30

夢のような時間だった。その夜、私は眠ることができなかった。
綺麗にセットしてくれた髪も、私のために仕立ててくれた空色のドレスも、高いヒールも、何もかもが愛おしくて、私はネグリジェに着替えることができずにいた。
普段なら夕食の1時間程度しか身に着けないコルセットが、今日は数時間に渡って私のウエストを締めつけていたため、今もかなり息苦しい。
足が痛くなるまで踊ったせいで、ヒールのある靴でまともに歩くことすらできない。
それでも、私はそれらを手放すことができなかった。もう少し、もう少しでいいから、この余韻に浸っていたかった。

「誰かと踊るのが、こんなに楽しいことだったなんて知らなかった」

ぽつりと呟いたその言葉に、トウコさんは得意気に笑ってみせる。
ダンスなんて、ドレスなんて、私とは無縁のものだとばかり思っていた。
もし仮にドレスを身に纏い、踊るようなことがあったとしても、それはとてもぎこちない、不格好なものにしかならないだろうと心得ていた。
けれど、そんな私のぎこちなさを彼は上手くフォローしてくれた。あれ程窮屈だと感じていたドレスが、ステップに合わせてふわふわと波打つのがとても心地良かった。

特別な時間を彩ってくれた、その全てが愛おしかった。
心臓が不思議な音を立てて揺れている。この音すらも私は受け入れつつあった。

「はいはい、あんたの感動はよく解ったから、そろそろ着替えなさい。もう日付が変わろうとしているんだから」

トウコさんは苦笑しながら私にそう促した。私はやっと重い腰を浮かせ、彼女の助けを借りながらドレスやコルセットを外していく。
いつも身に纏っているネグリジェが、随分と軽く感じた。
あのドレスはかなりの質量があったらしい。そんな重さに気付かずに、私は踊り続けていた。それ程に楽しく、夢のような時間だったのだ。
クローゼットに仕舞った空色のドレスを名残惜しそうに見つめた私がおかしかったのか、トウコさんは声をあげて笑った。

「そんな顔をしないでよ。今日みたいなこと、あんたが望むならいつだってしてあげるわ」

「え……」

「皆、あんたのことが大好きなのよ。だからこれ一度きりだなんて思う必要はないの。解った?」

言い聞かせるように紡がれたその言葉に、私は歓喜と安堵の溜め息を吐いた。
再び彼女に促され、鏡台の椅子に座って彼女に背を向ける。セットした髪が、ふわりと解かれて背中に流れた。
はい、おしまい。そう告げて笑ったトウコさんに一つだけ尋ねたいことがあって、私はクスクスと笑いながら口を開く。

トウコさんも、私のことを好きでいてくれるの?」

彼女は驚いたようにその青い目を見開き、しかし直ぐにいつもの気丈な笑顔に戻ってさらりと告げた。
意地悪な質問だと思ったけれど、この彼女には通用しないらしい。敵わないなあ、と思いながら、私は踵の低い靴を脱いでベッドに入った。
睡魔は驚く程に直ぐにやって来て、私は先程の彼女の言葉を思い出しながら、重たい目蓋をそっと閉じた。彼女のアルトの声音が脳裏でゆらゆらと揺れていた。

『そうね、あんたのことは嫌いじゃないわ。大好きよ、二番目にね。』

次の日、私はいつものように目を覚まして、いつものように城での生活を過ごした。
朝食を食べた後で、私はいつものエプロンドレスと踵の低い靴で城中を回った。
素敵な演奏をしてくれた楽器たちや、美味しい食事を用意してくれた食器や調理器具たち、1階のホールを美しく掃除してくれた箒たちに、感謝の言葉を告げるためだ。

「昨日は本当にありがとうございます。夢のような時間でした」

そう繰り返し紡ぐのは少しだけ照れを伴ったけれど、その頬の火照りすら心地良かった。
何より、私のその言葉で、彼等がとても嬉しそうに笑ってくれることが嬉しかった。ありがとうは魔法の言葉なのだと、私は改めて確信するに至ったのだ。

そうして彼等に挨拶を終えてから、私の足は自然と図書室へと向かった。異国の言葉で書かれたあの本を携えて、私は離れの塔へと続く渡り廊下を駆け抜けた。
鍵が掛かっているかと懸念していたのだけれど、意外にもその重い扉はすんなりと開いた。
静まり返った図書室の中央に歩を進め、私は小さく息を吸い込んだ。
此処でなら「彼女」に会えるかもしれない。そんな期待の元、私はあの時と同じ挨拶を紡ぐ。

「……おはよう」

「おはよう、シア

心地良いソプラノと共に、私の手にしていた本がふわりと宙に浮く。
異国の言葉で書かれたページをパラパラと捲って舞い上がり、クスクスとそのソプラノを震わせて笑うのだ。
よかった、また会えた。私は彼女に駆け寄って口を開く。

