マグマ団のアジトは、とても清潔だ。
それはマツブサさんの部屋にある船の模型が、これ以上ないくらいに綺麗に磨かれていることからも推して知るべしというところではあるのだが、
床に頬を押し付けても嫌悪感を抱くことのない程に、このアジトは美しく掃除され、ゴミどころか、埃の一片も見当たらなかった。
そんなマグマ団のアジトで、私は前述したとおり、床に這いつくばっている。夏を迎えたホウエンは驚くほどに暑く、加えてこの床はひんやりとしていて、心地いい。
もういっそこのまま寛いでいようかとも思ったのだが、私の目的が全く達成できていないことに気付き、私はもう一度、張り切って手を自動販売機の下へと差し入れようとした。
「な……、チャイルド!」
しかし、聞き慣れたその声音と、紙のようなものが大量に落ちる音がすぐ傍で聞こえ、私は床に顔をつけたまま、視線をその方向へと向けることとなった。
階段から降りてきたばかりであると思われるその人物は、特徴的な足音を立てて私の方へと駆けてきた。
「何をしているのです!」
「ああ、ホムラさん!こんにちは、今日も暑いですね」
陽気にもそんな挨拶を紡ぎながら、私は彼の目が見開かれていることに少しばかり驚いてしまった。
おまんじゅうのような陽気な笑みを絶やさない彼だが、その目蓋の裏に隠れた瞳はとても鋭利で、凄みがある。
もっとも、私がそのおまんじゅうのような笑顔の中に隠した、射るような冷たい瞳に気付いたのは、つい最近のことなのだけれど。
マツブサさんもカガリさんも、独特な人間性を持っているけれど、それが彼等の本質なのだと信じることは容易かった。
けれどこの人のことは、よく解らない。この人の本質は、その陽気な笑顔の中にあるのか、それとも、見開かれた目の中にあるのか、私は計り兼ねていた。
けれど、だからこそこの人の傍は、他の誰の傍よりも楽しかった。
彼は私の知らない表情を操り、飄々とした態度で子供である私を煙に巻き、そして時にその射るような目で私の心臓を大きく揺らす。
そこに神秘や怪奇めいた不思議な魅力を見出すのは、驚くほどに簡単なことであるように感じられた。つまるところ、私はこの人に会えたことを喜んでいたのだ。
「ちょっと、100円玉をこの機械の下に落としてしまって。なかなか取れなくて、困っていたところだったんです」
「は?100円玉……」
けれど彼は私の言葉にがっくりと肩を落とした。
どうやら彼は、私が怪我、ないしは疲労で床に倒れ伏しているものと思ったらしい。
驚きに書類を取り落とし、慌てて駆け寄ろうとしたところで私がいつもの笑顔をそちらに向けたため、面食らったのだろう。
自動販売機の下に転がってしまった100円を拾うためにこうして床に這いつくばっているのだと、彼は理解し、呆れているのだ。
私は起き上がり、彼が落とした書類を1枚ずつ拾い始めた。
元はといえば私の奇行のせいで落とされた書類だ。私が拾うのは当然のことであるような気がしたのだが、「ありがとうございます」と息をするようにお礼を言われてしまった。
彼も手早く書類を集め、私が差し出した分を受け取り、改めて大きく溜め息を吐いた。
「やれやれ、100円を拾うためにそこまでしますか」
「あれがないと、サイコソーダが買えないんです」
「……まさかとは思いますが、200円しか持っていないのですか?」
「いえ、ちゃんとお札も入っていますよ。でも1万円札を崩すのって、少し勿体ないじゃないですか」
それでも淑女として、床に這いつくばる姿というのは見せるべきではなかったのだろう。
「見なかったことにしましょう」と呆れたように紡いだ彼に、私は少しだけ恥ずかしくなって肩を竦めた。
すると彼は何を思ったのか、書類を脇に鋏んで、服のポケットから財布を取り出したのだ。
「では、このホムラさんが一本奢って差し上げましょう」
私は慌てた。彼にお金を使わせるために、この自動販売機に立ち寄った訳では決してなかったからだ。
財布の中に小銭が200円しか残っていないのを確認した時に、ふと他の自動販売機よりも安く飲み物が売られているこの場所を思い出した。
私が今日、この場所を訪れたのは、たったそれだけのことが理由だったのだ。
サイコソーダを買うついでに、マツブサさんのところにも顔を見せようと思っていた。
カガリさんやホムラさんは最近、とても忙しそうに走り回っていたため、会えるかどうかは解らなかったけれど、会えたらいいと期待してこの場所を訪れていた。
