久し振りのジョウトはとても静かだった。こんなにも閑静な町だったかしら。
住み慣れていた場所であった筈なのに、そこに足を着けた私がとても場違いに思えて、どうしても安心できなかった。
そんな私よりも、初めての土地に緊張している筈のシルバーの方が、まるで自分の故郷であるかのように私の手を引いて先導してくれた。
おかしい。前を歩いていたのは私であった筈なのに。彼はいつだって私を追い駆けていて、それが、彼が私の傍にいるただ一つの理由であった筈なのに。
不可解なことがありすぎて、いつしか私は考えることを辞めていた。とても疲れていた。このまま眠ってしまいたかった。
出迎えてくれた母と姉は、疲れ果てていた私に苦笑しながら、「長旅、ご苦労様。」と笑って中へと通してくれた。
予定よりも2日遅れて帰って来た私のことを、2人は咎めなかった。シルバーが説明をしてくれていたのだろうか。しかしそれを彼に尋ねる気力すらなかった。
「シルバー君、コトネにはお姉ちゃんだけじゃなくて、双子の弟もいるの。彼の部屋で一緒に寝てもらうことになるんだけど、大丈夫かな?」
「はい、ありがとうございます。」
シルバーは丁寧に受け答えをしていた。
自分の大きな荷物を姉と一緒に荷解きしながら、彼女のマイペースな世間話に付き合っていた。
私はというと、その様子をただ茫然と眺めていた。玄関から一歩も動くことが出来ずに、ただ立ち尽くしていた。
しばらくして、シルバーが私に駆け寄り、そっと私の手を取った。
「どうしたんだよ、お前の家だろう。」
「……。」
彼に手を引かれて初めて、私は動き出すことが出来た。息をするのも恐ろしかったのを覚えている。
全てが一瞬にして私の敵になったあの日の瞬間のことを、私はどうしても忘れられずにいたのだ。
*
私の部屋は2階にある。階段をやっとの思いで登り切り、ドアを開けて、そのまま壁にもたれるようにして座り込んだ。
淡い桜色のカーテン、ベージュのカーペット、落書きだらけの勉強机。私の場所だ。ほかには誰もいない。
それは当たり前のことである筈なのに、何故かとても尊いことのように感じた。
此処には同室の友達もいない。クディッチの練習の為に、朝早くにドタバタと階段を駆け下りる生徒もいない。壁をすり抜けるゴーストもいない。
「……。」
唯一同じなのは、私の鞄の中から顔を覗かせたチコリータの存在だった。
私は鉛のように重い腕を動かして、その小さな身体を抱き上げ、腕に閉じ込めた。
ごめんね、ごめんなさい。本当にごめんね。心の中でそう繰り返していた。
それは何に対しての謝罪だったのだろう。全てのことが不可思議で、そして私を糾弾していた。私を許してくれる人は本当に限られていたのだ。
「コトネ、入るよ?」
ドアの向こうから聞こえた声の主も、そうした「限られた人物」のうちの一人だった。
目の覚めるような水色の髪が肩でふわふわと揺れている。
同じようにふわふわとした笑顔を湛えた彼女は、私の目の前にしゃがんで、そっとその手を私の頭に延べた。
「シルバー君、いい子だね。今もヒビキとお話をしてくれているの。
ヒビキも新しいお友達が出来て、凄く嬉しそう。コトネの顔も見たいって言っているから、また部屋に入ってあげてね。」
「……。」
「良かった、コトネに彼がいてくれて。」
彼女は本当に安心したように笑った。そして私をそっと抱き締めた。
「コトネ、無理しなくていいからね。コトネが落ち着くまで、いつまででも此処にいていいからね。
お母さんもヒビキも、勿論私も、皆、コトネが大好きなのよ。」
あやすように私の頭を撫でながら、もう片方の腕を私の背中に回し、ゆっくりと優しく叩いていた。
お姉ちゃんは優しい。年の離れた彼女のことが私は大好きだった。慕っていたし、尊敬もしていた。
だからこそ、その言葉が意味するものを卑屈にならずに信じられたのだ。……そして、だからこそ悲しかった。
こんなにも優しい人が私を心配してくれているのに、私はそれに応えることが出来そうにないからだ。
「いつか、コトネの話を聞かせてね。大丈夫、ゆっくりでいいから。」
そう言って、彼女は部屋を出て行った。私は泣くことも出来なかった。
恐ろしい程に静かな時間を、私は微動だにせず、フローリングの上でただ茫然と過ごしていた。
何も考えたくなかった。ただひたすらに何もしていなかった。息を続けている自分を妬ましいとさえ思った。生への倦怠感を私は感じ始めていた。
窓の外には抜けるような青空が広がっていた。それが徐々に赤く染まり、次第に光を失っていくのを眺めていた。
瞬きすら重くて出来なかった。乾いた目を拭うための手も動かなかった。
チコリータが心配そうにこちらを見上げてくれるのが解ったが、私はこの尊い命を安心させてあげられる術を持たなかった。
……どれくらいそうしていたのだろう。ドアが控え目にノックされた。
こうしたノックの仕方をする人は私の家にはいない。母や姉は、スキップをするように弾んだノックをする。
案の定、入るぞ、と聞こえてきた声は、ヒビキのそれよりもやや低いテノールだった。
「……何だ、まだ荷解きをしていなかったのか。」
彼は少しだけ驚いたような素振りをみせたが、しかしそれは一瞬だった。私の隣に座り、そして沈黙した。
何か用事があったのかと思っていた私は、その沈黙に狼狽えてしまった。
「どうしたの。」
それは今日、私が発した初めての声だった。
シルバーはその短い問いに一呼吸置いて、そっと私の手を握った。
「何か用がないといけなかったか?」
私は首を振ろうとして、しかしそれは叶わなかった。身体は相変わらず鉛のように重く、どうしても動かせそうになかったのだ。
私の沈黙は彼に伝わっただろうか。不安になった。もどかしいと感じた。しかし彼はただ笑ってくれた。
「そろそろ夕食が出来るらしいが、食べられそうか?」
彼は私の顔を見ることなくそう尋ねた。私はそれに応える代わりに、そっと彼の手を握り返した。
それは本当に柔な力で、ともすれば見過ごしてしまいそうな程であった筈なのに、彼はちゃんと拾い上げてくれた。そして、それが意味するところも理解してくれた。
「よし、行くぞ。」
彼は私の手を引いて、立ち上がらせてくれた。背の高さは同じくらいなのに、力を失った私を軽々と引き上げてくれる彼に少しだけ驚いた。
彼に手を引かれている間は身体が動いた。ダイニングにいる母と姉、そしてヒビキの顔を見ると少しだけ安心できた。
この場所は私を責めないということを、私は少しずつ理解し始めていたのかもしれない。
2014.2.15