「城に来ないか」
「……は?城って、あの城?」
翌日もやって来たそいつは、私にとんでもないことを言ってのけた。
相変わらず、私の家の周りには、ゼクロムを身にやって来た人間で溢れ返っている。
その上、こいつがやって来るということは、当然のようにこいつを継承者と認めたレシラムも付いてくるということなのだ。
黒と白のポケモンが、大通りで羽を休めているその姿を、町の人々は一目見ようとこの場所へ押しかけている。
そんな人混みのど真ん中、ゼクロムとレシラムに一番近い場所で、私と彼は話をしていた。
昼夜問わず、騒音を提供してくれる町の人間に、私は嫌気が差していた。
……だがそれと、私がこの町を出て、あの城で暮らすのとは話が別だ。
「嫌よ。だってあんな場所でどうやって暮らせって言うの?私は王族でもないし、城で働けるような、料理の腕前も掃除の技術も持っていないのよ」
「キミは美容師だろう?城で皆の髪をカットしたり、客人のヘアセットをしたりする仕事を受け持つといい。キミにとっても、それなりに充実した時間になると思うよ」
その言葉に、私の心は少しだけ揺れた。確かに、あの場所になら飽きる程に仕事があるだろう。
それこそ、こんな町にいては学べないような、ヘアセットの技術を身に付けることだって、きっと容易い。
一人前の美容師を志していた私にとって、城で働くことは大きなアドバンテージになる筈だ。
……だが、こいつは肝心なところが解っていない。今の私は、何の力もない、町で唯一の美容所を営む両親の娘。まだその技術を自分のものにしてすらいない、ただの素人だ。
そんな私が、城で働ける筈がないのだ。それこそ、偉大な誰かの推薦があれば別だが。
「まあ、確かに素敵な話ではあるわね。でも、私は普通の人間よ。ただちょっと美容師の技術をかじっているだけの、ゼクロムに選ばれただけの、ただの人間。
王族の親戚ですらない私が、城なんかで働けないわ。城の誰かが推薦でもしてくれない限り、一生、縁のない話よ」
「それじゃあ、ボクが推薦しよう」
「……え?」
とんでもないことを言いだした彼に、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
そして私は、先程のこの青年の言葉を思い出す。
『城に来ないか。』
そうだ、こいつは城に「来ないか」と言ったのだ。あたかも、あの城が自分の家であるかのように、あの城で暮らしている人間であるかのように。
この青年は、城で働いているのだろうか。
そう思ったが、直ぐにその考えを切り捨てざるを得なかった。何故なら彼は、つい先日までこの町に訪れていた城の者のような、暑苦しい衣服を身に纏っていなかったからだ。
白いシャツに、灰色のズボンといった、何処にでもいそうな格好をしたこの男が、城で働いているとはとても思えない。
そもそも城で働く身なら、こんな風に頻繁に城を抜け出して、私のところを訪れることなどできないだろう。
では、この男は一体、何者なのか?私は次なる仮説を立てようとしたけれど、その前に彼は穏やかに微笑んで、大きすぎる爆弾を私の眼前に落としたのだ。
「ボクはこれでも、あの城の第二王子なんだ。Nというのだけれど、聞いたことはないかい?」
私は驚きの声すら発することもできずに沈黙した。
まさか、この、何処にでもありそうな衣服を身に纏った、人畜無害そうな顔をしたこの青年が、王子……?
