34

レイブンクローの寮に戻って来た私は、入り口のところで立っている見慣れ過ぎた人影に気付いた。
私が声を上げるより先に、向こうも私に気が付いたようで、駆け寄ってくるなり眉をひそめた。

「……大丈夫か?埃だらけじゃないか。」

その言葉で私は、自分のお気に入りの私服や帽子が、分厚い埃を被っていることに気付く。
ああ、こんなにも汚れるものなんだと、私は忘れられたあの空間の時間を思った。
そして私の口からは、ありのままが素直に零れ出る。

「私、何も知らなかったの。知ろうとしなかったの。」

「……。」

「シルバーも、お姉ちゃんも、あの子もKも、皆、私を助けてくれていたんだね。ずっと、ずっと守られていたんだね。」

私は何も知らなかったのだ。
彼女のこと、彼女を取り巻く冷たい世界のこと。冷たい筈の世界にも、確かに温度があったこと。
それは逃げも隠れもせず、ずっとそこにあったのに、私はずっと見落としていたのだ。
全てが見えている筈の私は盲目で、誰かに手を引いて貰わなければ前に進めないのだ。そうして初めて、自分の視界を確保することに成功していたのだ。

「もう、会えないのかな。……当然だよね。私、酷いことを言ったの。許して貰おうだなんてどうかしているよね。」

我が儘な私がどうしようもなく愚かしい。私は涙を拭いながら沈黙した。
シルバーは残酷なまでに優しい。十分に自分を責める私に向けて、更なる糾弾を発することは絶対にしない。そして、私はそれを解っている。
いつから私はこんなにも狡くなったのだろう。
彼の残酷な優しさに甘えることは、逃げ場を無くした私の唯一縋れる場所であり、こうも頻繁に自分の矜恃を保つ為に利用すべきものではないと知っていた筈なのに。

彼の視野は私よりも広い。きっと私には考えも付かないような道をそっと示してくれるのだろう。
それはちょっとした視点の変換で、この冷たい世界の見方をほんの少し変えればいいだけのことで、しかしそれだけのことが私にはどうしても難しいのだ。
だから私は彼に縋っている。彼だけではない。トウコさんにも新しい世界の見方を教えて貰った。
私には考えも付かなかった彼女の理論は、私の世界を少しだけ変えたのだ。
しかし私の世界は彼女の色には染まらない。シルバーの色にも染まらない。

私は誰の色にも染められない。染められたくない。だってそれを許してしまえば私は私ではなくなるから。

だから私は、私の大切な人達が教えてくれる世界を知って、しかし最後には私が結論を出さなければいけないのだ。
知らないこと、臆病なこと、怖がりなことに甘えることが許されるということを私は知った。今度はそれを糧に自分で歩みを進める番だ。
……だから、今は縋ってはいけない。結論は私が出さなけれぱ。それを軸に歩き出さなければ。
だって私が手を引けるようになるまで待ってくれると、他でもない彼がそう言ったのだ。

「きっと、今はまだその時じゃないんだよね。」

私のそんな言葉に、シルバーは目を見開いた。

「また会えるよね。きっと、いつか、」

それ以降は言葉にならなかった。彼の腕に縋り付いた。
彼は何も聞かない。何も言わない。しかし全てを知っているかのようだった。
私の知らないところでも世界は動いているのだ。怖がりで寂しがり屋な私が生きられるように、彼は姉と同じく手を引いてくれていたのだ。
私をそっと誘導してくれた。この道だよと指し示してくれた。
しかし背負ってはくれない。それは彼も姉も、トウコさんも同じだった。決めるのはいつだって私だった。何故なら世界はそういうように出来ているからだ。


世界は冷たい。
そして、私もそんな世界のひとつに過ぎない。
それでもそこには確かな温度がある。
そんな大切なことを、私に教えてくれた人がいた。


泣き腫らした目はなかなか閉じてはくれなかった。私はその夜、寝付けずにいたのだ。
ルームメイトの深い寝息を聞きながら、私は冷たい羽のことを考えていた。
それは思わず体温を分けてあげたくなる程の冷たさで、だからこそ私は焦がれたのだ。
しかしそれを彼女は許さない。何よりこの冷たい世界はそういうように出来てはいない。

『大切な人と離れることが大人になることなの?それなら、私は大人になんてなりたくないよ。』

『その世界の広さに、新しい出会いに気を取られて、本当に大切なものを取り零してしまったらどうするの?』

私は何処までも臆病で、寂しがり屋で、愚かで、不器用な人間だった。そして、それは今でも続いている。
誰かに手を握って貰わなければ、怖くて目すら開けられないような人間だ。盲目の癖に人の視線にだけは敏感な、ひどく都合のいい人間だ。

『私の温度を分けてあげられたらいいのに。』

そんな戯言を言ってしまえるような人間だ。

『ありがとう。』

それでも私はようやく、大切なものを大切だと言えるようになったのだ。
いつでもいい。いつまで掛かってもいい。どうせ私はまだ、後何年もホグワーツにいられるのだ。
ちょっとお礼と謝罪が遅くなるだけ。私が許されることを少しの間待っていればいいだけ。

そんなことを考えていたからかもしれない。ようやく眠りについた私が次に意識を覚醒させたのは、太陽が完全に登り切った頃だった。
つまり、寝過ごしたのだ。私の顔は一気に青ざめた。朝食の時間をとっくに過ぎていることに気が付いた時にはもう、遅かった。
どうして起こしてくれなかったの!とチコリータに八つ当たりしながら慌てて制服を着た。小さな冷蔵庫から野菜ジュースを取り出し、一気飲みして部屋を出た。

転がらんばかりの勢いで階段を駆け下りた。寮を飛び出し、ホグワーツの校舎へと急いだ。
中庭を横断し、日の当たる廊下を駆け抜けた。
そのまま加速を続ければ、始業のチャイムに間に合う筈だった。教室に滑り込んで、先生の点呼に息を切らせながら返事をすることが出来る筈だった。

しかし私はそうしなかった。私の足は完全に止まった。
それは、私にしか見えないものを見る為だった。何もない筈の場所に許しを請う為だった。
彼女と、話をする為だった。

半透明の影は振り返り、その太陽の目を瞬かせて、泣きそうに笑った。


「私を呼んでくれてありがとう。」


2014.2.24

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