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「親父が嫌いなのは、恋愛にばかり目が眩んで、勉強をしない生徒だ。」

シルバーはそう呟いた。雪の上に足跡を付けながら、私達は早朝の芝生を満喫していた。銀世界を踏み砕く感覚は私を幸せにした。

トウコさんとNも公認されているらしい。」

「……あの二人は、だって、非の打ち所がないもの。」

「他にも、コトネのお姉さんとアポロ先生とか。」

「え、お姉ちゃんも公認だったの?」

私は驚いて尋ね返した。姉は確かに色んなことをそつなく起用にこなしてみせるが、飛び抜けて秀でた何かを持っている訳ではなかったからだ。
要するに、学生としての本分をある程度果たしている限りは、ホグワーツにおいて、恋愛は自由に認められているらしい。
それどころか、私達の場合は時折、先生にまでからかわれる。「え、まだ付き合っていなかったのか?」と一体何人の先生に聞かれたことだろう。
他人の視線に人一倍敏感であった筈の私は、しかしそうしたことを完全に見落としていたらしい。
確かに同年代の男女二人が四六時中一緒にいれば、誰もが恋人同士だと思うだろう。そんなことを思い至る余裕がなかった。それ程に私は、あらゆることに疲れていたのだ。

しかしそれよりも私は、他でもない彼の口から「恋人」という言葉が紡がれたことに、一日経った今でも驚いていた。
『俺が考えたくだらないままごとに、付き合っていると思えばいい。』彼はかつてそう言った。
それはあの時の不安定な私に示された妥協案で、昨日まで私はそれに縋り続けていたのだ。
私達が一緒にいるのは利害の一致故で、だから自分に対して申し訳ないだとか、そういったことを思わなくとも良いのだと。
しかし今、それが解かれようとしている。そのことに私は気付いていた。

「でもね、シルバー。私は恋人としてシルバーにしてあげられることが何一つないんだよ?シルバーも知っているでしょう?」

私はどこまでも無力だった。私が彼にしてあげられることなど何一つないのだ。
にも拘らず、私は彼からあまりにも沢山のものを受け取りすぎていた。

傍にいてくれた。私を見限らずにすっと守ってくれていた。
怖いなら目を閉じていればいいと言い、なんてことはない風に私の手を取った。私がこの冷たい世界で生きられるように、沢山の気遣いをしてくれた。
見えないものでも信じられるのだと教えてくれた。しかしそれを彼は「私に教わった」ことだとして頑として譲らなかった。
見えないものを信じることは難しいけれど、私のことを信じると言ってくれた。だから存在していたのだろうと、あり得なかった筈の世界の共有を笑って為した。

その全てを私は覚えている。忘れる筈がない。
だからこそ、その全てに報いられるものを持たなくて、焦っている。迷っている。

「それが許されるのが「恋人」なんじゃないのか?」

「え……。」

「利害の一致なしに傍に在りたいと思うことの理由が、恋人になることで出来上がると思わないか?」

彼はいきなり難しいことを言った。私はその意味を理解するのに数秒を要した。
つまり今、こうして私が彼に報いられる何もかもを持たないことすらも「恋人」という肩書きが包括してくれるということなのだろうか。
彼が私にしてくれる何もかもが「恋人だから」という、そのたった一言に収められてしまうということなのだろうか。
それはあまりにも甘美な誘いだった。予想していた以上の甘さに眩暈がした。そして、それはとても悲しいことであるような気がしていた。私は首を振った。

「それは、シルバーに甘えてばかりの今の私とどう違うの?私は一人で歩かなきゃいけないんだよ。いつかはシルバーの手を引いて歩きたいんだよ。」

「ああ、知っている。」

「そんなことに甘んじていたら私は駄目になってしまうよ。」

すると何がおかしいのか、彼は肩を震わせて笑った。
吐き出された白い息を雪が押し潰していった。私はそれを見送り、再びシルバーに視線を戻した。

「じゃあ、俺もいつか駄目になってしまうな。」

「どうして?」

「俺も同じように考えているからだ。俺はコトネに貰ってばかりだからな。」

その信じられない言葉に私はただ沈黙した。
嘘だ。彼のことは信じられたが、その言葉はあまりにも現実性を帯びていない。
しかしそうやって私が呆然としている間にも、彼は信じられない言葉を紡ぎ続けた。

「毎朝、寮の前で待ち合わせの時間に遅れないように来てくれる。毎日一緒にとる食事はおいしい。
俺が授業中に「解らない」と尋ねた問題を、お前はいつだって解り易く教えてくれる。
お前に負けたくないと思いながら、でも結局は敵わないことを知っている。そして、それを心の何処かで楽しんでもいる。」

「ちょ、ちょっと待ってよシルバー。私、そんなつもりじゃ、」

私の慌てたその言葉に、しかし彼は本当に楽しそうに笑ったのだ。
そっと延べた手で私の頭を撫でて、もう片方の手でさも当然のように私の手を取った。

「ほら。だから自分ばかり、なんて思わなくていい。」

「!」

「解っただろう、俺達の相性は良いんだ。おあいことも言うが。」

私は言葉を失った。代わりに握った手の力を強くした。
彼はこうして、私から荷物を奪い取るのが得意なのだ。そして、それを奪い返す術を私は持たない。
だから私が出来ることは、それでもと頑なに拒み続けることではなく、ありがとうと可愛く甘えて見せることでもなく、ただそれに頷くことだけだった。

彼が私に気を使っている訳ではないことを、私は彼と重ねてきた時間の中で知り始めていた。
私に気を使って、そうした言葉が発せられている訳ではない。彼がこうして私を支えてくれるのは、大半が彼の性分によるものなのかもしれなかった。
私が「しっかりしているようで危なっかしい」から「見ていて飽きない」と言った、その彼の言葉に嘘はないのだろう。
そして、私はそんな彼に救われている。自然体である彼との時間は居心地がいい。私も肩肘を張らずに、私でいられる。
これが彼の言うところの「相性が良い」ということなのだろうか。よく解らなかった。

「どうしても、というなら、今からでも恋人をやめるか?」

そう尋ねてくれた彼に、どうして頷くことが出来ただろう。

「や、やめたくない!」

「……お前はもう、一人で歩けるようになっているのに?」

「そうだよ、君がそうしてくれた。だからもう私の手を引いたりしなくていい。これからはただ手を繋いで、一緒に歩こうよ」

彼は目を細めて「それはいいな」と同意の言葉を示してくれた。
私はそのことに安心してばかりで、嬉しくなってばかりで、彼がその後に小さく、本当に小さく続けた「良かった」という音には気付けなかった。
私達は雪の降りしきる銀世界に足跡を付けた。沈黙は雪の軋む音が埋めてくれた。

「ありがとう。」

拙い言葉に詰め込んだ温度は、ちゃんと彼に届いただろうか。
言葉足らずな自分にもどかしさを感じる。もっと想いを言語化する能力において、お姉ちゃんのようにずっと聡明であればいいと思う。
けれども聡明でなくとも、言葉足らずでも、拙くても、伝わっていると信じられた。彼が私のことを信じてくれたように、私も彼のことを信じられたのだ。
彼は何も言わない。代わりに握った手の力を強くしてくれた。それで十分だった。

2014.2.28

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