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「不思議だね。」

彼女は微笑み、そう紡いだ。

「前はコトネに触れられることが怖かったのに、今はコトネに触れられないことが悲しいなんて。」

私はその言葉を最後まで聞けなかった。彼女の頬に手を延べていた。
彼女は泣いてはいなかった。泣きそうな笑顔を浮かべながら、しかし決して涙は零さないのだ。
変なの。前はあんなに泣き虫だったのに。私はおかしくなって、しかし笑うことは出来なかった。今回に限って言えば、泣いているのは私の方だったからだ。

「ずっと騙していて、ごめんね。」

私の手は、……それは当たり前のことだが、彼女の顔をすり抜けた。私の手が彼女の頬に触れることはない。
冷たい羽の温度を、冷え切った、でも確かに存在した彼女の温度を、私が感じることは二度とない。
当たり前だ。当たり前のことだ。それはとても悲しいことだ。彼女と再び顔を合わせるとはそういうことだった。それでも私は彼女を呼んだ。

「違うの、私が、私がいけないの。どうしても見えなきゃいけなかったの。だって一人が嫌だったから、どうしても怖かったから……!」

ぼろぼろと涙を零す私に、彼女は困ったように笑った。私の頬に延べられた指は、当たり前のように私の頬をすり抜けた。

実のところ、私はこのまま彼女を忘れることだって出来たのだ。
残酷で自分勝手で我が儘で、一人が大嫌いな私は、しかし一人ではない今に満足して、安心して、そのまま新しい日常に埋もれていく筈だった。
今の私にはシルバーがいる。トウコさんも、Nさんもいる。ゴーストにも寄り付かれない。クディッチの代表メンバーに選ばれたことで、今や私は寮の人気者だった。
誰も私を笑わない。誰も私を一人にしない。最上の今が与えられている筈だった。
しかしその一助を担っていたのは他でもない彼女だった。私がゴーストに寄り付かれずに清むという不思議な魔法を、彼女がずっと私に掛けていてくれたのだ。
ずっと、ずっと私を守っていてくれたのだ。

それでも、私はそのことにそっと感謝しながら、やはり彼女と再び会うことなく生きていくことだって出来たのだ。
寧ろそうすることで、私の安定した日常は保たれる筈だった。ゴーストと話しさえしなければ、誰も私を笑わないのだから。
私以外の誰にも認知されないという、霊力のないゴーストとの会話。それさえ無くせば、私は普通の女の子になれる筈だった。

「じゃあ、どうして私を呼んでくれたの?コトネは私を嫌いにならなければいけなかったんだよ。」

それなのに、私は彼女を呼んでしまった。
それは衝動的なものだったのだろうか。直ぐに私は自分の奇行を悔いることになるのだろうか。
だって私は今も見えないものが嫌いだ。皆には見えなくて私にしか見えないものが嫌いだ。そのことで笑われるのが嫌いだ。一人が大嫌いだ。

「私は、怖がりだから、一人が嫌いだから、貴方に縋っていたの。でもね、それだけじゃないんだよ。貴方が貴方だから、一緒にいたいと思ったんだよ。」

『嫌だよ、私は××じゃなきゃ嫌。』

誰でもいい、だなんて、私は言えないのだ。それはずっと前から変わらない私の信念だった。誰でもいいだなんて言えない。私は彼女がいい。隣にいるなら彼女がいいと望んだのだ。
いつかは皆、離れてしまう。それが大人になるということで、しかしそれは悲しむべきことではないのだと、彼女はいつか私に教えてくれた。
私はその意味を理解した気になっていたのだ。私は思い上がっていた。

しかし今なら解る。私と2才しか年の違わない筈の彼女が、どうしてそんな大人びた諦念を紡ぐのか、どうしてそんな優しい言葉を紡いで私との接触を拒否したのか。
あの悲しい言葉に隠された本当の意味を、私はやっと知ることができた。だから私は彼女を呼んだのだ。

