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このホグワーツの中で、一体どんな「悪いこと」をすれば、校長室に呼ばれるような事態になってしまうのだろう。
そして、そんな悪いことをしていないにもかかわらず、どうして私はこんなところに足を踏み入れてしまっているのだろう。

ゼクロムに招かれたことを認めない。ゼクロムを従えることを承諾しない。
それが私の「悪いこと」なのだろうか。この学園の、この魔法界の意思にそぐわない私だから、こんなにも立派な部屋に通されてしまったのだろうか。

「やあトウコくん、Nくん。始業式以来じゃな。元気そうで安心したぞ」

オーキド校長が朗らかな笑みのままにそう告げる。隣ではスリザリンの寮監であるサカキ先生が、厳しい表情で私を見つめている。

「へえ、校長の目は節穴なのね。私はあんたに呼ばれたせいで、今まさに元気がなくなってしまったところなのよ」

サカキ先生が苦虫を噛み潰したような表情になった。それは私が「ゼクロムを従える生徒」に相応しくない振る舞いをしたからだ。
礼儀正しい言葉で校長と話をすることができない、この出来損ないの生徒を、ああどうぞ、嫌うならば勝手にすればいい。

私はこの場で、最も悪質に、最も残酷に振る舞ってやろうと思った。
この校長室に集った、おそらくは私を説得するために集まったのであろう多くの教師を幻滅させることができれば、
私はあの黒いドラゴンポケモンの呪縛から逃れられるのではないか、などと、そんな身勝手な期待を膨らませ始めていたのだった。

スリザリンの寮監であるサカキ先生、レイブンクローの寮監であるアダン先生、アララギ副校長に、オーキド校長、それにランス先生やアポロ先生の姿もある。
校長室の壁に凭れ掛かるようにして待機していたランス先生は、私と目を合わせるなり小さく手を上げて、朝の図書館を思わせる「いつもの挨拶」を示した。
私もきっと、示し返したかった。いつものように手を上げて、ランス先生に「おはよう」と笑いかけたかった。
オーキド校長がこちらに差し出してきた手の中に、丸く美しい黒い玉がなければ間違いなくそうしていた。

「ダークストーン……」

その中に「何」が入っているのか、イッシュで生まれ育った私には解っている。
レシラムとゼクロムは、仕えるべき主が見つかるまで、ポケモンの姿を崩して小さな石の状態になるのだ。
神話で語り継がれてきただけの存在、あるかどうかも定かではないような石、それが私の目の前にある。
そして私の隣では、全く同じ形をした白い石が、アララギ副校長の手によってNの眼前に差し出されている。「ライトストーン」とNの唇が小さく動く。

イッシュ地方の伝承として残っていただけのその石がどういった形をしているのか、どれくらいの大きさなのか、私には一切の前知識がなかった。
おそらく魔法界で多くのポケモンに囲まれて過ごしてきたNだって、ダークストーンやライトストーンを見たことなどなかった筈だ。
けれども私もNも、一発でその石が「何」なのか、中に「誰」がいるのか、解ってしまった。
これは普通の石ではないのだと、この中に何か得体のしれないものが眠っているのだと、そうしたことを私達は直感してしまっていた。

「流石じゃな。わしらが説明するまでもなかったようだ」

「何が言いたいの?私はこんな薄汚い石に、興味なんてないわ」

トウコ、口を慎みなさい」

サカキ先生がいい具合に火種を投入してくれたので、「何よ偉そうに!」と怒鳴りつつ、懐から杖を取り出してサカキ先生の首元に突き付けた。
あまりにも生徒らしからぬ私の無礼な振る舞いに、サカキ先生の怒りは今にも頂点に達してしまいそうだった。
けれども驚くべきことに、周りから一番に上がったのは、私を窘める声ではなく、サカキ先生を窘める声だった。

「サカキ先生、好きなようにさせてやってほしい。この子は……少し臆病で、大きな役目を背負うことに、引け腰になっているだけなんだよ」

ドアの付近で、気配を消すように沈黙していたウツギ先生が、柔らかな声音でそう告げた。
そのときに私の腹の中に突き上がった、暴力的でいっそ怪物めいた憤りは、いつかNに「可哀想に」と言われたあの瞬間のそれに似ている気がした。
きっと、ウツギ先生に対してだけではない、あらゆるものに対する不満と、不安と、怒りが収まらなかった。
このままこの不安定な心地を抱えていては、どうにかなってしまいそうだった。

