32

私はその瞬間、此処にいなければいけなかった理由を探し始めていた。
その直接の原因であった筈の彼が、私にこの城を出ていくことを許している。
私は混乱する頭で、渡されていた手鏡をテーブルに置き、小さく後退る。私がこの城から出て行っていいなんて、そんなこと、ある筈がない。筈がない、のに。

「でも、私は此処に、」

「もういい。お前はもう、囚われの身ではない。いや、もうずっと前からそうではなかった」

彼の赤い隻眼が、驚く程の穏やかさで私を見据えた。その目が僅かに微笑んでいたような気がして、息を飲む。
こんな時に、彼は私の知らない、また新しい表情を見せてくれるのだ。そのことに心臓を抉られる心地がした。私は目眩のする頭で彼を縋るように見上げる。
……違う。私は確かに、この人に笑ってほしかった筈だった。
普段の皮肉めいた笑みも彼らしくて好きだったけれど、彼がもっと穏やかに、心から微笑むことのできる日を、その笑顔を見られる日を、密かに待ち望んでいた筈だった。
けれど、けれどそれは、こんな悲しい笑顔ではない。私は、貴方にそんな顔をさせたかったのではない。貴方の、そんな笑顔を見たかったのでは決してない。

彼は部屋の窓に引かれていたカーテンを開けて、窓を静かに開け放った。強い雨と風が部屋に入って来たけれど、彼は構わずに私に外を示す。

「お前はクロバットを連れていただろう。それに乗って、この窓から出ていけ。1階の扉に向かえば、城の者に引き止められてしまう。
奴等には、後で私から説明しておく。お前は早くあの少女の元へ向かえ。手遅れになっても知らないぞ」

彼はクローゼットから大きな紺色のローブを取り出して、私の肩にかけてくれた。この雨で風邪を引いてしまわないようにという、彼の温かい配慮に涙が出そうになった。
テーブルの上に置いていた手鏡を、彼は再び私の手に握らせた。

「持って行け」

「でも、貴方の大事なものなんでしょう?」

見たいものを見ることのできるこの手鏡で、彼が外の世界を見ていたことは容易に想像がついた。
これを私に渡してしまえば、彼が外の世界を知る手段が完全に失われてしまう。今度こそ、彼は孤独になってしまう。
それを恐れて私はその手鏡を突き返そうとしたけれど、彼は頑としてそれを許さなかった。

「もう必要ない。お前がこれから使うといい。それがあれば、いつでも此処を思い出せる」

その言葉にある種の懇願を見た私は、差し出された手鏡を受け取り、両手で強く抱き締めた。
いつでも此処を思い出せる。その声音の裏に、私は彼の懇願を見た気がした。
「この城を、私を忘れてくれるな」と、その揺れる隻眼が雄弁に語っているように思えたのだ。私は小さく頷き、その目を真っ直ぐに見上げる。
彼の厚意を、無駄にするわけにはいかない。人の気持ちを推し量ることをしなかった彼が、私の思いを組んで為したこの行動を、私は受け入れなければならない。

「ありがとう。でも、思い出す必要はないわ。だって私、戻って来るから」

「!」

「約束なんかなくたって、私を閉じ込める檻なんかなくたって、私は此処を選ぶの。前にもそう言ったでしょう?
ただ、私は少し欲張りなの。このお城の皆のことも大好きだけれど、シェリーのことも大好きなの。だから少しの間だけ、いなくなることを許してください」

彼はその隻眼を細めて頷いた。
ありがとう、と何度紡いでも足りなかった。けれどこれ以上此処に留まっていては、辛くなるだけだと知っていた。
だから私はくるりと踵を返し、窓へと駆け出そうとした。

「僕は、」

けれど僅かに聞こえたそのバリトンに、私は思わず足を止め、振り向いてしまう。
ああ、まただ。縋るような目でこちらを見る彼の中に、私は再びあの少年の姿を見る。不安そうに佇むその姿が、私に強く訴えかけているような気がした。
けれどやはり一瞬の瞬きの後に、その少年はいなくなってしまった。

