翌日から、彼女は目に涙を溜めて部屋に戻ってくることをしなくなった。
どこか安心したような、それでいて少し不安気にその瞳を揺らしながら、「ただいま」と、小さく紡いで微笑んでみせるのだ。
ゲーチスとどんな会話をしたのかは、私が尋ねれば彼女は逐一、答えてくれた。
癇癪を起こすことも、怒鳴ることもなく、普通の会話を続けられていることに、彼女は心から安堵しているようだった。
彼女は夕食の後で私と話をしながら、万年筆という珍しい筆で、分厚い日記帳に色々と書き込むようになっていた。随分とまめなことをする子だと思った。
大きなテーブルが部屋にあるにもかかわらず、燭台と日記帳を持って鏡台の椅子に座り、鏡台をテーブル代わりにして日記を書く、その姿がおかしくて笑った。
けれどおかげで、私は夕食の後の彼女の時間を独り占めできていた。ゲーチスとシアがどのような会話をしていたのかを、私は彼女から全て聞くことができたのだ。
彼女の日記には、城の皆のこと、私のこと、そして彼のことが書かれていた。あれ程大切に思っていたシェリーのことを、彼女は日記には一度も書かなかった。
思い出せば、寂しくなってしまうからかもしれない。けれどそれ以上に、シアはこの城での生活を楽しみ始めていた。
城の一員として、その事実は素直に嬉しかった。そして、私は僅かな希望を抱くようになった。
もしかしたら、間に合うかもしれない、と。
*
毎朝、シアは自室で朝食を食べる。ワゴンに乗ったバーベナが運んでくる、焼きたてのロールパンといい香りのする紅茶が、私にとっての悩みの種だった。
シアがこの城にやってきたその翌日、部屋に運ばれてきたロールパンと紅茶を見て、私がどれ程驚き、戦慄したか、思い出すだけでも恐ろしい。
私は忘れていたのだ。「食べ物」がどんな匂いをしていたか。どんな味がするのか。
彼女が手に取るロールパンは、どれくらい柔らかいものであったのか。彼女が少しずつ、息を吹きかけて冷やしながら飲む紅茶は、どれ程の温度をしていたのか。
お腹もすかず、眠くもならない。
その恐ろしい事象は、しかし10年という月日の中で「当たり前のこと」として消化されてしまっていた。時が止まったかのような自分の身体を、疑うことすら忘れていた。
けれど、シアは人間だ。食事を摂るし、眠くもなる。そんな彼女がその小さな口の中に収める、美味しそうな匂いのするロールパン。
正直に言おう。嫉妬していた。焼けつくような感情を抱いていた。
私は人間ではないのだと、異形の姿をしているのだと、これからもずっとそうなのだと、シアが口にするすべての食べ物に嘲笑われているような気さえしたのだ。
どうか、間に合って。
いつしか私は、そう思うようになっていた。ずっと諦めたと思っていたその感情が、私の中で強く、強く燻り始めた。
人間の姿に戻りたい。シアが何気なく口にすることのできるあのロールパンを、私も食べてみたい。そう思うようになっていた。
シアが毎朝手にする、何の変哲もないパンに、あまりにも強く焦がれていたのだ。
そのロールパンが、人間である彼女と人ならざる姿をした私の間に、大きすぎる隔絶を生じさせているように思えてならなかった。
食べ物って、どんな味がしていたのだろう。満腹になるとはどのような感覚なのだろう。
その、焼けつくような感情を抑えるため、私はシアが食事を摂る時間になると、鏡台の扉を閉め、自らの視界を塞ぐようになっていた。
シアはそのことについて何も言及しなかった。私はそれをいいことに、食事の時間になると、人間であったことを忘れようと努めた。
けれど、忘れようと思えば思う程、その感情は強く燻り、私の心を焦がしていった。
……厨房で働く皆は、このような感情をずっと抱えて過ごしてきたのだろうか。味見をすることもできないまま、10年間、ずっとゲーチスに料理を作り続けてきたのだろうか。
恐ろしい話だと思った。私ならとてもではないが耐えられないだろう。
だって、ロールパンと紅茶の匂いを嗅いだだけで、人間であるシアに、私は憎しみの感情すら抱こうとしていたのだから。
その感情は食事の時に留まらず、夜中にも現れていた。私達は、眠らなかったからだ。
夜になると眠くなるとはどのような感じだったのだろう。どんな夢を見るのだろう。
私はこの10年間ずっと、夜になれば部屋を抜け出して、隣の部屋にいるNと陽が昇るまで話をしていた。
シアがやって来てからは話題も増えたけれど、それまでは特に話すこともなく、他愛もない話題ばかりが宙を舞った。
美しすぎる星空を見ながら、沈黙の時間を共有したことも一度や二度ではない。