だから私はぐるりと振り返り、にこにこと人畜無害そうな笑みを湛えているウツギ博士の胸倉を、掴んだ。

「私は!私はこんなことのために勉強していたんじゃないわ!
私は私のために勉強していたの!私が楽しいから学んでいたの!ホグワーツを守るとか、魔法界の危機を防ぐとか、そんなことしたくない!
あんたは誰よりもそれを知っていた筈なのに、そうすることを許してくれない。最低だわ」

トウコさん、君の恐れはとても利己的で、身勝手なものだよ。解っているよね?君はいつまでも「後輩」や「生徒」ではいられないんだ。
君が友人や家族や先輩に許されたように、君も周りを受け入れることを覚えなければいけないよ」

ウツギ先生の言葉には暴力的な正しさがあって、私はそれに屈するしかないように思われた。理屈では私が勝てる予知など残されていなかった。
にもかかわらず、私は駄々を捏ねた。私はそれ程多くを望んでいないのだと信じていた。私は我が儘ではないのだと信じたかった。

「私でなければいけない理由が、あのポケモンに、このホグワーツや魔法界に、そしてあんた達にあるとは、とても思えない」

「……そうだね、そうかもしれないな。それでも君だった。それでもゼクロムは君だけに、近付くことを許したんだよ」

「ゼクロムなんかいなくたって、私は守れと言われれば、私の大切なものくらい、自分とダイケンキの力で守れるわ」

「君の実力は僕もよく知っているよ。でも力を持つ人間は、それを正しく使うと同時に、その力で周りの人を安心させてあげなければいけないんだ。
成績の芳しくない危なっかしい子がゼクロムを連れるより、君のような人に従えてもらえた方が、この学園の生徒たちはより安心できる。解るよね」

「……いいの?私は今、このホグワーツを、あんたを、誰よりも嫌っているのよ。
ゼクロムなんて大きな力を手に入れたら、それを使ってこの場所を、私にこんなことを強いる憎い学び舎を焼き尽くしてしまうかも」

「……口だけだね、トウコさん。君にそんなことはできない。そういう悪意を持った人間を、ああいう存在は決して招かない。
君が強くて優しくて、その実とても臆病な女の子だということは、ゼクロムを含めた、此処にいる全員が認めている」

何をどうやっても、この人の言葉には敵わなかった。
『私達を利用してやろうとする狡いウツギ先生のことは、私達が逆に利用してしまえばいいのよ。』
私はクリスさんのようにはなれなかった。でも特別なポケモンの「招き」を受け入れて、レッドやグリーンのように堂々と在ることもできそうになかった。

オーキド校長の手から、ダークストーンを引ったくる。既にライトストーンを受け取ったNの、空いている方の手をぐいと掴んで引く。
豪華な扉を足で乱暴に蹴破る。挨拶も何もなしに校長室を出ていく。
暴力的な正しさで私を追いつめ続けてきたのと同じ声が、どういうわけか「ごめんよ」と囁くように揺れる。扉が、閉まる。

「よく頑張ったね」

「……何のことかしら、N」

「だってキミ、さっきの部屋ではそんな顔、一度だってしなかったじゃないか」

デリカシーに欠けるこの青年は、透明な血を流し始めた私のみっともない顔を、そんな指摘と共にやわらかく許した。
夕日がふわふわと揺れていた。これ程までに眩しい夕日を私は見たことがなかった。
差し込む日差しのせいで、血が染みて、今までにないくらい眩しく感じたのだ。そういうことなのだと思うことにした。

狡いわ、狡い、大人って最低。結局皆こうなんだわ。こんな生徒一人に立派なものを押し付けるなんて。
もう誰も信じない。校長もウツギ先生も大嫌い。ゼクロムなんか私はいらない。こんな石、砕けてしまえばいい。
そんなことを喚きながら、泣きながら、私は右手を大きく振りかぶった。叩きつけてやろう、とその瞬間は本気で思ったのだ。

でも石の中の何者かはまるで私を試すように、いや私が石をアスファルトに「叩きつけることなどできない」と解っているかのように、
ただじっと沈黙して、ぴくりと震えることさえせずに、私の次の所作を待っていた。
腕を上げた状態で固まってしまった私に、Nは困ったように笑いながら、少しだけ面白いことを教えてくれた。

「叩きつけてもいい、と言っているよ。人の力程度で、カレ等は砕けたりしないらしい」

「……そんなこと、しないわ」

ゼクロムに罪はない。私はゼクロムのことが嫌いな訳では決してない。
きっと私がこの黒い石に八つ当たりをしたところで、私には清々しさどころか、罪悪感しか残らない。
そういうことを「何故だか」私は解っていたから、ダークストーンを強く握り締め、その滑らかな球面に爪を立てるだけに留めておいた。


2013.9.11

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