「……いや、何でもない。早く行け」

彼はそう告げて、私の肩を掴んでくるりと向きを変えさせ、背中をそっと押した。
その獣の手は冷たかったけれど、そこには確かな温度があった。
私はその手の温もりを知っていた。孤独で、不機嫌で、尊大で傲慢で、けれど誰よりも、何よりも温かいその手を知っていた。


それは、確かに人の温度だった。


大きく開かれた窓へと駆け出し、ポケットに手を入れて、クロバットの入ったモンスターボールを取り出し、大きく振りかぶって投げた。
その背中に乗り、飛び立った。外の雨を紺色のローブが吸って、あっという間にその色を黒へと変えていった。
久し振りに飛ぶ空は、雨と風のせいか、視界が歪んでよく捉えることができなかった。
私は城を振り向かなかった。今、あの優しい空間に未練を思うことは、私が此処を出ていくことを許した彼への冒涜になるような気がしたからだ。

「ありがとう」

彼のバリトンが鼓膜を揺らしたような気がした。

「……」

クロバットをボールから出してあげたのは随分と久し振りだった。体も大きく、凄まじいスピードで宙を舞う彼を、屋内で出してあげる訳にはいかなかったのだ。
その再会に、私は喜ぶべきだったのだろう。そうして森の中に降下して、シェリーの姿を探すべきだったのだろう。
けれど、私はそのどちらもすることができずに沈黙した。雨の中、宙を駆けていたクロバットが私を気にかけるようにその速度を緩める。

「……貴方と空を飛ぶのは久し振りね。今まで出してあげられなくてごめんなさい」

私はクロバットの頭をそっと撫でた。
こうして彼と空を飛ぶ日を、私は待ち望んでいた筈だった。
城に閉じ込められたあの日に、もうこのクロバットの背に乗って空を飛ぶことは二度とないのだと、そう覚悟していた筈だった。
叶わないと思っていたことが、遂に叶ったのだ。私はあの監獄から抜け出し、シェリーに会いに行くことを許されたのだ。
誤解の無いようにしておくと、私は自分のパートナーであるクロバットと空を飛ぶ日を、心から待ち望んでいたのであって、
もし仮にそんな日が来たとして、その時には諸手を上げて歓喜するだろうとさえ思っていたのであって、

こんな風に嗚咽を零しながら空を飛ぶことを想定していたのでは決してない。

ごめんなさい、上手く笑えないの。
私はクロバットにそう告げて、ぼろぼろと涙を零した。
悲しいのだろうか、寂しいのだろうか。私は自分の心を抉るこの感情の正体を計り兼ねていた。
けれどどうしようもなく、苦しかったのだ。息ができなくなる程の嗚咽に戸惑いながら、私は涙に濡れた目でシェリーの姿を探した。
涙を拭う必要はなかった。降りつける雨が目元を、頬を濡らしてくれていたからだ。

1時間程、森の中を探し回って、身体が凍えそうになっていた頃に、私は彼女の姿を見つけた。
森の中で倒れていた彼女をそっと抱き起こす。雨で冷え切った彼女の身体は、恐ろしい程に痩せ細っていた。
一体、私のいない間に何があったというのだろう。私はシェリーの心臓が動いていることを確かめて、安堵の溜め息を零した。もう涙は出なかった。
細い彼女を背負うのは、驚くほどに簡単だった。私は彼女を背負ったままクロバットに乗り、村の方角へと飛んだ。

「……」

私は、飛んできた筈の方向を振り返った。そこには大きな城が、村へと戻る私を見送っている筈だった。
けれど、その雨の向こうにどれ程目を凝らしても、あの城の姿を見つけることができなかったのだ。魔法のように姿を消してしまった城に、私は驚き、困惑する。
もしかしたら、もう二度とあの城には戻れないのではないか。そんな懸念が脳裏を掠め、私はその残酷な仮定を、頭を激しく振ることで追いやった。
きっと、雨で視界が悪くなっているだけだと言い聞かせた。けれど、どうしてもその雨の向こうに、あの城を見つけることはできなかった。

『僕は、』

彼の震えるバリトンを思い出す。
あの時、彼は何を言おうとしていたのだろう。


2015.5.21

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