少女は、彼の授業がいい評価を受けていることを彼以上に喜んでいた。
恐怖や不安、驚愕といったものに見開かれていることの多かった、ライトグレーのその瞳は、けれど今だけは三日月のように細められていた。
その瞳でプラターヌを眩しそうに見上げ、彼の歓喜の言葉に何度も頷いていた。
その尖った先からぽろぽろと星が降っていた。そのため彼女の顔に流れる涙の川は、いつもの場所とは少し異なるところを下っていた。
けれど彼女の川がどのように流れようとも、その流れ着く先は彼女の、少し尖った顎の先であり、そこから離れた水が落ちるのもまた、枯れることを知らない、白く丸い花であった。
夜顔は変わらずただそこに、彼女の涙の下に佇んでいた。
川は流れて、海に向かう。涙の川の流れ着く先に夜顔がある。この月のような花は、その実、海のような花であるのかもしれなかった。
……それからというもの、プラターヌは「授業に出る」ということに対して、前向きになることができるようになっていた。
ホグワーツの廊下で少女とすれ違う度、たった3秒、たった一言の挨拶を交わした。彼女は恐れるようにこちらを見上げて頷くだけだったけれど、十分だった。
彼女が「いる」という事実が、プラターヌに与えた勇気は計り知れなかった。
授業中、最前列に座っている少女から質問が飛んでくるようになった。その聡明な少女の問いに、プラターヌは答えられることもあったし、答えられないこともあった。
それでも、彼女は嫌な顔をせず「ありがとうございます!」と笑って、熱心にメモを取ることを止めなかった。
その後ろの席の男の子が呪文学の教科書を開いていることも、その更に後ろにいる女の子が居眠りをしていることも、プラターヌには見えていた。解っていた。それでもよかった。
たった一人、誰か一人に自身の言葉が届いている。彼の矜持を支える事実はそれだけで十分だった。一先ずは、それでよかった。
プラターヌは誰彼もの中に宿る「悪意」に恐れおののかなくなっていた。
その悪意は消えることなどなかったけれど、消えないことこそが正しいのだと、そういうものであるのだと、割り切ることができるようになっていた。
苦しいこと、嫌なことがない訳ではなかった。その度にプラターヌは「ごめんね」と、プラターヌよりもずっと小さく幼い少女に懺悔を吐いた。
プラターヌが嬉しいことを言っても、辛いことを言っても、謝っても、笑っても、彼女は泣いていた。
彼女の作った塩辛い川は顎の先から滴り落ちて、月のような海のような夜顔に流れ着くのだった。
*
「1年生にも、飼育学の授業があればいいのに」
11月の暮れ、満開の夜顔の中央に佇んだ少女は、そんな言葉を涙のような自然さで落とした。その発言にプラターヌがどれ程驚き、どれ程に歓喜したか、想像に難くないだろう。
自分の授業を受けたいと言ってくれる人がいる。その「人」が他の誰でもない、彼女である。
どうして喜ばずにいられただろう。プラターヌは満たされていた。彼女が満たしていた。
故に彼女の小さな口が紡いだささやかな願い事を、どうにか叶えてあげたいと思ってしまったのだった。
「それじゃあ今、此処で授業をしよう!」
「え……」
「ボクが笑顔で教壇に立てるようになったのは君のおかげだからね。こんな形でしかお礼ができないけれど、君の知りたいことに誠意をもって答えるよ」
歓喜と祝福、そして羨望に細められていた三日月の目は、一瞬にして満月へと姿を変える。
三日月の瞳からは星が降ったけれど、満月の瞳からは大粒の雨が降る。そういうものだと解っていたから、プラターヌはもう少女の泣き顔に驚かない。
驚愕、困惑、そしてほんの少しの歓喜。彼女の雨に溶けているのはそうした感情だった。
彼女はそれらを表現するための言葉を持たず、故に表現されなかった数多の感情は、涙の形を取って彼女の外へと溢れるしかないのだった。
「ご、ごめんなさい。こんな、図々しいこと……」
そのいつもの音が、拒絶ではなく感謝の意を示していることも、その中に感謝以上の申し訳なさ、心苦しさが溶けていることも、解っている。
解っているからプラターヌは笑顔で彼女の常套句を受け止めて、さて、どんな話をすればいいだろうかと想いを巡らせる。
……けれど、どうにも「これだ」と思う講義を捻り出すことができなかった。
彼女が自らについて語った経験というものは皆無に等しく、どんなものに興味を持ち、どういったことを知りたいと思うのか、彼にはまるで見当が付かなかったのだ。
プラターヌの知っている彼女の個性と言えば、泣き虫で、臆病なように見えるけれどその実とても勇敢で、そして、海が好きである、ということくらいだ。
考えれば考える程、何を話すべきか解らなくなっていった。
そんな彼を見て、少女は、私から話題を提供しなければ、と思ったのかもしれない。
プラターヌを真っ直ぐに見上げて、肩と腕を強張らせながら、小さな「話題」を夕闇に、落とした。
「早くこの子を進化させてあげたいんです。どうすればいいですか?」
まだホグワーツに入学して半年も経っていないこの少女の口から「進化」を急く言葉が零れ出たことにプラターヌは少なからず、驚いていた。
確かに彼女のパートナーであるラルトスは、2回進化するポケモンだ。強くなればキルリアに、更に強くなることでサーナイトへと進化する。
男の子であったなら、特別な道具を使って別のポケモンに進化することもできたけれど、彼女のラルトスは女の子のようだから、その2匹へと順繰りに姿を変えることになる。
