14

夜の7時5分前に、私は部屋を出て1階へと向かった。
ヒールの付いた靴も、蝋燭の僅かな灯りにすらキラキラと輝くドレスも、髪を束ねる上品なリボンも、つい昨日まで私とは無縁のものだと信じていた。
踵の低い靴、麻のワンピース、適当に見繕った丈夫な紐。そんなもので昨日までの私は出来ていた筈なのに、一日を経て、私は別人のようになっていた。
トウコさんの鏡台に映る、美しいドレスを身に纏った人間が私であることがまるで信じられない。

部屋に備え付けられた燭台を持って、暗い廊下を歩いていると、向こうから灯りが近付いて来た。
外套掛けのダークさんが、燭台のダークさんを持ってこちらへと歩いてくる。こんばんは、と挨拶をすれば、二人は同じように応えてくれた。

「もう出向いてくれていたのか。明日からは我々が迎えに来るから、シアは部屋で待ってくれていればよかったのだよ」

微笑んだ燭台のダークさんとは対照的に、外套掛けのダークさんはたった一言「では案内しよう」と告げ、踵を返して元来た道を歩き始めた。
私も見失わないようにその後に続く。
昨日、地下へと案内してくれた時には動きやすい靴を履いていたから何ともなかったが、この高いヒールで同じように歩くのは大変だ。
普通の速度で歩いている彼に付いていくのも一苦労だ。階段を降りることすらもひどく恐ろしい。一段一段をしっかりと踏みしめるようにしてようやく1階へと辿り着いた。

1階の厨房、そこから少し離れた場所にある扉の前に立ち、外套掛けのダークさんは私を促した。
私が扉の前に立つと、彼は木の部分を器用に動かして扉を開けてくれた。
木とは思えない程に滑らかに動く彼の腕らしき部分に感心していると、大きなテーブルが目に飛び込んできた。

美しいシャンデリアと、壁に掛けられた沢山の燭台。
二人で食事をするには大きすぎるテーブルの奥で、彼は私を見ていた。
何か言わなければ、などと気を回すようなことはしなかった。私は彼に向かってドレスの裾をたくし上げ、軽く会釈をしてから向かいの椅子へと歩を進める。
外套掛けのダークさんが、私が引こうとした椅子をさっと掴んで引いてくれた。
こんなことをされたのはやはり初めてで、気丈に振舞わなければと思いながらも緊張してしまう。

『取り敢えず、品よく振舞っておきなさい。あいつの態度が気に入らなくても、不快感を顔に出さないこと。愚痴なら、後で私が何時間でも付き合ってあげるから。』
自室を出る際に、トウコさんがしてくれたアドバイスを思い出しながら、私は口を開いた。

「夕食に、お招き頂き感謝します」

これ程に心のこもっていない感謝の言葉を紡ぐのは、後にも先にもこの一度きりだろうと思った。
私の声は自分でも驚く程に冷え切っていて、ああ、私はやはりこの人を許せないのだと、改めて思い知ることとなった。
しかし彼は私のそんな言葉を一笑に付す。

「形だけの言葉なら口にするな。不愉快だ」

私は、爪が手の平に食い込むのではないかと思う程に、テーブルの下で両手を強く握り締めていた。勿論、胸の中でぐるぐると渦を巻く憤りを抑えるためだ。
どうして、どうしてこんなことを言われなければいけないの。どうして私がこんな人と夕食を食べなければいけないの。どうして彼は私をこの席に呼んだの。
何もかもが不条理なように思えて泣きたくなったけれど、この人の前では決して泣くまいと誓っていた。
私はトウコさんのアドバイスに従おう。そのためにはこれ以上、言葉を発してはいけないのだと思い知っていた。

口を堅く結んで、彼を見据える。
人ならざる姿をしている彼を、シェリーは「野獣」と表現したけれど、私はもっと他の言葉を使いたかった。
こんなにも私の存在を酷くあしらい、私の尊厳をいとも容易く踏みにじることのできる存在が、獣なんて可愛らしいものである筈がない。

私と同じように四肢があり、人間と同じような衣服を身に纏っているにもかかわらず、彼はこの城にいるどんな家具や楽器よりも、人間らしくなかった。
けれど私を見据えるその隻眼だけは、人間のそれに酷似していた。人間離れした爪や牙が目立つ中で、その目はただ人のそれのような形と色を持っていたのだ。

……ああ、そう言えばこの人も、赤い目をしている。

「私の醜い姿がそんなに滑稽か」

その言葉に私ははっと我に返った。いくら相手が私の尊厳を傷付けた彼だからといっても、じっと顔を見続けるというのは失礼極まりない行為だったと気付いたからだ。
けれど、どうしても謝ることはできなかった。代わりに口から零れ出たのはたった一言だった。

