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私の世界は目まぐるしく変わっていった。
それも、私が思いもしなかった方向に。

「あ、コトネちゃんだ。昨日の試合、凄くかっこよかったよね!」

「レイブンクローがあんな切り札を隠し持っているなんて知らなかったぜ。」

「きっとそのうち、チェレン先輩から寮のチームにも誘われるわよ。」

「そりゃあ、あれだけの実力、喉から手が出る程び欲しいだろうね。」

信じられない言葉が飛び交い始めていた。それらは私が決して浴びる筈のなかったもので、私はただただ困惑していた。
シルバーと並んで廊下を歩いていると、皆が私の方を一瞥した。その視線は以前に浴び続けた嘲笑と軽蔑の温度を含んではいなかった。
尊敬と称賛の言葉を、しかもそんな大量に聞くことに慣れていなかった私は、シルバーの手を引いて、長い廊下を駆け抜けた。
急な加速に彼は驚き、しかし全てを把握したのか、逆に私の手を引いて空き教室へと駆け込んだ。

「……大丈夫か?」

大丈夫だよ、ごめんなさい。
虚ろな目でそう呟いていた。脳内では皆の言葉がまだ反響していた。
私は自分の身に起こっていることをようやく理解し、そして、理解するや否や益々困惑した。

結果として、私の初めての練習試合は成功した。
相手のチームに大差をつけて勝利し、私も得点に貢献することが出来た。
ピジョットやゼクロムなど、大型のポケモンが飛び交う中で、私のチコリータは逆に目立っていたが、それすらも私を称賛する要素になったらしい。
「最強のチコリータを連れた期待の新人」それが、私に新しく貼られた名札だった。
そんな恐れ多い肩書きを背負いたくなくて、私は別の意味で人混みを避けなければならかなった。

「気にしないでいい。」

シルバーはそう言った。私は耳にこびり付いた私への評価を振り払うように頭を振り、ありがとう、とお礼を言うことが出来た。

クディッチの練習試合を終えて以来、私の生活は激変した。
教室では大勢のクラスメイトに話し掛けられた。先生ですらも私を称賛した。
朝食や夕食、昼休みを一緒に過ごさないかと誘われるようになった。放課後、何所かに遊びに行こうと言ってくれる人もいた。
シルバーも一緒にどう?と、彼にも誘いの声がよく掛かるようになった。
しかし私はそれら全てを断っていた。今まで通りシルバーと二人だけの生活に甘んじていたのだ。
相変わらず外の世界は冷たくて、そう信じて疑わなかったからだ。私はまだ恐れていた。

……二人だけ、というのは、語弊があるのだけれど。

コトネは一躍、時の人ね。私よりも有名人になっちゃったんじゃない?」

私はシルバーと外で過ごしていた昼休みを、トウコさんとNさんを含めた4人で過ごすようになっていた。
購買で買ったお昼を持ち寄って食べ比べをしたり、広い芝生の上で箒を飛ばしたり、縮小呪文を解いたレシラムやゼクロムに上って遊んだりした。
今では2人の顔を見ない日の方が珍しい。彼等は私達と同じように、同年代のクラスメイトと親しく付き合うことをしていなかったのだ。
だから私達に何も遠慮なんかしなくていいと、トウコさんは肩を竦めて笑った。

一度だけ、トウコさんにポケモンバトルを申し込んだことがある。手加減してあげると言って、彼女は最初のパートナーであるダイケンキで私とのバトルに応じた。
初めての敗北は涙の味がした。力なく倒れたチコリータを抱き上げて、私は治癒呪文を掛けることすら忘れてただ泣いた。
私を相手によく頑張りました、と彼女は褒めてくれた。バトルに負けた。ただそれだけのことがとても新鮮だった。
次に頑張ればいい。それまでにこの子と一緒に努力すればいい。そんな当たり前のことをようやく知った。私は新しい世界を知り始めていた。

そんなトウコさんに、敬語を使わずに話せるようになるまでには長い時間を要した。
彼女は私よりも2つ年上だったし、そうでなくても私は「友達」という響きに怯んでいたのだ。
Nさんはトウコさんと同じ学年だが、何度か留年を重ねている為、私よりも5つ年上だ。
そんな人に敬語を使わないなんて尚更とんでもないと思ったが、同じ立場である筈のシルバーが何の躊躇いもなく彼と普通に話し始めたのを見て、私も遠慮するのを辞めた。
首席で進級した豪胆なトウコさんと、ポケモンの声が聞こえるNさん。見えないものが見える私と、そんな私を肯定してくれる優しい彼。
不思議な関係が出来上がりつつあった。それは徐々に私の新しい日常に組み込まれていったのだ。

