私の名前が呼ばれている気がした。
気のせいだろうか。それならどうして私はこんなに焦っているのだろう。
怒られるとでも思っているのかしら。私が死んで怒る人間なんていたかしら。
ああでもきっと彼は泣いてくれるだろうな。そんな確信を抱いて目を開けた私は、飛び込んできた白い天井の端に彼の色を見つけた。
備え付けられた小さな机に、彼は覆い被さるようにして眠っていた。
「……。」
シルバー、と呼ぼうとして、しかしそれは声にならなかった。
声が出ない。あれだけ叫び続ければ当然かとも思ったが、喉の違和感がそれを許さなかった。それは何か恣意的な魔法によって遮られたもののように感じられたからだ。
「シレンシオ」という口塞ぎの呪文を知らなかった私は、その僅かな圧迫感にパニックになった。
掛けられた布団を跳ね除けようとして、しかしそれは叶わなかった。四肢が鉛のように重かったからだ。
何が起きているのだろう。私は自分を取り巻く事象を知ろうとして、しかしそれを尋ねる手段を持たないことに愕然とした。
そうこうしている内に彼が動いた。頭を起こしてこちらを振り向く。その顔には疲労の色が貼り付いていた。
まさか目が合うとは思っていなかったらしく、彼は驚きの表情を見せた。
制服から杖を取り出して、私に向けて一振りする。瞬間、喉元の圧迫感が無くなり、安堵した私はぼろぼろと涙を零した。
彼はこちらにそっと手を差し伸べた。手足の自由が利かない私の代わりに、ぎこちなく目元を拭ってくれたが、私は泣き続けていたためキリがなかった。
「……よかった。」
ぽつりと彼が零した言葉に血の気が引いた。
どうして、どうしてそんなことを言うのだろう。どうして彼はここまで優しいのだろう。
どうやら彼は私になけなしの正気を捨てさせてはくれないらしい。
「シルバー。」
「ん?」
「死にたかった。」
それでも私は最後に足掻いてみせようと思った。忘れた彼女のように気丈で、強情であろうと努めた。
しかし彼は困ったように笑い、肩を竦めた。
「それは悪かったな、俺はお前の自殺を邪魔した訳だ。」
怒鳴られると思っていた。馬鹿なことを言うなと説教されるのだと身構えていた。
「痛いところはないか?……ああ、全身が重く感じるならそれは自業自得だぞ。
お前の怪我を魔法で治すのに、かなり身体に負担を掛けたそうだからな。それでも何事もなく、無事に済んだんだ。先生にお礼を言っておけよ。」
しかし彼は笑った。静かにただ淡々と事実だけを述べた。いつもの会話だ。そのことに私は益々恐れた。
彼は私の正気をしっかりと掴んでいた。簡単に狂気に傾いてしまうなんて許さないと、その銀色の優しい目は私を責めていた。
彼は制服のポケットに手を突っ込み、2枚の紙切れを掲げてみせた。
「明日、ジョウト地方に帰る列車の切符だ。それまでゆっくり休んでおけよ。」
「え……。」
「……どうした、お前の家に招待してくれるんじゃなかったのか?」
違う、確かにそんな約束を交わしたが、しかし違うのだ。
あの時と今では私の下に敷かれた土壌が違うのだ。それを彼は解りきっている筈なのに、認めてくれない。ただひたすらに、私を逸脱したレールから引き抜こうとしている。
それは優しい糾弾だった。私は何も言うことが出来ずに、ただ沈黙を貫いた。
「じゃあ、俺は寮で寝てくる。」
「待って!」
しかし彼の言葉に被せるように叫んでしまった。一度は背中を向けた彼は、ゆっくりと振り返って私の傍に屈んだ。
「……どうした。」
「違う、違うのシルバー、私は……。」
そう吐き出して私は再び声を失った。次ぐ言葉が見つからずに焦った。それでも否定しなければいけなかった。
違う、そうではない。私が望んでいたのはこんな世界ではない。
私は死にたかった。それが全てに見限られた成り損ないの戯言だとしても、それでも自分の命の行方くらい自分で決められると信じていた。
しかしどうやら彼はそれをゆるしてくれないらしい。私の唇にそっと指を当てて、銀色の目がそっと私を覗き込んだ。
全てを見透かされるような目に私は怯えた。……怯えた?私は脳内でその活字に疑問符を投げた。
シルバーが恐ろしい筈がない。そんな感情を私が抱いたことは未だ嘗てなかった。
いつだって私は彼に勝っていた。それがこの関係を続けるための絶対条件であり、だから私は彼に負けることは許されないのだと。
しかし今、この場でのイニシアティヴを握っているのは私ではなかった。それは鉛のように重い四肢がそうさせているのか、それとももっと別の見えない何かのせいだろうか。
そう思って、私は笑った。馬鹿げている。私に見えないものなんてないのに。私が見ずに済むものなど何もないのに。
私の目は世界に侵されていたのだ。
「……俺は、」
しばらくして、彼が徐に口を開いた。
「俺は、今のお前に何も聞こうとは思わないし、責めたり、呆れたりもしない。」
「……。」
「ただ、今は俺の言うことを聞いてくれ。取り敢えず、此処を離れよう。
今のお前に俺の決定を捻じ曲げる力はない。だから今は流されておけ。お前は何も考えるな、ただ俺に付いていればいいんだ。」
それはおおよそ彼らしくない発言だった。彼はそうした、権力をかざしてものをいう人間ではなかった。
そもそも彼が権力を振りかざせる筈がない。いつだって勝っているのは私だった。だからこそ彼は私から離れなかったのではなかったか。
いつか負かしてやると、ただそれだけを思っていたのではなかったか。
しかし、それならあのパーティでの夜のことはどう説明を付ければいいのだろう。
ワカバタウンに遊びにおいでよと言った時の、あの安心したような笑顔はどう理屈付られるのだろう。
何より、私がこんなにも弱り果てて尚、どうして彼は私から離れようとしないのだろう。
彼はどうしてこんなにも優しいのだろう。全てが解らなかった。全てが見える筈の私は盲目だった。そのことに気付かされた。涙は彼が拭ってくれた。
「……借りるぞ。」
彼は私に覆い被された布団の一枚をそっと剥ぎ取り、自分に被せて壁に凭れるようにして座った。
「……なんだ、いないほうがよかったか?」
その言葉に私は慌てた。重たい首をそっと横に振った。彼はほっとしたように微笑んだ。
2013.12.16