5階に辿り着いた私とアクロマさんは、長い廊下を一直線に駆けた。
更に勢いを増した雨が、激しく窓を叩きつけていた。その雨音の中、遠くでシェリーの声が聞こえたような気がして、私は焦りながら足を速める。
「彼の部屋は?」と尋ねる彼に、「あの扉です!」と私は廊下の最奥にある立派な扉を指差した。
扉は僅かに開いていて、私はその隙間に手を差し入れて勢いよく開ける。外で轟いた雷が、その光景を残酷な明るさで照らしていた。
彼女は、獲物を狩るような荒んだ目をしていた。
華奢な腕は、私の知っている少女のものである筈なのに、その骨張った細い手には、彼女に似合わない鋭利な刃物が握り締められていた。
その刃物の柄から先が、彼の胸に突き立てられていると気付いた瞬間、私は息が止まるような絶望を感じたのだ。
彼女が、彼が、私が、何もかもが変わってしまったような気がした。全てが遅すぎたのだ。私は彼女を止められなかった。私は、彼を。
……ああ、これが、臆病で繊細な彼が、外の世界と関わることを諦めた理由なのだ。彼はこうなることを誰よりも恐れていたが故に、この城に閉じこもっていたのだ。
彼はそうした、とても優しい人だったのだ。それなのに、どうして、どうして彼が、こんな。
「私は!私はもう、守ってもらうばかりの、臆病な女の子にはならないわ!」
シェリーの悲痛な美しいソプラノが、雷鳴を掻き消す程の大声で紡がれる。
目に大粒の涙を溜めながら、彼女はそのナイフを勢いよく引き抜く。彼はそんな彼女をその隻眼で鋭く睨んだけれど、それだけだった。そのことに私は愕然とする。
彼は、抵抗しなかったのだ。彼女の刃に応戦することも、それを止めることもせず、ただ、彼女のナイフを受け入れていたのだ。
彼は、シェリーを止めない。その理由がどうしても解らなくて、私は彼の代わりに制止の言葉を投げた。
「止めて、シェリー!」
私の声に彼は驚いたような表情でこちらを見た。その赤い目が痛みと息苦しさに揺れているような気がして、心臓が抉り取られたような心地になる。
けれどその声は彼女に届かなかったようで、シェリーは彼からナイフを引き抜き、もう一度振りかぶって彼に突き刺そうとする。
私は冷たい床を蹴って駆け出した。アクロマさんの制止が聞こえたけれど、足は止まらなかった。
彼とシェリーの間に滑り込み、その刃物を右手で掴んだ。焼けつくような痛みにぐらりと眩暈がしたけれど、私はそのまま、驚愕に目を見開くシェリーに声を荒げる。
「お願い、止めて、殺さないで。私の大切な人を奪わないで!」
その言葉と同時に、彼が背後で崩れ落ちる音がした。けれど私はまだ振り返ることができなかった。
シェリーの華奢な肩を掴み、その揺れるライトグレーの目に言い聞かせるように懇願する。
「貴方を苦しめたのは、貴方に嫉妬した村の人達。私がこの城でずっと暮らしていたのは、私の意志。だから、貴方が彼を傷付ける必要なんて何処にもないの」
私の右手から滲む血が彼女の肩を染める。
「私は、貴方が誰かを殺すところなんか見たくない」
カラン、と軽い金属の音を立てて、彼女が手にしていたナイフが床へと落ちる。その音を合図に、彼女は我に返ったように全身を震わせて泣き出した。
ごめんなさい、ごめんなさいと叫ぶ彼女を、アクロマさんは半ば引きずるようにして部屋の外へと連れて行く。
私は思わず彼を呼び止めた。
床に崩れ落ちた彼をなんとかして助けてほしくて、縋るように彼の目を見上げたけれど、彼はその金色の目を曇らせる。
その表情が、何よりも事実を雄弁に語っていた。彼の曇った目が意味するところに、私は直ぐに気付いてしまった。その残酷な宣告に、涙さえ枯れてしまったような気がした。
シェリーが突き立てた一振りが、彼に致命傷を与えてしまったのだと、私は確信せざるを得なかったのだ。
彼女の声が遠くなり、廊下の向こうに消えていく。
解っている。解っていた。
彼がこの場に及んで、彼女を連れてこの部屋から姿を消した理由も、私達に残された時間があまりにも少ないことも、全て、全て解っていた。