伝説ポケモンが二匹揃って見られる彼等の傍で、通り過ぎる人は大抵の場合、足を止めて感嘆の溜め息を吐いた。
しかしトウコさんはそれらを歯牙にもかけず、完全な無視を決め込んでいた。それは彼女が豪胆だからなのだろうか。

「変なの。」

大きな口を開けてメロンパンにかぶり付いた彼女は、突然そんなことを言った。
シルバーとNさんはポケモン達と遊んでいる。Nさんは数式が好きで、よくその話をしてはシルバーを唸らせていた。
マグマラシがチコリータを背中に乗せて芝生を駆けていた。炎タイプの彼の背中に何の躊躇いもなく乗る彼女は、私とは違って度胸があるらしい。

彼女が進化しないのは私のせいではなくて、私の帽子の上に乗っていたいからだ。そう教えてくれたのはNさんだった。
出会って間もない彼にも解ることを、チコリータとずっといた私が知り得なかったことが少しだけ悔しかった。
しかし共有されない世界がすれ違う鈍い音を、私は少しずつ受け入れられるようになっていた。それは私が薄情なのではなく、そういうものなのだと許せるようになっていた。

コトネは何も変わっていないのにね。」

トウコさんはとても面白そうに笑った。
私は笑うことが出来ずに首を傾げた。彼女はメロンパンを咥えたまま芝生に寝転がった。

「変わったのはあんたじゃない。周りの奴等よ。あいつ等がコトネの持っている実力に気付いた、ただそれだけのことなのよ。」

「……。」

「今回のことだけじゃないわ。あいつ等は基本的に、好き勝手言う生き物なのよ。世間なんてそんなものでしょう。
誰も本当のあんたを知りたい訳じゃない。コトネのことは、コトネを本当に大切だと思う人だけが知っていればいいの。
ねえ、コトネは何も変わっていないのに、どうしてそんなに怯えなきゃいけないの?」

彼女の目が私を覗き込んだ。
私はどんな顔をしていたのだろう。ぎこちなく瞬きを繰り返して、彼女がくれた言葉をゆっくりと反芻していた。
そうだ。私は何も変わっていないのではなかったか。誰も私のことなど知らないのではなかったか。
けれども、本当の私を知ってくれている人が、私にはいるのではなかったか。彼等との時間の尊さを、私は知り始めているのではなかったか。

「なんてね。全部私の尊敬する人からの受け売りよ。あんたにも知ってほしかったの。それだけ!」

そんな風にとても嬉しそうに笑うこの人が、こんなにも強靭でいられる理由を、私はようやく知れた気がしたのだ。
つまり彼女にとっては全てがどうでもいいことなのだ。
周りのクラスメイトや寮生に何を言われようとも、冷たい世界が彼女を称賛しようと軽蔑しようと、彼女は全く気にしないのだ。
何故ならそれは彼女の中核ではないから。そんなもので彼女の自尊心は揺るがないから。
彼女を本当に知っている人は別にいて、それこそが尊いのだと。

「……そうだね。そうなんだよね。」

私はぼろぼろと涙を零した。ひどく安心したのだ。冷たい世界は冷たいままで、しかしその世界で生きるための羽を私はようやく見つけたのだ。
トウコさんは私の肩をぽんぽんと叩き、大声でシルバーの名前を呼んだ。

あんたのお姫様が泣いているから、胸を貸してあげなさい。
そんなことを言うものだから、恥ずかしさに涙が引っこんでしまった。トウコさん、大声でそんなこと言わないでよと私は彼女を責めた。
それでも駆け寄ってきたシルバーの顔を見て、再び溢れるもので視界が揺れた。
彼は慣れた手つきで私の頬に触れ、相変わらず泣き虫だな、なんて、普段の涙の時には決して言わないようなことを言った。
私の涙の種類まで知ってくれている人がいるのだ。何を怖がることがあったというのだろう。

2014.2.19

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