全然、解っていなかったのだ。
彼女がそう言って周りの変化を当然のように受け入れるのを、私はある意味冷酷なものとして見ていた。薄情な人間なのかもしれないとまで思ったのだ。
つまりは私は何も解っていなかったのだ。それでも彼女は「だって私が言わなかったんだもの、コトネは何も悪くないよ。」と、残酷な優しさを差し出すのだろう。
私はそれに耐えられなくなった。
「××、いる?」
医務室の隣にあるドアをノックする。しばらくして、パタパタを小さな足音が聞こえてきた。
僅かに扉を開け、その隙間から彼女の太陽の目が覗いた。
「…コトネ?」
「うん。」
彼女は安堵の溜め息と共に、体重を扉に掛けるようにしてドアを開いた。
いつもの制服に、レイブンクローのネクタイをしている。元々生気のない顔色は更に青ざめていて、触れた手はやはり氷のように冷たかった。
「どうしたの?」
「授業、休んでたから。大丈夫?」
「それで来てくれたの?」
逆にそう尋ね返された私は首を捻った。
いつも授業を一緒に受けていた友達が、何の連絡もなしに無断欠席したら、普通は心配になってお見舞いに行くものだと思っていた。
しかし彼女の常識ではそうではないのだろうか。これは過干渉の部類に入ってしまうのだろうか。また彼女に拒まれるのだろうか。
そう恐れていた。しかしそれは杞憂だったようで、彼女は針金細工のように細い手を延べて手招きした。
「どうぞ、上がって。…大丈夫、風邪を引いた訳じゃないから、移ったりしないよ。」
私は風邪を引かないの、と彼女らしくない冗談に驚きながら、私は彼女の個室に足を踏み入れた。
広さは私が使っている寮の部屋と変わらない。しかし××はこの空間を一人で使っているらしく、持て余された空間には大量の本が積まれていた。
地下にある訳でもないのに、この部屋には窓がなかった。薄いレモン色の明かりがぼんやりと照らされているだけで、ここでは太陽の光も、夜の闇も関係ないらしい。
大量の本や筆記具、点滴台。大きな机に、ベッドに、小さなクローゼット。それ以外には本当に何もなかった。
彼女のパートナーであるエーフィがベッドに丸まって眠っている。その藤色の身体が映える程の白で統一された家具に眩暈がした。
此処には色がない。
「白が好きなの?」
思わずそう尋ねていた。女の子らしい小物やクッションなどが皆無でありながら、全ての家具を白で統一させているところに彼女の拘りを感じたからだ。
彼女はしばらく考え込み、くすりと笑った。
「そうかもしれないね。白は私を助けてくれた色だから。」
「病院のこと?」
「…ちょっと違うけれど、きっとそうだよ。」
彼女の不思議な発言に苦笑しながら、私は勧められた椅子に座った。
彼女はベッドに腰掛けて、制服から杖を取り出す。
「アクシオ」と呼び寄せ呪文を唱えれば、何処からかティーセットが飛んできた。
コーヒーは飲める?と尋ねてくれた彼女に背伸びをしたくて、私は間髪入れずに頷いてしまった。
本当はコーヒーなんて飲めない。砂糖とミルクをたっぷり入れたものなら何とか飲めるが、シルバーに「それはコーヒーじゃない。」と馬鹿にされたことさえある。
彼女がシルバーと同じリアクションをするとは思えなかったが、それでも彼女の前では格好をつけたかった。少しでも素敵に在りたかったのだ。
そんな私の背伸びを見透かしたのか、彼女は自分にはブラックのコーヒーを、そして私にも同じコーヒーに、ガムシロップとミルクを添えて渡してくれた。
「ごめんね、こんなものしかなくて。」
「いいよ、だって××は普通の食事をしないんでしょう?」
それ故に食堂で皆と食事を共にすることをしない、ということを、私は××と出会って直ぐの頃に聞かせて貰っていた。
食べられないものを置いていても仕方ない。だから彼女の部屋にクッキーやキャンディが無いのは自然なことだと思っていた。
どんな食事を摂っているのかを私は知らない。そもそも彼女がどういう類の病気なのかを知らない。
しかしそれを聞くのは憚られた。誰にだって聞かれたくないことはあるし、全てを知らなくとも歩み寄れると信じていたからだ。
だから私が出来るのは、彼女がくれる情報を駆使して精一杯の配慮をすることだった。
彼女は私の言葉に目を見開く。
「覚えていてくれたんだね。」
××は笑った。
「ねえ、コトネにお願いがあるの。」
今度は私が驚きに目を見開く番だった。沈黙が白い空間を満たした。
彼女が何かを申し出たり、私に何かを頼むことは今まで一度もなかった。
どんなに重い教科書でも彼女は自分で持っていたし、私が「持ってあげるよ。」と申し出ても決して受け入れることをしなかった。
そんな強情な彼女だから、きっとこのお見舞いも門前払いされると思っていた。
部屋に招かれたのは完全に予想外だったのに、彼女は更に予想外のことを紡いでみせる。
「私に叶えられる?」
不安になってそう尋ねると、××は本当に楽しそうに笑った。
「コトネにしか出来ないことだよ。」
「そんなことがあるの?」
私にしか出来ないことなどあるのだろうか。私はどれ程勉強を重ねても彼女には勝てなかったし、彼女は私と違ってとても大人だ。
この時の私には解らなかったのだ。無知で愚かな子供にしか出来ないことがあるということ、彼女はそれを知っていたということ。
「また、ここに来て。」
それは、孤独に慣れ過ぎていた彼女の、初めての懇願だった。
私は許されたのだろうか。変わることを仕方ないことだと笑った彼女が、変わらないようにと私に求めたその言葉の意味を、私はどう理解するべきだったのだろうか。
あの時と今とで、彼女にどんな心境の変化があったのだろうか。私のどの言葉が彼女の心を動かしたのだろうか。私には何も解らなかった。
しかしそれは確かな懇願だった。それは間違いようのない事実だった。どうして私がそれを拒むことが出来ただろう。
「うん、絶対に来るよ。」
私は小指をそっと伸べた。彼女の針金細工のような指に絡めた。
約束は破るためにあるものでは勿論なくて、破ることを前提に交わされた約束などない筈だった。
つまり私はこの時の××を信じる権利があったのだ。
2013.12.6