解っていたけれど、どうしても認めることができなかった。私は駄々を捏ねるように声をあげて泣き出した。
誰か、誰かお願い、助けて。
「シア」
その声が、確かに時を止めた気がしたのだ。私は弾かれたように振り向き、床に倒れていた彼に視線を合わせるように膝を折る。切った手の痛みなど、忘れていた。
「……どうした、酷い顔だな」
開口一番、彼はそんなことを言うのだ。その皮肉めいた笑みも、言葉も、昨日と何も変わらなかった。私の知っている彼がそこにいた。
そのことが余計に胸の痛みを煽り、私の涙は留まることなく次々と零れた。彼はみっともなく嗚咽を零す私に呆れたように笑った。
私は何とかその嗚咽を噛み殺し、縋るように彼に尋ねる。
「どうしてシェリーを止めなかったの?貴方なら、シェリーのナイフを奪い取ることだってできたでしょう?それなのに、」
「あれはお前の親友だろう?」
私の言葉を遮るように、彼はそう尋ね返した。
胸元の衣服には、赤い血が滲み始めていて、私はどうしてもその色を直視することができなかった。代わりに私は、彼の隻眼に宿る赤を覗き込んだ。
燃える夕日のような赤、火に映えるような赤い隻眼。私がずっと焦がれていたその色が、泣き腫らした目をした私を映していた。
「手を出せば、怪我をさせることは解っていた。お前の腕を、私がこの爪で切り付けたように」
「!」
「親友を傷付ければ、さぞかしお前は憤ると思ったが、違ったか?」
私は否定の言葉すら紡げなかった。そして私は、どうして彼女を止めなかったのだと彼を問うた自分に愕然とする。
そうだ、彼がそんなことをできる筈がなかったのだ。
その両手に鋭い爪を持った彼が、殺意を持ってナイフを向けた彼女を止めようとすれば、少なからず彼女も傷を負うだろうと言うことは容易に想像がつく。
彼は、それを恐れていたのだ。私の親友だからかどうかは、彼の行動を躊躇わせたほんの一つの要因に過ぎない。
この、臆病で繊細な人が、他人を傷つけることを恐れてこの城に10年間も閉じこもっていた彼が、そんなことをできる筈がなかったのだ。
あの時、私の腕を切り付けたあの時だって、彼はきっとその行動を悔いていたのだ。誰かを傷付けることしかできない自分の姿を責めていたのだ。
懐かしささえ覚えるあの邂逅の日の出来事を思い出し、またしても私の涙は止まらなくなる。
この人は何も変わらなかった。尊大で身勝手な振る舞いをして、皮肉めいた笑みを浮かべてこそいるけれど、その臆病で繊細な部分は、初めからずっと変わってはいなかったのだ。
私は今更、そのことに気付く。気付いたところで、全てが遅すぎたのだけれど。
私は彼女を止められなかった、彼を守れなかった、その事実は、もう動くことなどないのだけれど。
「お願い、私を置いていかないで。私を、一人にしないで……!」
嗚咽の合間に零したその言葉に、しかし彼は呆れたように微笑んだのだ。
胸から溢れる血は止まらず、もう息をすることすら苦しい筈なのに、彼は笑っている。そのことが信じられなくて、私は言葉を失う。
「一人にしてと訴えたり、一人にしないでと縋ったり、忙しい奴だ」
その言葉は私に、あの邂逅の日を思い出させた。
『今日はもう、誰にも会いたくない。お願い、私を一人にして……!』
私のその一言一句を、彼は覚えていたのだ。あの時とは真逆の言葉で自分に懇願する私がおかしくて、笑っているのだ。
心臓が押し潰されてしまうそうな程に痛く、苦しい。けれど私なんかよりもずっと苦しい筈の彼は、寧ろ穏やかな表情でいつもの皮肉めいた笑みを浮かべるのだ。
「戻って来ないと思っていた」
彼のそんな言葉に、私は思わず声を荒げる。
致命傷を負っていることすら忘れて、その肩を乱暴に掴む。
「そんなことを言わないで!私は、貴方の命令なんかなくたって、私を閉じ込める檻なんかなくたって、ちゃんと此処に戻って来るわ!」
「何故?」
彼は射るような鋭い目で、けれど戸惑うように、縋るように、そのバリトンを揺らして、私に小さな疑問を投げる。
私は息を飲み、そして言葉を探す。
テーブルの上に浮かぶ薔薇は、最後の一片を儚げに残していた。
2015.5.21