込めて、クリスはその殻をそっと摘まみ上げて、両手で大事そうに抱えたのです。
あなたもそう考えていたから、その抜け殻の前で目を閉じて、そこ、に思いを馳せたのです。
けれどあなたが潰した。セミの生きた小さく長い時の証を、あなたが殺した。
そうではないの?その証を笑顔で踏み潰すなんて、そんなこと、あってはならないことではないの?
それなのにどうして、そんなにも平然としているの?どうしてそんなにも明るく笑っているの?
「私が踏みつけなくたって、どうせ雨や風がこれを粉々にしていくよ。そういうものなんだよ。貴方がどんなにこの抜け殻を大事にしたって、何の意味にもならないんだよ。
それとも都会では、何もかもが変わらないまま、いつまでも綺麗なままで残り続けているものなの?貴方が暮らしていたのは、そうした、とても優しい世界なの?」
「……」
「いいなあ。私も、セミの抜け殻なんかを大事にできる女の子になってみたい!」
混乱するあなたの前で、ミヅキはケラケラと笑いながら、あなたへと手を伸べてきました。
あなたがその手を取ろうか否かと迷っていると、彼女はぱっと弾けるように笑って、あなたの手を強引に取り、大きく振りました。
「これからよろしくね!私、貴方ともっと仲良くなりたいな。貴方の考えていること、貴方がどれくらい私と違うのか、もっと私に教えて!」
……ミヅキは、白を基調とした上品なワンピースを身に纏っていました。
その背中には驚く程に身体の薄いポケモンが貼り付いていて、それはキュ、と金属のような音を鳴らしながらふわりと浮かび上がり、あなた達の周りをくるくると舞いました。
ミヅキはそのポケモンに微笑みかけてから、そのワンピースの裾を小さくたくし上げて、まるでお姫様が挨拶をするように、すました笑顔で会釈をしてみせました。
『離島にはお姫様の成り損ないがいるけれど、あっちには騙されないように気を付けなよ。』
小学校で出会った、ユウキの言葉があなたの脳裏を掠めました。もしかしたら、ユウキはこの子のことを言っていたのかもしれないと、あなたはそう思ってしまったのでした。
「……あなたのポケモンなの?」
「そうだよ。私はポケモンを2匹持っているの。この町でこんなことをしているのは私くらいのものなんだよ。素敵でしょう?
アシマリがいれば海に潜れるし、カミツルギがいれば空だって飛べるのよ!」
腕の中の青い、アシカのようなポケモンと、宙を舞う金色のリボンのようなポケモン。
それらに慈悲深い眼差しを向けるミヅキが、しかしその足でセミの抜け殻を踏み潰したという事実を、あなたはどうしても忘れることができませんでした。
リボンのようなポケモンが「カミツルギ」で、彼女の腕に抱かれている青いポケモンが「アシマリ」というのだと、あなたは彼女から説明を受けましたが、
……適切な相槌を打つことができていたのかどうか、あなた自身にもよく解りませんでした。
「ミヅキちゃん、さっきまでお花畑にいたんでしょう?私達、今からそこへ行くところなの。一緒に来ない?」
……あなたは初めて、クリスに対してマイナスの感情を抱きました。
どうしてこんな子を誘うのだろうと、お願いだから早くいなくなってほしいと、あなたはそう考えていたからです。
この子を誘ったクリスのことを、あなたは恨みさえしていたのかもしれません。
とても明るく元気な笑顔のままに、とんでもないことばかり口にして、とんでもない行動ばかりを取る、あなたよりも1つ年下の女の子のことを、あなたは恐れ始めていました。
もしかしたらこの少女は、あなたの言葉が、あなたの論理が、あなたの心が、全く通じない相手であるのかもしれないと、あなたは察し始めていました。
あなたはこれ以上、彼女に酷いことを言わないために、そして何よりあなた自身が傷付かないために、彼女と離れる必要がありました。
けれどもクリスはミヅキと共に「お花畑」へ向かうことを望んでいます。そしてミヅキも喜んで頷いています。
