「コトネにはホグワーツに通ってほしいよ。」
夏休みも半分が過ぎようとしていた日の夜、ヒビキが唐突にそんなことを言った。リビングに私と彼しかいない、静かな、珍しい時間だった。
母は遠くで働く父の顔を見に、姉はアポロさんのところにそれぞれ出掛けている。シルバーはお風呂に入っている。
この時間を彼は狙っていたのかもしれないと、ふとそんなことを思ったりもした。
「僕はコトネが何に苦しんでいるのかを知らない。ホグワーツはコトネをただ苦しませるだけの場所なのかもしれない。
そんな場所なら、行かないほうがいい。苦しんでいるコトネを見たくないし、コトネが家にいてくれたほうが、僕も嬉しい。
ホグワーツを辞めるって聞いたとき、そんなことを思ったよ。」
冷たいジュースの入ったコップをテーブルの上でくるくると回しながら、ヒビキはゆっくりと、しかし迷いのない声音でそう紡いだ。
私はそれをただ黙って聞いていた。とても珍しい、彼から提示された話題を、最後まで聞いていたいと思ったのだ。
「でもね、お姉ちゃんから聞いたホグワーツは、とてもいいところだって感じたよ。
楽しいことも苦しいこともいっぱいあって、でもホグワーツが好きなんだって、お姉ちゃんは言っていた。」
「……うん、知ってるよ。」
初めて姉がホグワーツから帰ってきた時のことを、私も覚えていた。
目をキラキラと輝かせて、チコリータの葉っぱを撫でながら、もう片方の手には杖を持って、本当に楽しそうにホグワーツでの話を聞かせてくれた。
空を飛ぶ箒のこと、とても分厚い教科書のこと、怖い魔法薬学の先生のこと。動く階段や味が変わる不思議なお菓子。
杖を振って呪文を唱え、テーブルの上に置いてあったクッキーが浮いた時の驚き。得意気に笑った姉に、私はいつになったらホグワーツに行けるのと尋ねたこと。
その全てを覚えている。忘れる筈がない。
「ねえ、コトネには不思議な力があるよね。それがコトネを苦しめているのかな。」
「え……。」
「シルバー君に聞かれたんだ。コトネの霊感は、こっちの世界ではコトネを苦しめるものではなかったのかって。」
私が並大抵ではない霊感を持っていることを、私の家族は勿論知っていた。昔から私は、見えないものの話をして姉やヒビキを困らせることがよくあったのだ。
しかしその数は本当に少ないものだった。こちらでの「霊」はポケモンの形をしていたり、人の形をしていたりと様々だったが、
少なくともそれらは視界を覆う程に存在していた訳ではなかったし、私に話し掛けることも、ちょっかいを出すこともなかった。
あの世界が異質なのだ。ホグワーツはゴーストの巣窟で、彼等は私の憧れていたものを悉く奪っていった。
楽しい授業、広い食堂での賑やかな夕食、様々な地方からやって来た新しい友達。姉から聞いていたその全てを、彼等に奪われていた。
だから私はそれを嫌悪していた。そうすることで自らを守ってもいたのだ。
「ごめんね。」
「!」
「ホグワーツのこと、霊感のこと、僕は何も知らないから。……解ってあげられなくて、ごめんね。」
私は愕然とした。そんな言葉を悲しそうな顔で紡いだヒビキにではない。その言葉に優しさを見出すことが出来た私に驚いたのだ。
ヒビキの霊感は姉ほどではないにせよ、きっと少ないのだろう。私とヒビキの世界は共有されない。故に彼は私を理解することが出来ない。
それなのに、私の世界を解ろうとしてくれることの、その尊さに私はようやく気付くことが出来たのだ。
大事なのは結果である筈だった。そこに至るまでの過程の純度は問題にならない筈だった。
私の世界は共有されない。不変である筈の事実はそこに横たわっているのに、そこに至るまでの彼の思いを私は汲み取ることが出来た。
その誠意を嬉しいと思うことが出来た。私は過程に含まれた人の温度に目を向けることを知り始めていた。
ううん、いいの。ありがとう。そう紡ごうとした口はしかし、次の彼の言葉に再び固まることになる。
「でも、きっとシルバー君なら解るんだろうね。」
そう言った彼の言葉が信じられずに、私は思わず尋ね返していた。
「シルバー、だよ?」
「うん。」
「シルバーはお姉ちゃんと同じくらい霊感がないのよ?」
「でも、ずっとコトネと一緒にいたじゃない。」
さも当然のように返したヒビキに私は狼狽えた。
彼が私の世界を理解できる筈がない。私と彼とでは見ているものが違いすぎるのだから。
それは悲しい、不変の結果で、しかし解ろうとしてくれる彼の誠意を私は知り始めていた。
それだけではない、彼は私の世界を共有してくれた。見えないものでも私を信じることで見えるようになると、魔法のような言葉を紡いで笑ったのだ。
しかしそれを、ヒビキはなんてことのないように断言したのだ。私にはそれが不思議でならなかった。
「一緒にいると、世界を共有出来るようになるの?」
ヒビキは少しだけ考え込み、そして肩を竦めて笑った。
「お互いが相手を大切に思っていたら、それは本当に簡単なことだと思うよ。」
ぽかん、と間の抜けた音がした。シルバーが空のペットボトルでヒビキの頭を叩いたのだ。
「余計なことを言うな」と、お風呂上がりのせいか顔を赤くした彼はそう早口で紡いだ。
ごめんねと謝りながら、ヒビキは本当に嬉しそうに笑ったのだ。
「お姉ちゃんがアポロさんを連れてきてくれた日のことを思い出すなあ。」
今度は私が顔を赤くする番だった。この弟の盛大な勘違いを正すために慌てて口を開いた。
「ちょっと待ってよ、お姉ちゃんとアポロ先生は恋人でしょう?」
するとヒビキはきょとんとした顔で首を傾げた。
何を咎められているのか解らない、という表情に面食らった私は、続ける筈だった言葉をどうしても吐き出すことが出来なかった。
私とシルバーは違うよという、真実であった筈のその言葉が揺らいでいた。更にそれは次のヒビキの一言により粉々に砕け散った。
「違ったの?」
その瞬間、私は帰ってきた日の姉の言葉を思い出していた。
『良かった、コトネに彼がいてくれて。』
あれはそういうことだったのだろうか。姉にとってのアポロ先生のように、私にとってのシルバーをそう捉えていたのだろうか。
途端に恥ずかしくなった私は、近くにあったクッションで顔を隠した。
どうしたの、と笑いながら尋ねるヒビキに、お前が余計なことを言うからだろ、とシルバーが責め立てる。
きっと彼の顔も赤くなっているのだろう。見なくてもその顔色を察することが出来た。つまりはそうした距離に私達はいたのだろう。
ヒビキは笑いながら、声のトーンをやや落とし、予め用意していたかのように流暢に損言葉を紡いだ。
「ねえ、シルバー君。」
「……何だよ。」
「コトネの傍にいてくれてありがとう。」
2014.2.17