28

私の新しい生活が始まった。
大勢の視線を、きっと皆が予想しているよりも遥かに多くの視線を避けて生きることに私は成功していた。
廊下が怖くて、いつも走って駆け抜けた。教室の端っこに座り、ひっそりと授業を受けた。
朝一番にシルバーと食堂に入り、夕食は食堂が閉まるギリギリの時間に駆け込んだ。
一日の殆どを彼と過ごし、昼休みや放課後は必ず外に出た。外に出られるゴーストは本当に少なく、それは私を安心させた。

クラスメイトの視線は今でも恐ろしい。しかしそれは私がホグワーツを辞めなければいけないと思う程の恐ろしさではなくなっていた。
「おかしな子」で「狂人」だった私が、とても大人しく、寡黙になった。その変貌振りに皆は少しだけ驚き、不思議がり、笑い、しかしやがて直ぐに忘れていった。
大衆の性質を私は知り始めていた。知るにつれて、恐れることも少しずつ減っていったのだ。私はこの冷たい世界で生きることに慣れ始めていた。

私の姉が借りてきてくれた透明マントを、私は滅多に使っていない。何故ならそれがなくとも、私がゴーストに話し掛けられることはなくなったからだ。
最初こそ、授業の直前で透明マントを脱いだ私に、わらわらとゴースト達が群がる様を想像して、それが起こらない瞬間を奇跡だと信じて疑わなかった。
しかしやがてこちらが隠れずとも近寄られることはないと知り、私はその、不思議で窮屈なマントを姉に返した。

何故そんなことが起こったのか、私には皆目見当も付かなかった。
自分の存在を認知してくれる「私」という存在は、ゴーストにとって願ってもない存在で、だからこそ入学直後は窒息しそうな程に群がられていた筈だった。
ゴーストの視線を感じない。人間の霊感を測る能力を持つ筈のゴーストが、私の存在に気付かない。
そのことが不思議でならなかった。

「もう、透明マントは要らないのか?」

早朝の食堂でパンを食べながら、シルバーはそう尋ねてくれた。
私はそれに肯定の意を示し、申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめんね、折角シルバーがお姉ちゃんに頼んでくれたのに。」

「それは気にしなくていい。」

小さく溜め息を吐いたシルバーは、2つ目のパンを取るために手を伸ばした。
そして、信じられないことを言ったのだ。

「こうなることは解っていたからな。」

私は今まさに口の中に流し込んだホットミルクを戻しそうになった。最悪の事態は免れたが、あまりの驚きにむせて、咳き込んだ。
何だよとシルバーは眉をひそめたが、それはこちらの台詞だと切に言いたい。

「解っていたって、どういうこと?」

「俺が余計な気を回さずとも、ゴーストはお前に気付きはしない。それを解っていたんだ。
だが、不安要素は少しでも少ない方がいいだろう?」

そんな信じられないことを平然と言ってのけた彼に、私はまだその言葉に含まれたものが解らずに詰め寄った。
どういうことなのだろう。どうして彼はそんな予測を立てることが出来たのだろう。

「私の霊感はなくなったの?」

そんな夢のような話があるのだろうか。
生得的な能力である霊感が、こんなに一瞬にして消えるだなんて聞いたことがない。
寧ろ、自然に消滅する能力ではないと知っていたから、私はこの霊感を誤魔化す方法をずっと探していたのだ。

人の霊感を操作する類の魔法を、私は入学したばかりの時に調べていた。
昔の偉い人が考えた、数ページにも渡る膨大な呪文の末に行使できる魔法を、私も使いこなせることができたなら、と夢見た時期もあったのだ。
その魔法が使えれば、ゴーストに悩まされずに済む。もうあの無数の半透明な影を見なくて済むのだ。
しかしそのどれもが「闇の魔術」に分類されるものであることを知り、諦めざるを得なかったのだ。
そうでなくともその魔法は難しすぎた。とてもではないが、1年生の私がどれだけ努力しても習得できるような代物ではなかったのだ。

しかし今、それが私の身に起こっているという。
どうしてだろう。精神の疲弊により霊感が消滅するだなんて聞いたことがない。

「なくなった訳じゃないだろう。現にお前にはゴーストが見えている筈だ。」

ああそうか、と私は納得し、しかし益々訳が解らなくなって頭を抱えた。

「シルバーは知っているのよね?どうして私にこんなことが起きたのか。」

「方法は知らないが、原因の予測は立つ。」

じゃあ教えて、と縋るように身を乗り出して尋ねた私に、彼は困ったように笑って首を振った。
それは出来ない、と本当に申し訳なさそうに紡がれた。とても珍しい彼の拒絶だった。
私は軽くショックを受けたが、何か理由があるのだろうと思い直した。
彼は何の事情もなしに私を不安にさせるような人間ではないのだ。私は彼を信じていた。信じられるようになっていた。

「どうして?」

コトネのお姉さんとの約束だからだ。」

お姉ちゃんとの?と尋ね返そうとして、しかしそれは叶わなかった。誰かが私の肩を勢いよく叩いたからだ。
私は驚いてホットミルクの入ったマグカップをひっくり返した。シルバー以外の人に触れられるのは本当に久しぶりだった。心臓が大きな音を立てていた。

「よう!クリスさんの妹のコトネってのはお前で合ってるか?」

その大きな声に怯んだ。怖い、と思った。そしてそんな自分に呆れた。
私はこんなに憶病な人間だったかしら。こんなに怖がりな人間だったかしら。
騙され続けた1年の記憶はしっかりと私の頭に焼き付いていて、簡単に剥がれてはくれない。あの1年間は私をただひたすらに憶病にした。怖がりにした。
解っていた筈なのに、そのことをどうしようもなく悲しく感じた。
反射的に目を瞑り、全身を強張らせた私に、相手は一瞬怯んだように動きを止めた。

「ああ、悪い。びっくりさせたな。」

私は恐る恐る目を開けて振り返った。
真っ赤なグリフィンドールのネクタイをしたその男性は、確か私よりも2つ上の先輩だ。クディッチやポケモンバトルの大会で優秀な成績を収めている。
同じ学年にいるスリザリンの先輩と、何かと張り合い、勝ち負けを競っているらしい。そんな優秀な彼の噂は、私の耳にも入っていた。確か名前は、

「グリーンさん。」

「おっ、俺の名前を知っているのか!」

陽気に笑い、肩を竦めた彼は、隣にいた緑のネクタイの男性のことも紹介してくれた。
グリーン先輩のライバル、レッドさんだ。深く被った帽子の上から、ピカチュウがひょいと顔を出して挨拶してくれた。

「ボーイフレンドと食事している時に悪いな。ちょっと頼みたいことがあってさ。」

隣に座っているシルバーのことを指していると気付き、私は自分の頬を赤く染めた。
ただでさえ今まで、他人と関わることを極端に避けて生きてきたのだ。違う寮の、ましてや先輩とだなんて上手く話せる筈がない。
こんな風に冷やかされても、どう切り返せばいいのか解らない。
私はただ沈黙するしかなかった。何でもいいから、早く要件を済ませて欲しい。シルバーと二人にさせて欲しい。
姉に透明マントを返してしまったことを悔い始めていた。

グリーンさんはにやりと得意気に笑い、背中に隠し持っていた箒を掲げて笑った。

「クディッチのチェイサーになってくれ!」

2014.2.18

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