『だから、少し酷いことを言ってしまうの。コトネが大切だから。
でもね、コトネが私を選んでくれたこと、本当に嬉しいんだよ。ありがとう。』

いつかの彼女が紡いだ言葉を私は思い出していた。
どうして気付かなかったのだろう。彼女は私を案じてくれていたのだ。この極端に怖がりで寂しがり屋な私のことを、ずっと見守り、心配してくれていた。
それはいつか、私が彼女の元を離れて歩き出す為だった。何故なら私達の住む世界は本来なら果てしなく隔てられているからだ。
だから彼女は私を「大切な人」にすることを拒んだ。それが離れる時の足枷になると知っていたからだ。しかしそれは他でもない私の為だったのだ。
私が一人で歩けるように、彼女はずっと、ずっと。

『もっと世界の広さを知って。』

私の世界は目まぐるしく変わっていた。
素敵な先輩と、私を慕ってくれるクラスメイト。大好きな家族と、私の大切な人。彼等と関わる中で、私は新しいことを知り始めていた。
それはちょっとした視点の転換で、しかしそれによって私の世界は劇的に変わったのだ。

本当の私を知っている人がいるということ。私のことは、私を本当に大切に思う人達が知ってくれているということ。
周りに何を言われようと、そんなもので私は変えられないし、誰も本当の私を知りたい訳ではないのだということ。
好きに言わせればいい。そんなもので私の自尊心は揺らがない。私は何も変わらない。
そんな当たり前のことを、けれども本当に大切なことを、教えてくれた人がいたのだ。私の世界は広がり始めていた。広がった世界の中で生きていく術を身に付け始めていた。

「貴方を呼んだのは、貴方に言いたいことがあったからなの。」

「……。」

「騙された、だなんて思ってごめんなさい。大嫌いだなんて言ってごめんなさい。
私を守ってくれてありがとう。私の傍にずっといてくれてありがとう。」

思いの丈を全て吐き出して私は笑った。やっと笑うことが出来た。私は涙を拭う手を止めて、彼女の目を覗き込んだ。
彼女の目は色素が薄い。透き通るようなブラウンの瞳は、深い太陽の色をしていた。その2つの目が私を照らすように見つめた。

「ねえ、私はまだ危なっかしいけれど、でも、ちゃんと一人で歩けるようになったよ。」

その言葉に深い太陽の目が見開かれた。
私は自分の声が震えるのを感じていた。どうしてこんなにも怖がっているのだろう。
それは今まで私がずっと避けてきた言葉を、今正に発しようとしているからに違いなかった。

私ね、友達とか、親友とか、そんな言葉がなくとも私達は繋がっていられると信じていたの。私達の世界は共有されているんだって信じられたの。
でも、そうじゃないんだね。今ならちゃんと解っているよ。私達は対極にいて、どう足掻いても私達の世界は共有されないんだよね。
皆に貴方は見えなくて、私は見えないものと話をする変な子で。
大事なことを教えて貰ったけれど、それをまだ活かしきれない私は、きっとまた同じように苦しむんだよね。
私にしか見えないこと、前のように触れられないこと、同じ時間を生きられないこと、思い出してまた、辛くなるんだよね。
そうならない生き方もあること、私は知っているよ。でもね。


「だからお願い、私と友達になって。」


それでも、貴方と一緒にいたいと思ったんだよ。

「……。」

彼女は私の手をそっと握った。風の音すらさせずに私に触れた。
私は彼女に触れられない。しかしその事実こそが幻想だと言わんばかりに、彼女は半透明の身体で私に触れるように自身の手を重ねたのだ。

「私でよければ、是非。」

羽は冷たいままで、私は結局、彼女に私の温度を分けてあげることが出来なかったのかもしれない。
もっとこうすれば良かったとか、ああ言えば良かったとか、後から思い出して反省するのかもしれない。
それでも隣にいて良いのだと、他でもない彼女がそう言ったのだ。いつもの泣きそうな笑顔で私を許してくれたのだ。

苦しまずに生きられる毎日よりも、貴方といられる明日が欲しい。
そう、私が選んだのだ。

2014.2.28

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