15

私は故郷のワカバタウンに帰る為、コガネシティ行きの列車に乗っていた。
コンパートメントにはシルバーも同席している。彼はカントー地方のトキワシティという町に自分の家があるらしい。
12歳にして独り暮らしをしているという彼を、私は半ば強引に私の家に招待することに決めた。幸いにもシルバーは二つ返事で了承してくれた。
「人並みには家事も出来るからこき使ってくれ。」と冗談めいたことを口にしていたが、ひょっとすると彼は私よりも家事の類が上手なのではないか。そんな不安が頭をもたげた。
器用なシルバーならあり得ることだ。私は料理の一つも覚えていない過去の自分を恨んだ。

「いかりまんじゅう、買う?」

「名物なのか?」

列車の中を歩いていた売り子さんを呼び止め、それを二つとお茶を二本注文した。
一つと一本を彼に渡し、懐かしいその味を口に運んだ。
甘いものが好きかどうかを聞くのを忘れていたと思ったが、どうやら彼のお気には召したらしい。一口試しにという風に味わっても、彼の手が止まることはなかった。

「美味しい?」

「悪くない。」

私は列車に揺られながら、彼と過ごす夏休みを思った。
初めの数日はワカバの家で母や弟に学校の報告をして、それからシルバーと旅に出かける予定だった。
ジョウトやカントーには観光名所が沢山ある。二人で話し合った結果、今年はカントー、来年はジョウトを旅することになった。

「カントーにも名物はないの?」

「…ピッピピザ、かな。」

じゃあ、旅の途中で食べに連れて行ってね、と私は笑い、残りのいかりまんじゅうを口に放り込んだ。
列車のアナウンスが響く。ホグワーツからの長旅ももうすぐ終わりを迎えようとしていた。
コガネシティからは、同じ列車に乗っている筈の姉が大きな鳥ポケモンに乗せてくれる。
いつ何処で捕まえたのか定かではないが、彼女はとある伝説ポケモンを連れているのだ。
ジョウト地方ではあまりにも有名なそのポケモンを、彼女は数年前に自分のボールに収めたらしい。
「伝説のポケモンも、私みたいな人間に付き合ってくれるなんて暇なのね。」と彼女は笑っていた。
出る杭が打たれないように密やかに生きてきた彼女が、その柔和な笑顔に似合わないカリスマ性と実力を備えていることに気付いたのはつい最近のことだ。

「ねえ、そういえば、」




そこまで紡いで私は言葉を失った。舌が抜かれたようなショックに愕然とした。
その異変に気付いたシルバーは、怪訝な顔をして私を見つめていたが、やがて手をそっと伸べて私の肩を掴んだ。

「おい、どうしたんだ。」

ゆっくりと瞬きをした。列車は減速を続け、今にも動きを止めようとしている。
コトネ、と私の名前が呼ばれていた。それを他人事のように聞きながら、私の意識は記憶の海を乱暴に掻き分けていた。
探し物がどうしても見つからなかった。どうしても見つけ出さなければいけない筈だった。私は必死になって記憶の海を掻いた。
しかし動かした手も虚しく、水は冷たい温度をもってして私の意識を拒絶した。

その温度はいつか触れた手の温度に似ていた。

コトネ!」

とうとう声を荒げたシルバーと目を合わせる。彼は怪訝な顔をしながら、しかしその銀色の目に心配の色を浮かべていた。
私は声が出なかった。小刻みに首を振った。

「顔が真っ青だぞ、大丈夫か?」

「…え、が。」

ようやく紡いだ私の声は掠れていた。

「あの子の、名前、が…。」

自分の手が冷たくなるのを感じていた。

「シルバー、あの子の名前は?」

「…。」

「ねえ、答えてシルバー。お願い…!」

彼は長い長い沈黙の末に、ゆっくりと首を振った。

私は鞄を持って立ち上がり、コンパートメントを飛び出した。
列車を飛び降りて、階段を駆け上り、別の乗り場に走った。今まさに発車しようとしている、魔法界行きの列車に飛び乗った。
夏休みを魔法界で過ごす人間は、ホグワーツの院生や研究者くらいだ。
ごく稀に魔法界に住居を構えている人間もいるが、基本的にこの時期の魔法界には何の行事も無く、人も集まらない。
故に魔法界に向かおうとする人間もごく少数だった。恐ろしい程に空いている列車に乗り込み、空のコンパートメントの扉を開ける。

崩れ落ちるように席に着いて、私は茫然と窓の外を見遣った。
汽笛の鳴る音が聞こえる。ゆっくりと列車が動き出す。
私を探しているシルバーと目が合ったが、私は手を振ることも合図をすることも出来なかった。
こちらに向けて何かを叫んでいる彼を、背景か何かのようにただ見送っていた。
姉に何の連絡もしないまま来てしまった。そんなことを思いながら、私は窓に額を付けた。

鞄の中で眠っていたチコリータが、不安そうに私を見上げる。
私はその身体に手を伸ばそうとしたが、自分のあまりにも冷たい手に気付き、不自然に宙で腕が止まった。

「…私、おかしくなっちゃったのかもしれない。」

あの子の名前が、思い出せない。

私は気付いていなかったのだ。あまりにも長い間、そうなっていたので、気付かなかったのだ。
つまりは私はいつからおかしくなっていたのだろう?何が正気で、何が狂気めいているというのだろう。そんなことを誰が決めたのだろう。
しかし嫌われたくない。だからそれに縋るしかなかったのだ。だからどうせなら、ずっと、ずっと。

2013.12.12
(ピッピピザは実在しません)

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