「どうして私の部屋では話をしてくれなかったの?私、ずっと待っていたのに」

「ふふ、ごめんね。でも私はこの部屋でしか動くことができないの。だからあの部屋では話そうにも話せなかったのよ」

その言葉に私は渋々ながら納得する。魔法使いには不思議な制約があるらしい。
何はともあれ、また「彼女」に会えた。その喜びに私の胸は高鳴っていた。
あの本の夢を見せてくれた不思議な本は、もしかしたらその存在ごと私が見ていた夢だったのかもしれないと、私は動かなくなった本を手にしては不安に駆られていた。
だからこの図書室の中だけとはいえ、またこうして宙に浮き、人間の言葉を操る彼女に私はひどく安心した。
私が見た魔法は幻覚などではなかったのだと、私はようやく確信することができたのだ。

「ダンスパーティは楽しかった?」

けれど「魔法使い」である彼女には、私の身に起きたことなど何もかも解っているようで、パラパラと本のページを捲りながらそう尋ねる。
ダンスパーティ、というその単語に、私は目を輝かせて「楽しかった!」と返した。
それから、私が話す昨日の夜の出来事を、彼女は相槌を打ちながら聞いてくれた。
城の皆が素敵な空色のドレスを仕立ててくれたこと、私の部屋の鏡台が、この長い髪を綺麗にセットしてくれたこと。
楽器たちが4拍子の緩やかな曲を演奏してくれたこと。厨房の皆が美味しい夕食を用意してくれたこと。彼と一緒に、1階のホールで足が痛くなるまで踊ったこと。
私は舌が絡んでしまうのではないかという程の早口で、饒舌にその全てを話した。

『ふふ、そうね、「はじめまして」だったね。でも私は、シアのことをずっと前から知っているのよ、ずっとね。』
初めて彼女に出会った時の言葉が脳裏を掠めた。彼女はこちらが自己紹介をする前に私の名前を言い当て、私のことを知っていると微笑みながら告げていたのだ。
彼女は、きっと私が昨日、夢のような時間を過ごしたことだって知っている。それでも、言葉にせずにはいられなかった。私はまだ、あの夜の高揚を持て余していたのだ。
彼女は私の話を最後まで聞いてくれた後で、楽しそうに宙をふわふわと飛び回ってみせた。そしていつかのように舞い上がり、ページを勢いよく捲り始める。

「素敵なお話を聞かせてくれてありがとう。私もシアに何か話して聞かせたいけれど、最近はずっと退屈な時間しか過ごしていないの。
だから代わりに、貴方の一番、会いたいと思っている人の夢を見せてあげる」

その言葉に私の心臓が大きく跳ねた。
私の、一番会いたい人。その言葉は、昨日の彼の中に一瞬だけ見えた少年の姿を思い出させた。
たった一度の瞬きで消えてしまうその姿を、深い霧に隠れるようにしてはっきりと見ることのできないその顔を、夢の中でなら見ることができるかもしれない。
私は彼女の素敵な提案に頷いて、図書室の椅子に駆け寄り座った。「どうしたの?」と尋ねる彼女に、私は肩を竦めて笑ってみせる。

「この間、床で眠っていたら、ゲーチスさんに叱られちゃったから」

「……ああ!そうだったね。配慮が足りなくてごめんなさい」

申し訳なさそうに謝罪の言葉を紡いだ彼女に、私は笑顔で首を振った。
おかげで、彼の珍しい表情が見られた。だから床に倒れて眠っていたことに関して特に不満はなかった。
『紛らわしいことをするな!眠いならせめて椅子に座って、テーブルにでも突っ伏して寝ていろ!』
けれどあの時、彼にそう言われてしまっていたので、今回はその言葉に従いたかった。此処で眠っていれば、叱られることもないだろう。
私は椅子に深く腰掛け、彼女の魔法を待った。けれど彼女はその不思議な魔法を使わず、代わりに小さな声で私に尋ねる。

「ゲーチスさんのことが好き?」

「え?……ええ、勿論」

「彼を愛している?」

続けられたその問いに答えられず、私は口を閉ざした。
愛という言葉は、まだ私には眩しすぎた。私は人を愛するということがどういうことなのかを知らない。
愛とは何なのか、どんな本にも書かれていない。誰も愛を教えてなどくれない。
そんな言葉を使いこなすことなどできそうになかった。私が沈黙し、目を伏せていると、彼女は優しいソプラノで私の名前を呼ぶ。

「意地悪な質問をしてごめんね。さあ、顔を上げて」

その言葉で、彼女が魔法を掛けたのだと私は気付いた。
顔を上げれば、そこには私の望んでいた、あの少年の姿がある筈だった。
けれど、現れたのは彼ではなかった。懐かしさに胸が焦げるような痛みを感じながら、私はその人物の名前を呼ぶ。

シェリー……?」


2015.5.20

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