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「つまりクリスさんは、あんな低俗な連中じゃなくて、そんな奴等の声や視線に傷付けられている不甲斐ない私に苛立っていた、ってこと?」

「ふふ、ちょっと違うわ。私は皆のことを低俗だとは思っていないし、トウコちゃんに苛立っていた訳でもないの。
ただ貴方が貴方らしくなくなってしまうのは、とても悲しいことだと思って、……だから今日、トウコちゃんを此処に誘ったの。それだけ」

やはり初めから用意していた詩歌であるようにそれを奏でてから、クリスさんは傍を通ったウエイターを呼び止めた。
「キリマンジャロとレモンスカッシュを」と告げた彼女に、思わず肩が強張る。
ウエイターが遠ざかるのを見届けてから、クリスさんは私へと視線を戻し、「あら、炭酸飲料は嫌いだった?」と尋ねる。

「……いいえ、大好き」

「そうよね。だってトウコちゃん、いつも炭酸飲料を飲んでいるものね」

いつも、とは、どういうところを指しているのだろう。私がこの女性の前で炭酸飲料をがぶ飲みしたことなど、あっただろうか。
お喋りの許されている朝の図書館でも、流石に飲食は禁止だ。あんなところにジュースを持ち込んだことはない。
課外授業と称して、図書館組で旅行に出かけた折にはいつものようにがぶがぶと飲んでいたけれど、
あの時だけを指して「いつも」とは、あまりにも早合点が過ぎるように思われてしまった。

私がゼクロムに招かれてしまう前からずっと、彼女は私のことを見ていたのだろう。
そうした驕りを働くに十分な単語だったのだ。私の大好きな「レモンスカッシュ」という、炭酸飲料を示す飲み物というのは。

この人の「力」は、もしかしたら私達が見ているよりもずっと大きいのかもしれなかった。
この人もまた、周りの声や視線から上手く逃れるために、自分の実力を小さく見せようと努めているのかもしれなかった。

クリスさん、貴方のことを尊敬しています。そのままの貴方を尊敬しています。だから貴方も変わらないでください」

「……あら、どうしたの?」

「もし貴方が周りの低俗な何かに変えられてしまったら、貴方が周りや貴方を許せたとしても、私が貴方を許せないんです。
貴方には周りを変える力がきっとあります。でもだからといって貴方が変えられる必要は、ありません」

彼女はその青を大きく見開いていた。空でも風でも水でもない、何かもっと別の青がその瞳には宿っていた。
「海にだけはなれない」「それはとても素敵なこと」と言った彼女には、きっと自らよりもずっと相応しい「海」が、見えている。
彼女はそういう人なのだ。彼女はきっとそうやって、今までもこれからも、あらゆるものを見抜いていくのだ。

長く、本当に長く沈黙していた彼女の頬が、僅かに赤くなる。
それを誤魔化すようにクスクスと笑いながら肩を竦めて、

トウコちゃんの丁寧な言葉遣いを初めて聞いたから、びっくりしちゃった」

と、少しだけ彼女らしくないささやかな嘘を、吐く。

「折角だから、帰りはゼクロムに乗って帰りたいな。……ねえ、私も一緒に運んでくれるかしら?」

私の肩の上に乗ったゼクロムに、クリスさんはそう話しかけた。
ゼクロムが小さく頷いて承諾の意を示したので、私は広場の方まで歩いてから、杖を一振りしてゼクロムを元の大きさに戻した。
途端、周りが大きくどよめいたけれど、何故だか私はもう気にならなくなっていた。

見たいならば見ればいい。言いたいことがあるならば好きに言えばいい。
これがイッシュに登場する神話の姿だ。その姿を率いるのは、本と勉強が好きなだけの、口調も態度も足癖も悪い、この私だ。

ゼクロムは大きく2回羽ばたいて、ダイアゴン横丁の上空へと一気に上昇した。
クリスさんが私のすぐ後ろで「わあ」と大きな歓声を上げた。
その素直な声に私も嬉しくなったけれど、ゼクロムも同様に気分を良くしたらしく、随分とかっこいい加速の仕方でホグワーツへと進路を向けた。

「やっぱりトウコちゃんとゼクロムって、よく似合っているね」

「……そうですか?」

「ええ。もしかしたらゼクロムも、トウコちゃんがホグワーツで素敵なポケモントレーナーになるときを待っていたのかもしれない」

『私達は、ホグワーツに来るずっと前から、互いのことを探していたような気がするの。』
自らとスイクンを結ぶ綺麗な縁になぞらえて、彼女は私とゼクロムのことをそんな風に形容しようとしている。
それが妙に気恥しいことのように思われて、私は慌てて「そんなことあり得ませんよ」と否定した。同時にゼクロムも大きく首を振った。
けれどもそうした二者の否定にもかかわらず、クリスさんは嬉しそうに笑いながら「ほら、否定のタイミングまでそっくり!」と、喜んでしまうものだから、
私はさて、どうすればこの奔放でマイペースな女性を納得させられる言葉を選べるのだろう、とゼクロムの背中で頭を悩ませることになってしまった。