彼との遭遇を願う思いは「明日晴れるといいな」と期待するような、そんなささやかなものに過ぎなかったのだ。
結果として、ホムラさんに会えたことは運がよかったのかもしれないが、決してこのようなことを期待していた訳ではない。
それに一文無しならともかく、私の財布には万札が何枚か入っている。ただ崩すのが勿体ないというだけの理由で、彼にお金を出させるのはあまりにも理不尽だ。
「だ、大丈夫です!私が1万円札を崩せばいいだけの話ですから」
「たった今、万札を崩すのが勿体ないと言っていたではないですか」
そうだけど、貴方にお金を出させるくらいなら、万札を出すことも厭いません。
そう告げようとした言葉を飲み込んだ。それではまるで、ホムラさんの出したお金で買ったジュースを飲めないと言っているようなものだと思ったからだ。
そして、大人である彼の厚意を頑として断り続けることも、マナー違反なのではないかと少しだけ思ってしまった。
「……いいんですか?」
「先程からそう言っているでしょうに。ほら、どれがいいんです?」
「それじゃあ、サイコソーダをお願いします!」
即座に炭酸飲料を答えた私に、彼は苦笑しながらお金を入れてくれた。
暑い夏はサイコソーダに限りますね、と呟けば、海の家に宣伝でも頼まれたのですか?と笑いながら、水滴の付いたサイコソーダの缶を手渡してくれた。
ありがとうございます、とお礼を言い、早速、缶のプルタブを開けて口に流し込んだ。
舌を刺激する炭酸の泡が最高に心地いい。思わず「美味しい!」と零した私に、彼はクスクスと笑いながら「それはよかった」と頷いた。
そしてあろうことか、彼は自分の財布からもう一度、100円玉を2枚取り出し、私と同じサイコソーダのボタンを押したのだ。
「チャイルドがあまりにも美味しそうに飲むので、ホムラさんも飲みたくなってしまいました」
「……炭酸、お好きなんですか?」
「いいえ、初めてです」
……その言葉に嫌な予感がした。炭酸に全く耐性のない人間がいきなり口にするには、このサイコソーダはあまりにも炭酸の泡が強すぎるような気がしたのだ。
案の定、一口含んだその瞬間、彼はカッとその目を見開き、激しく咳き込んでしまった。丸く弧を描いた背中が大きく揺れていて、相当の驚きだったのだろうと推察する。
こんなところでも彼の目を垣間見ることができるらしい。変なところで感動しそうになりながら、鞄からポケットティッシュを取り出して彼に渡した。
「何なのですこれは!この!奇天烈な飲み物は!チャイルド!よくも私を騙してくれましたね!」
「ええ!?私のせいですか?」
いつかを思い出させる地団駄の踏み方をして、彼は怒りを露わにした。
炭酸飲料に憤慨する27歳という図はなかなかにインパクトの強いものではあったのだが、そんな感想も次のホムラさんの言葉で弾け飛んでしまった。
「この飲料は頂けないですねえ!責任をもって貴方、処分しておきなさい」
彼は私の左手にサイコソーダを押し付け、書類を抱え直して廊下を歩いていってしまった。
処分?……ということは即ち、飲んでもいいということだろうか。
200円のサイコソーダを奢ってもらうだけであった筈なのに、いつの間にか400円分の飲み物を貰ってしまったことを申し訳なく思ったが、しかしそれも一瞬だった。
私はそれよりも、もっと大きな事実に気付いてしまったからだ。
唖然とする私に彼は振り返り、先程の咳き込む姿を無かったことにするような、恐ろしく爽やかな笑みで言い放つ。
「……今度来る時には、その自動販売機でホムラさんの分のミックスオレを買ってきなさい。口直しが必要ですからね」
任意に間接キスをすることのできるこの缶を渡したのは、彼の策略だったのだろうか。それとも、ただ単にこの炭酸飲料を一刻も早く手放したかっただけなのだろうか。
それを確かめるために、私は彼の言葉に返事をする前に、左手に持ったサイコソーダに口を付けてみることにした。
すると彼はその目を再び見開き、いつかを思い出させるニヒルな笑みを浮かべてみせた。どうやら、私は彼の策略を見抜くことができたらしい。
「本当に、忌々しいチャイルドですね!」
今度こそ、くるりと踵を返した彼の姿はワープパネルの上に消えていった。
さて、1万円札を何処かで崩さなければ。だってそうしないとミックスオレが買えないのだから。
2015.7.3