この10年間、それは当たり前のこととなっていたのだけれど、シアの存在が私達に「眠れていた頃」を思い出させた。私は眠気に、夢に、焦がれるようになっていた。
「ロールパンが食べたい」
ある日、耐えられずそう紡いだことをきっかけに、私はシアの前で頻繁にその言葉を使うようになった。
人ならざる異形の姿をした私が、人の食べ物を言葉にする。そのことで私は、自分が人間であることを、きっと元の姿に戻れるのだと言い聞かせていたのかもしれない。
別に、ロールパンが好きな訳ではなかった。けれど、私を深く驚愕させ、絶望させたその何の変哲もないパンに、私は執着していたのだ。
「ロールパンが好きなの?」
「……あんた、私が食べ物を口にしたことがあるように見えるの?」
呆れたようにそう紡げば、シアは慌てて謝罪の言葉を発した。
息を吐くように嘘を吐いた。私は嘘が得意だった。けれど、誰かに嘘を吐いたのは随分と久し振りであるように思われた。
私は嘘を吐くことすら忘れていたのだ。けれどこの点は、私が人間の姿をしていてもきっと変わらなかっただろう。
何故なら私はあの誓いにより、たった一人に嘘を吐くことができなくなってしまったからだ。
『でも、あんたが嘘を嫌うなら、あんたには決して嘘を吐かないわ。今、ここで誓ってもいいわよ。』
あれから、もう11年が経つのだ。信じられない程に永い時間だった。時が止まったかのように、時が流れ続けていた。
人間だった頃の私は、どんな奴だったのかしら。それすらも思い出せなくなっていたけれど、あいつに紡いだその言葉ははっきりと覚えていた。
『そうだね、ヒトの心は複雑でとても難しい。けれどキミのことはよく解るんだ。キミが、嘘を吐かないからかな。』
『不思議だね。キミには優しくされた覚えがないのに、キミの傍はとても心地がいい。』
『ヒトを理解することは難しいけれど、ヒトで在ることはそう悪いものではないんだね。』
その全てを覚えていた。忘れない。忘れられる筈がなかったのだろう。
「あんたがゲーチスに食べさせたロールパン、あれを食べてみたいわ」
「……私の焼いたものよりも、厨房の皆が作ってくれたパンの方がずっと美味しいよ」
だって、あまりにも似ているのだ。
人を拒み、人を恐れるゲーチスが、そんな彼に歩み寄ろうと言葉を紡ぎ続けるシアが。
彼等の心に私達の面影を見ることは不可能だったけれど、その中に宿した想いの温度には強烈な既視感があったのだ。
彼等がまだ自覚してすらいない、その感情の行きつく先を、私は誰よりもよく知っていた。
『ボクも、キミが好きだよ。』
Nのテノールが聞こえた気がした。
「解っていないのね。あんたが作った、美味しくないパンが食べたいのよ」
私は笑いながらそう言ってやった。シアは困ったように肩を竦めて微笑んだ。
私は、私にろくな境遇を寄越して来なかった、大きすぎるその力に懇願する。
どうか、間に合ってください。
*
「お願いね、シア。もう時間がないの」
青いドレスに高いヒール、私の整えた長い髪。
この城で「仕事」をしたのは随分と久し振りだった。私の引き出しの中に入っていた、櫛やリボンを駆使して、シアの長い髪をセットしていくのはとても楽しかった。
いつもは私のエプロンドレスを好んで着ていた彼女だが、こうして見ると、ドレス姿もとてもよく似合っている。世界一可愛い、と零した私の言葉は、決してお世辞ではなかった。
私の言葉に、シアははっとしたように振り向いた。
思わず零してしまったその懇願を、彼女はどのように受け取ったのだろう。
少し不安になったけれど、構わなかった。どうせ、この後で行われる二人だけのダンスパーティへの感動で、私のこの言葉は忘れ去られる筈だと信じていたからだ。
「あんたの焼いた、ロールパンが食べたいわ」
パタン、と音を立てて閉まった扉を、私は暫く見ていた。月の綺麗な、静かな夜だった。
城にやって来た当初、ゲーチスへの憎悪を涙として零し続けていたあの少女は、あろうことか彼に歩み寄り、その心を少しずつ開きつつあった。
ゲーチスの自室にある薔薇の花弁が、もうあと2枚を残すだけとなっていたことを、私達は外套掛けの姿をしたダークから聞いて知っていた。
けれど、彼等は希望を失わなかった。間に合う筈だ、呪いは解ける筈だと、きっと誰もが信じていた。私も、同じだった。
けれどそれ以上に、この城に住む誰もが、今のこの時間を愛していた。異形の姿であることを忘れ、一人の少女をもてなすために奔走する日々は、夢のように楽しかった。
もう、時間がない。そのことすら忘れてしまう程に、私達は、愛されていた。愛していた。
だから私達は、その優しすぎる少女をどうしても責めることができなかったのだ。
2015.5.29