あの城には双子の王子が住んでいることくらいは私も常識として知っていたが、まさか目の前で穏やかに微笑むこの男が、その双子の弟だったとは。
「やっぱり、知らなかったんだね」
そう紡いで、Nと名乗った青年は肩を小さく竦めて微笑んだ。
……そんな奴の顔を見ている内に、私の頭に素敵な考えが浮かぶ。この、平凡と静けさを好む私にしては、やけに冒険心に満ちた、勇気ある考えが。
「……いいわ。あんたの住むその城とやらに行ってやろうじゃないの。あんたみたいなのでも第二王子になれるのなら、私にだって城の美容師くらい務まるわ」
「……ふふ、それじゃあ決まりだね」
差し出されたその手を私は握り締めた。自分でも驚く程に、縋り付くように強く力を込めていた。
随分と強い力だね、と言葉を零したNに、私は得意気に肩を竦めてみせる。仕事をする人間の手とは、総じて力強いものなのだ、とは恥ずかしくて言えなかった。
その代わりに、私は自分の名前を名乗った。「知っているよ、ゼクロムが教えてくれたからね」と返したNの膝を、私はもう一度蹴り飛ばした。
*
この町には特に不満もなかったけれど、ずっと暮らしたいと思える強烈な魅力がある訳でもなかった。
良くも悪くも平凡な、私の日常。穏やかで、静かな毎日。それを、小さな黒い石が掻き乱していった。
極端な話だが、今よりも静かな生活が保障される場所なら、何処でもよかった。だから私は、この青年の突拍子もない提案に乗ったのだろう。
あの城の中では、私の知らない世界が広がっている。
居心地がいいのか悪いのか、上手くやっていけるのかどうか、私には皆目見当もつかなかったけれど、少なくとも、今の家よりは暮らしやすい筈だと信じていた。
私がこの町に抱いていた、唯一の「静けさ」という愛着は、ゼクロムを見るために訪れた町の人間によって、既に粉々に打ち砕かれていたのだ。
両親は私の引っ越しに少しだけ寂しそうな顔をしたけれど、「向こうで、沢山勉強してきなさい」と、最後には笑って送り出してくれた。
私のパートナーであったダイケンキは、両親に預けておいた。Nから貰った空のモンスターボールにゼクロムを入れ、僅かな荷物を持って、家を出た。
第二王子の推薦であり、ゼクロムに選ばれた、ダークストーンの継承者である私を、城の者は快く招き入れてくれた。
私の美容師としての技量は、やはり王族や貴族の美しい髪をセットするには些か足りなかったようで、最初の内は厳しい駄目出しを何度も食らった。
やがて、ベテランの美容師が私の指導に当たってくれたため、数週間後にはなんとか一人でヘアセットなどができるようになっていた。
忙しさに目の回るような生活をしていたけれど、充実していた。私はこの城での生活を、それなりに楽しんでいた。
長くいれば、その分、情も沸く。城で働く使用人や執事、城にやってくるお客や、そこで暮らす人間のことを、私はいつの間にか好きになっていた。
「トウコ、お疲れ様。後は私がしておくから、もう上がっていいわよ」
「ありがとうございます。それじゃあ、失礼しますね」
最近はベテランの美容師にも、手際を褒められるようになっていた。我ながらいい仕事ぶりだと思う。私は今日の忙しさに満足しながら、スキップ間際の浮き足で廊下を歩いた。
この城で長く働いてきて、解ったことが、幾つかある。
為政と権力誇示のための施設でありながら、城の中はとても平和で、賑やかだ。
Nの両親や大臣が為政を行い、この辺り一帯を管轄している。毎日走り回っている彼等を見るに、その忙しさは相当なものであると察していた。
第一王子と第二王子は、いずれはこの土地を纏める主要人物となる存在で、幼い頃から大勢の家庭教師により、その地位に相応しい教育が施されていたのだとか。
……で、その二人の王子だが、どちらもすこぶる、変わっている。
第二王子のNは、数学や物理に関して天才的な頭脳を持ちながらも、ポケモンの声が聞こえるという稀有な能力を持った代償なのか、人とのコミュニケーションが極端に下手だ。
彼の周りには、あまり人が集まらない。けれどそれは、彼の持つ稀有な能力を気味悪がってのことではなく、ただ単に、会話が上手く成立しないから、なのだろう。
現に私も、あいつの言っていることがたまに解らなくなる。
「もっと私に解るように話して」と告げれば、何故か彼は嬉しそうに微笑むけれど、城の皆はきっと、私のように「解らない」と言うことなどなく、ただ去っていったのだろう。
第二王子という高い身分にある彼に、そうした無礼なことを言えない彼等の心境は容易に察することができた。
……もっとも、私は彼が王族の出だと知っても、白いシャツに灰色のズボン、そして人畜無害そうな笑みを湛えるあの男を、今更、敬うことなんてできないのだけれど。
「!」
廊下の曲がり角で、私は一人の男性にぶつかりそうになった。
Nより更に高い位置にある顔、そこに埋め込まれた赤い隻眼が、射るように私を睨みつけていた。
その眉間には濃いしわが寄せられていて、私の気分は一気に奈落へと突き落とされる。誰かを確実に殺めていそうなその淀んだ命の色に、吐き気がする。
咄嗟に「申し訳ありません」と謝罪の言葉が出たけれど、彼は私がその言葉を紡ぎ終える前に、ふいと顔を背けて速足で通り過ぎてしまった。
「……あんなのが第一王子だなんて、世も末だわ」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言ったのよ!」
私は城の廊下を駆けた。彼が追いかけて来ないことは解っていたけれど、何となく、この広く長い廊下を走ってみたかったのだ。
彼の名はゲーチス。ゼクロムに選ばれなかった、Nの双子の兄だ。
2015.5.28