「いいえ」

その言葉に、誰よりも私が一番驚いていた。
どうしてそんなことを口にしたのかは解らなかった。けれど、そのたった一言の否定は嘘でもお世辞でもなかったのだ。
確かに、人ならざる彼の姿は恐ろしいけれど、醜いとは思わない。寧ろ私は彼のその隻眼に、「彼」の赤い目を重ねていたのだ。
あの、とても美しい赤い隻眼を。

「私は、貴方を醜いとは思いません」

もう何も言葉を発するまいという先程の誓いを忘れ、私は呟くようにぽつりとそう零した。
けれど、それだけだった。私は視線をテーブルに落として、ただ料理が運ばれて来るのを待っていた。
そう、関わらなければいいのだ。この大きなテーブルの向かいに彼が座っていることを忘れて、ただ食事を楽しめばいい。
そう思うと、少しだけ気が楽になった。そう、これから毎日、この時間は続くのだ。どうせなら楽しく過ごしていたい。

そうして運ばれてきたのは、晩餐に相応しいコース料理だった。
前菜、スープ、メインディッシュにデザートといった、簡単なメニューを書いた紙がテーブルの端に置かれていた。
本でしか知らないスープや、名前すら聞いたことのないデザートに身の竦む思いがしたけれど、その実、私はわくわくしていた。
このメニューを書いた紙を、後で貰っていこう。これから毎日、少しずつ難しい料理の名前を覚えるのだ。私はそんな想像をして唇に弧を描いた。

……けれど、そんな笑顔も次の瞬間、呆気なく崩れ去ってしまった。
形が少しずつ違うその銀食器の、どれを使ってどの料理を食べればいいのかが全く解らないのだ。
ずっと同じナイフとフォークを使って食事をするものだと思っていた私の予測は大きく裏切られる。どうすればいいのか全く分からない。
もしかして、自分の手に合う食器を使えということなのだろうか。私は向かいに座っている彼を見遣ったけれど、彼は平然と前菜をナイフとフォークで切り分けていた。
その食器の形を見抜こうと目を凝らしたけれど、あまりにも距離が離れすぎていて、彼がどの銀食器を使っているのか判別することはできなかった。

「……すみません。食器はどれを使えばいいんですか?」

私の傍でテーブルを照らしていた、燭台のダークさんに小さな声でそっと尋ねれば、彼は笑いを堪えるような何とも絶妙な表情でそっと囁いてくれた。

「置かれている食器の、外側から順番に使うんだ。一つの料理を食べるごとに、そのナイフやフォークは下げられるから、その都度、新しい食器を手に取るといい」

彼のその説明が、私には天使の囁きにすら聞こえた。
そんなテーブルマナー、本には書いていなかった。こんな風に大量の食器を使って食事をするのは、上流貴族の常識だから敢えて書かなかったのだろうか。
何にせよ、これで食器の使い方が分かった。私は運ばれて来る料理に少しずつ手を付け始めた。

大きなお皿に、絵を描くようにソースや野菜が散りばめられていて、見ているだけでも楽しい。
朝食の段階で解っていたことだが、料理はどれも驚く程に美味しかった。
たまに使う食器を間違えそうになっていると、燭台のダークさんがそっと囁いてくれた。そんな遣り取りが楽しくて私はクスクスと笑った。
向かいのテーブルで、彼がそんな私の姿を見ているということすら、忘れていたのだ。

そうしてデザートを食べ終え、紅茶のカップに手を付けたその瞬間、彼は私にとんでもないことを尋ねたのだ。

「お前は何故笑っている」

「え……」

「何が、そんなに楽しいんだ」

その言葉で、堪えていたものが一気に弾けた気がした。
テーブルマナーも、上品さも、トウコさんに貰ったアドバイスも忘れて、私はテーブルに手をついて勢いよく立ち上がった。
あまりの憤りに涙が出そうだった。揺れる視界の中で、けれど私は彼の隻眼をしっかりと見据えた。

「笑ってはいけないの?」

そう声に出すだけで精一杯だった。両手を強く、強く握り締めた。
笑ってはいけないの?私は貴方の前で笑うことも許されないの?言葉を発することも、笑うこともできないのだとしたら、それなら私はどうしていればよかったというの?
私の矜持と尊厳を悉く踏みにじる彼が許せなかった。この上ない屈辱を覚えた私は、これ以上この場にいられなくなって扉へと駆け出した。
けれど踵の高い靴では思うように走ることもできなかった。

「!おい、待て、」

扉に手を掛けようとしたその瞬間、肩に彼の手が触れた。
私は反射的に振り返り、その手を勢い良く払いのけた。思った以上の力で振り切ってしまったらしく、彼は驚きに赤い目を見開いている。
私は扉を開けて、廊下へと飛び出した。彼は追いかけて来なかった。頬を涙が伝っていると気付いた瞬間、私は声を上げて泣いていた。

明日も、此処へ来なければならない。


2015.5.15

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