クディッチの、チェイサー。
その言葉と、飛行術の授業中にする競技が結びつかず、私はホットミルクを布巾で拭く手をピタリと止めた。
シルバーが布巾を取り上げ、代わりに続きを拭いてくれる。私は3回、4回と瞬きをして、ようやくグリーンさんの頼みの内容を理解するに至ったのだ。
「……。」
そして、青ざめた。クディッチの試合に出たいと思ったことがない訳ではない。
寧ろ、憧れていた。あの広いフィールドを飛び回りたいと思っていた。ゴーストのいないその空間に焦がれていた。皆の期待を背負って戦いたいと願っていた。
それらは叶わぬ憧憬で、だからこそ尊いものである筈だった。
欲しいものは手に入れた瞬間にその輝きを失う。舞い込んできた恐れ多いチャンスに私は青ざめるしかなかった。
断る理由を捻り出そうとして、しかしきっとこの先輩を諦めさせることは出来ないのだと直感的に解っていた。
それに私が憧れていたのは、あくまで寮対抗規模での試合だ。
同じ寮の先輩ではなく、他寮のグリーンさんが私を勧誘しに来たその理由を、私ははっきりと理解していた。
それでもどうしても認めたくなくて、私は苦し紛れにとぼけてみせる。
「……私、レイブンクロー生なので、グリーンさんのお手伝いは出来ません。」
「違うって、公式の方だよ!ほら、学校対抗の。」
公式、とは、1年に1回あるクディッチの大会だ。
地方にある魔法学校の代表チームがホグワーツ本校に集まり、学校対抗の試合をする。
院生参加の認められていない寮対抗とは異なり、こちらの代表チームは寮や学生、院生の枠を超えてメンバーが選ばれるのだ。
彼はその代表チームの選手で、あろうことか、それに私を誘おうとしている。
嫌な予感は的中し、私は泣き出しそうな目でシルバーの方を向いた。助けてと視線で懇願した。私はいつからこんな風に甘えることを覚えたのだろう。
そんな自分をとても情けなく感じ、しかし彼がくれたこの距離を甘受しようと覚悟を決めつつあったのだ。
しかし彼も、先輩であるグリーンさんの頼みに横槍を入れられる程の力は持っていないのだ。
ふと気が付くと、私の周りには人だかりが出来ていた。その大半はグリーンさんとレッドさんに集まったものなのだろう。
しかしその群衆は「クディッチ」「チェイサー」「公式」という単語を拾いつつあった。私は断るための手段を完全に失った。
しかしどうしても怖かったのだ。怖くて怖くて堪らなかったのだ。
息を潜めて、目立たないように生きていこうと決めていた私に、ホグワーツ本校の代表選手という恐れ多い肩書きを背負えるだけの精神的余裕はなかった。
「私、寮のチームメンバーですらないんですよ?お力になれないと思います。」
「何だよ、俺の目利きが間違っているっていうのか?」
そして完全に逃げ場を無くした私を、やっぱり誰かが笑っている気がした。
*
放課後、私とシルバーは外に出てきていた。
チコリータとマグマラシは我先にと芝生に駆けていった。
彼のヒノアラシは、2年生に進級して間もなく進化した。自分のことのように喜び、大きくなったマグマラシを抱き締めて笑った日の記憶はまだ新しい。
私のチコリータはまだ進化しない。きっとこれからもしないだろう。進化したら縮小呪文を掛けなければいけないからだ。
それが彼女のストレスになってしまうのではないかと恐れていた。なるべく小さくして連れ歩くのがマナーだと知っていながら、小さくすることはどうしても躊躇われたのだ。
ポケモンはトレーナーの心を読み取る。私の不安定な心に同調するように、チコリータは進化の兆しを見せなくなった。
私に迷いがあるからだと、ポケモンの研究者であるウツギ先生が聞けばそう言って叱るだろう。
「進化しないくらいが丁度良いんじゃないか?ただでさえ馬鹿みたいに強いのに、進化なんかすれば手に負えなくなるぞ。」
シルバーはそんなフォローを入れてくれた。そんな彼の厚意に甘えることを私は覚え始めていた。
そうだね、と笑いながら、チコリータを進化させてあげられないことに申し訳なさを感じていた。
ごめんね、ごめんねと呟きながら、しかし結局何もすることが出来ない。
私は全てに憶病になっていた。彼が引いてくれる手なしには歩けなくなっていた。
一人で歩を進めるには、あの1年はどうしようもなく私を蝕みすぎていたのだ。
「クディッチの練習試合は?」
「……明後日。」
「そうか。」
彼は何も言わない。辛かったら辞めてもいいとか、俺に出来ることがあれば言ってくれとか、そうした類の気休めを決して口に出さない。
彼は全て解っているのだ。2つも年上の先輩からの頼みを断ることが出来ないこと。人の負の感情に敏感な私が、ことを荒立てるような断りの返事を入れられないこと。
あの場で最も穏便に済ませられる選択肢に縋った結果、こうなってしまったこと。
「チコリータのデビュー戦だな。」
「他の先輩達のポケモンは、最終段階まで進化しているの。」
それでも、この場には私と彼しかいなくて、ゴーストのいない外でなら私と彼の世界は共有されて、だからこそ彼は私を此処へ連れ出してくれたのだと、私は知っている。
だから私は弱音を吐いた。堪えていたものを全て吐き出していた。
「私、飛行術でしか箒に乗ったことがないんだよ。長時間の試合なんてしたことがないの。」
「ああ、そうだな。」
「きっと皆、呆れるよね。なんでこんな弱い奴がって、思う人だっているよね。私がチームの足を引っ張っているんだって、きっと影で笑われているんだよね。」
彼はそんな私の戯言を、考えすぎだと一掃することも出来た。それはいくらなんでも被害妄想が過ぎると私を咎めることだって出来た。
それなのに彼はそうしない。全て、許してくれる。許した上で、彼はそれを優しく否定するのだ。
「他の奴等のことなんて俺には解らないが、少なくとも俺はそうは思わない。」
淡々と、あまりにも真実だけを綴る彼は残酷なまでに優しい。
しかしその言葉は信じられたのだ。彼は決して気休めを言わない。だからこそ、綴られる言葉は彼にとっての真実で、だからこそ尊いのだと。
「お前は随分と後ろ向きだが、俺はこういう機会がお前にやって来て良かったと思っている。」
「え……。」
「コトネもそろそろ、周りを見るべきだ。」
そんな彼は、急に難しいことを言った。
周りを見るべき、だなんて、今更だ。私は十分すぎる程に周りを見ている。シルバーには見えないものだって見える。
その視線に過剰なまでに敏感になり、怯えて生きてきた筈だった。それを彼も知っている筈だ。
そんな彼が敢えてそんなことを言う、その理由を、私は正しく理解しなければいけなかった。
しかし、今の盲目な私にはどうしても出来なかったのだ。
「怖いなら、前にも言ったが、俺が手を引いてやる。」
彼はそう言って笑った。
目を開けなければいけない時が、直ぐそこまで来ているのかもしれなかった。
2014.2.18