ポケモンは強さを磨くことで進化する。進化することで姿が変わり、更に強くなる。使える技も増える。
そのため、優秀なポケモントレーナーの連れているポケモンは、往々にして早く進化する。そのため「進化」という現象自体に憧れを寄せている生徒も少なくない。
……けれど、全てのポケモンが同じくらいの強さで進化を迎える訳では決してない。進化しているから強い、進化していないから弱い、と、一概に括ってしまうことはできない。
そもそも強さの評価に据えるには、進化というものには個体差の影響があり過ぎるのだ。
たとえば、先日の3年生が連れていたビビヨンは、その実、とても進化させやすいポケモンだ。
虫ポケモンの進化は総じて早く、キャタピーやケムッソも3年生になる頃には大抵の場合、最終進化形まで姿を変えている。
逆にドラゴンタイプの成長は大器晩成型で、その典型例としてよくモノズが挙げられる。
過去にモノズをパートナーとした少年が一人だけいたようだが、彼のモノズは4年生の段階でようやく1段階目の進化を終え、サザンドラになったのは6年の頃であったらしい。
けれどそれだけ根気よく育て上げただけあって、その実力は申し分なかったようだ。
「進化」というバロメーターで見るならば、ビビヨンを連れていたあの少女こそが「優等生」であり、モノズを連れていたという過去の少年は「劣等生」であったのだろう。
けれどそのたった一つの尺度だけで測れる程、ポケモントレーナーというものは単純な存在ではないし、ポケモンの強さも進化だけで決まったりしない。
ポケモンという不思議な存在を研究対象としてきたプラターヌには、そうしたことがとてもよく解っていた。
……けれどそれと同じ理解を、まだ1年生であるこの少女に求めるのは酷というものだろう。
強くなりたい、ラルトスを進化させてあげたい。そう思うことは決して間違っていない。けれど過剰に焦る必要など何処にもない。
少女とラルトスの成長を、早い、遅い、といった速度の評価だけで下してしまうのはあまりにも冷たすぎる。
「君はまだ1年生なのだから、パートナーの進化を焦る必要なんてないと思うけれど……」
故に努めて優しくそう告げた。それが教師としての最善手であると信じて疑わなかった。
そうして彼女が「でも、それでも強くなりたいんです」と泣きながら告げたなら、プラターヌは先日のビビヨンと過去のモノズとの例を挙げて、
ポケモンの進化が必ずしもそのポケモンの強さやトレーナーとしての実力に比例するものではないことを、彼女が理解するまで何度でも、説いたことだろう。
そうすることが彼女への「授業」になると信じて疑わず、きっと彼は教壇に立つように熱弁を振るったことだろう。
けれど、そうはならなかった。何故なら少女がラルトスを進化させたいと願う理由は、プラターヌの想定とは全く別のところにあったからである。
「でも私、この子とずっと一緒にいたいんです。一人はもう、怖くて」
「一人?それはどういうことかな。ラルトスが進化できないと、君と一緒にいられなくなってしまうのかい?」
「だってラルトスの寿命は、人間のそれよりもずっと短いでしょう?」
寿命。
ソプラノボイスが奏でたその残酷な音は、何故だかプラターヌの心臓を激しく揺らした。乗り物酔いをしてしまったかのような、よく解らない気持ち悪さがその音にはあった。
この美しい少女から、この、命というものが持つ惨さの如何をも知らなさそうな少女から、そうした単語が飛び出してきたことに、彼はただ驚き、愕然としていた。
……ああ、この少女は今から、ラルトスと出会ってまだ数か月しか経っていないような頃から、その命との別離に思いを巡らせているのだ。
彼女の大好きなパートナーがいなくなってしまったとき、いよいよ彼女はひとりぼっちになってしまうと、そうしたことを今から恐れているのだ。だから、泣いているのだ。
これからずっと長い時間、おそらくは何十年もの間、この少女はラルトスと一緒にいられる。別離があるとすれば、きっと何十年も先のことだ。
そんなにも先のことへの憂いを露わにする彼女というのは、その実とても滑稽な存在であったのだろう。「何を馬鹿なことを」と一笑に付されて然るべき懸念だったのだろう。
けれどプラターヌは笑えなかった。それがどんなに、客観的に見て滑稽なことであったにせよ、彼は、彼だけはそれを「滑稽だ」とすることができなかった。
何故なら彼は、この少女が怖がりであること、一人を恐れていること、ラルトスのことが大好きであること、そうしたことを全て、全て知っていたからである。
知っていて、それでも尚、その早すぎる懸念を「下らない」と切り捨ててしまうことなど、彼にできる筈もなかったからである。
「人は時が経てば成長して大人になるけれど、ポケモンは強くならなきゃ進化できない。そのためにはトレーナーも一緒に強くならなきゃいけない。でも私にそんな力はない」
「……」
「……私が成長できないままでいたら、この子も進化できないまま、死んでしまうんでしょう?私を置いて、私より先に……」
耐えられない、といったようにぽろぽろと泣く。夜顔が大きい雨粒を受け止める。
彼女の強張った腕の中、ラルトスが彼女の恐怖と不安を感じ取ったのだろう、その赤いツノが頼りなく瞬いていた。
彼女が悲しめば、ラルトスも悲しむのだ。そうした意味で二者は確かに「ひとつ」だった。
2017.3.21