「あの日、「やっと会えた」って思わなかった?「ずっと会いたかった」って、そういう気持ちが沸き上がってきたりしなかった?」

「あはは、まさか!そんなこと全然、思いもしませんでしたよ。むしろ……」

不自然に沈黙した私に、クリスさんは少しだけ身体を傾けて私の横顔を窺うようにして「どうしたの?」と優しく続きを促した。
こんなことを言うと、呆れられてしまうだろうか。少し怖かったけれど、でもこの人にならそれもいい気がした。

私とゼクロムの間に、クリスさんとスイクンのような運命性があるとすれば、
それはきっと「やっと会えた」「ずっと会いたかった」などという綺麗な言葉で彩れるようなものではない。
そんなものはいっとう「私達らしくない」。だからきっと、これで間違っていない。

「私はゼクロムに歩み寄ったとき、「もううんざりだわ」って思いました。「またあんたなの」って、「いい加減にしてよ」って」

告げてから、「ああ、やはりこれは言ってはいけないことだったのではないか」と思い直して、やっぱり今のは忘れて、と付け足そうとした。
けれどもそれより先に、クリスさんが本当に楽しそうに笑い始めるものだから、
そのふわふわとしたメゾソプラノの笑い声には、私の言葉を揶揄する心地も疑う気配も微塵も感じられなかったものだから、
私はばつの悪そうに頬を赤くして、眉をひそめて、ゼクロムの背中を軽くぽんぽんと叩いて、更に加速するようにと促すほかになかったのだ。
けれどもその急加速さえも、クリスさんにとっては予測の範疇に収まるレベルの出来事であったようで、
彼女は強い風圧が身体を叩くよりも前に、しっかりとゼクロムの背中に縋り付く素振りを見せて、事なきを得たのだった。

「もう、あまり笑わないでくださいよ。馬鹿にされているみたいで、あまり気分がよくないから……」

「馬鹿になんてしていないわ。とても羨ましい。きっとトウコちゃんとゼクロムは、素敵な魔法の糸で繋がっているんだね」

赤い糸ならぬ、黒い糸だろうか。……などということを考えたけれど、口にする寸前でそれをぐっと飲み込んだ。
だってそんなことを言ってしまえば、赤い糸という単語からきっとこの女性は「運命の糸」を連想して、
「あら、トウコちゃんは案外ロマンチックなのね」と、更に嬉しそうに微笑むに違いないからだ。

「私、勉強も読書もやめませんよ。朝の図書館にも通うし、グリフィンドールの席にだって座ります。スリザリン生であることも、ゼクロムのことも、隠しません。
「いつも」を「私らしく」続けて、力を付けます。それなりに愛着のあるあの学園と、それなりに素敵なこの魔法界を守れるようになるように。……それから、」

「それから?」

「そのとき、私の尊敬する貴方の足を引っ張らずに済むように」

ホグワーツが見えてきた。私の大好きな、私の守るべき場所。ゼクロムに招かれずとも、きっと「守りたい」と思えるようになっていたであろう、大事な学び舎。
いけ好かない連中だって大勢いるし、私はクリスさんのように、彼等のことを優しく許すことなどできないけれど、
それでもそんな下らない奴等のことなどどうだっていいと思える程に、私はこの学園から多くのものを受け取っていた。
ドーナツを食べて、この青い女性から大事なことを思い出させてもらって、そうした貴重な時間を終えて、改めてこの校舎をゼクロムの背中から見据えれば、
……ああ、成る程、悪くない場所じゃないかと、此処を私とゼクロムの力で守れるなんて、随分と面白いことじゃないかと、思うことができてしまったのだ。

「貴方の相棒はNくんでしょう?呼吸は、私じゃなくて彼の方に合わせなくちゃ。……それより、ねえ、もう敬語をやめてはくれないの?」

「ええ、私はあまり言葉が上手くないから、こんな風にすることでしか、貴方への感謝と敬意を示すことができないんです。でも貴方が嫌だと言うなら、」

「ううん、そのままでいい。好きなように話して。それがトウコちゃんの感謝と敬意の形だというのなら、私も同じだけの誠意をもってそれを受け取るわ」

ゼクロムが芝生の上へと着地する。お礼を言いつつ、クリスさんはまるで羽を生やしているかのような身軽さで、ひょいとゼクロムの背中から飛び立つ。
私も芝生の上へと乱暴に着地して、ゼクロムにお礼を告げてから、「それじゃあ小さくするわよ」と杖を向ける。ゼクロムの目があからさまに鋭くなる。
クリスさんはクスクスと笑いながら、腐れた黒い糸で結ばれた私達のやり取りを眺めている。


2017.12.29

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