あなた一人では、カフェまで迷わず辿り着ける自信がありません。あなたはまだ、クリスと離れることができません。
「行こう、セラちゃん!」
ミヅキがあなたの手を取って駆け出すのと、クリスがあなたの手を放すのとが同時でした。
あなたは不安そうにクリスの方を振り向きましたが、彼女は穏やかに笑いながら、ゆっくりとした歩幅で歩き出すのみでした。
「クリスさん、変な人でしょう?」
あなた程ではないと思うけれど、とあなたは余程口に出そうかと思ったのですが、寸でのところで飲み込んで「そんなことないよ」と紡ぎました。
けれどもミヅキは声を上げて笑いながら、「あはは、嘘だ!」と、あなたの返答をばっさりと切り捨てたのです。
「変だって、おかしな人だって、心の奥ではそう思っているんでしょう?だってそうじゃなきゃ、私のことを怖いって思ったりしないわ」
あなたは思わず息を飲みました。クリスへの思いの推測こそ外れていましたが、あなたがミヅキを恐れていることは、否定しようのない事実であったからです。
ミヅキはあなたの方を見ながらクスクスと笑い、「ほら!」と自らの勘が当たっていたことを喜ぶように告げました。
あなたは助けを求めるように、もう一度、クリスの方を振り向こうとしたのですが、
ミヅキが歩幅を大きくしてぐいとあなたの手を引いたため、あなたは振り返る機会を失ってしまいました。
「この町の子供達は皆、私のことを怖がっているんだよ。皆は弱いから、集まって私を除け者にして、強くなった気分になっているの。
でも大人は強いから、私と遊んでくれるんだ。ザオボーさんはいつも私を家に入れてくれるし、島のお屋敷にも素敵な人がいるの。郵便屋さんとも仲良しなんだよ」
「強い」知り合いがいることを自慢するかのように、ミヅキはこの町の大人の存在を次々に示して、得意気に笑いました。
そして急に足を止めて、あなたの手をぱっと放し、あなたの顔色を窺うように、あなたが「此処」にいることを乞うように、口を開いたのです。
「私を突き飛ばしてくれてありがとう」
「え……?」
「貴方も私が怖いでしょう?なのに私を突き飛ばして、言いたいことをちゃんと言った。それに今も私から逃げていかない。そんな風にしてくれた弱い子は、貴方が初めてだよ。
……私には価値を推し量ることができなかったけれど、貴方にとってあの抜け殻は、とても大事なものだったんだね。酷いことをしてごめんなさい」
逃げない、のではなく、逃げられない、のだと、あなたは訂正することができませんでした。
わたしは弱くなんてないよと、あなたは反論することができませんでした。
今のミヅキが紡いだ「ありがとう」と「ごめんなさい」は、彼女の心からの言葉であるとあなたは信じることができました。
けれどもそうした言葉の節々に混じる、皮肉なのか悪口なのか非難なのか解らない、煤色の感情は、やはりあなたを不安にさせるばかりでした。
この少女はあなたに敵意を持っている訳ではないのだと、そう確信してからも、あなたはやはりこの少女を、これまで出会った子供達と同じように見ることができずにいました。
「私、悪い子なの。だから貴方はできれば私を怖がらずに、もっと私を叱ってほしいな」
「叱られることが好きなの?」
「違うよ、私を見ていてくれることが好きなの」
歌うようにそう告げて、ミヅキは目をすっと細めました。
その悲しい目の細め方を、あなたはこの町でもう何度も見てきていましたから、ああ、この子もそうなのかと思ってしまったのでした。
あなたはミヅキの手を握りました。
「私は、お花畑への道を知らないの」
「……うん!いいよ!私が案内してあげる。こっちだよ、行こう!」
ぱっと笑顔になった彼女は、あなたの手を取って再び駆け出しました。相変わらず物凄い力だと思いながら、あなたは駆け出す直前に、さっと後ろを振り返りました。
クリスは数歩離れたところからあなた達の様子を見守っていたようで、振り返ったあなたに、口の形で『ありがとう』と告げて、手を振りました。
2017.8.9