※曲と短編企画2、参考BGM「狂花水月」
美しい星が浅瀬に落ち、淡く光を放っていた。
少女はミナモシティの夜を駆けていた。この町に、どうしても会いたい人がいたからだ。
「宇宙旅行」を終えた彼女は、この騒動に関わった全ての人への報告を放り投げて、とある人物の元へ向かっていた。
本当は、すぐにでもトクサネの宇宙センターに行って、隕石が落下する心配はなくなったのだと告げるべきだったのだろう。
あるいは彼女を心配している両親の元へと、足を運ぶべきだったのだろう。
普段の模範的な少女なら間違いなくそうしていた。けれどそれに反して、少女はトクサネシティにもミシロタウンにも向かわなかった。
この美しい海の見える町を、少女はひたすらに駆けていたのだ。
話したいことが、沢山あった。
ねえ、マツブサさん、宇宙はとても不思議で、素敵だったんですよ。
昼間の空はあんなにも明るくて青くて、透き通っている。だからそれと同じ、もしかしたらそれ以上の明るさが宇宙には広がっているものと信じていました。
けれど違った。空の向こうは暗闇で、何処を見ても同じ黒が広がっていました。
地球はそんな中で、とても特別な光を放っているように見えたんです。私達の住んでいるこの星は、とても綺麗なところだったんですよ。
マグマ団が作っていたスーツの耐久性は抜群でした。宇宙から無傷で帰ってきた私がそれを保証します。
グラードンの背中に乗った時も思ったけれど、こんなにも安全で丈夫なスーツを作れる科学力と技術力があるんだから、きっとどんな分野でもマグマ団は活躍できます。
今は新たな指針を組み立てて、団員さん達を統率するのが精一杯なのかもしれないけれど、落ち着いたら、私にも何か手伝わせてくださいね。
16歳の子供だけれど、貴方に負けないくらいの経験を重ねてきているつもりです。だって流石のマツブサさんも、宇宙旅行はしたことがないでしょう?
怖くなかったと言えば、嘘になります。心臓が壊れてしまいそうなくらい、大きく揺れていました。あまりの鼓動に眩暈さえ覚えました。
けれど、それはきっと恐怖からくるものではなかった。寧ろ私は、高揚していました。
私はこのホウエンという地を旅して、世界と言うものを知った気になっていました。
けれど違った。世界には私の知らないこと、見たことのないものが沢山、沢山あるんです。
レックウザの背中に乗って、ホウエン地方から遠ざかっている時に、私は一度だけ後ろを振り向きました。そして、思わず息を飲みました。
ホウエン地方の広い海を越えた先には、もっと沢山の陸が広がっていたからです。
あの場所には一体、どんなポケモンが住んでいるのだろう?どんな人が暮らしているのだろう?
使われている言語はホウエン地方のものと同じかしら、それとも違うのかしら。あの場所はとても暑いのかしら、それとも凍えそうな寒さなのかしら。
想像でしかないそんな思いを巡らせながら、私は宇宙を飛びました。私達の星は美しいままにそこにありました。とても、とても綺麗でした。
ああ、あの景色を、マツブサさんにも見せてあげたかったなあ。
「!」
彼に話すことを考えながら、私は砂浜を駆けていた。そして、ようやく見つけた。
全身をワインレッドに包んだ一人の男性。キーストーンが埋め込まれた眼鏡。手を後ろに組んで、夜の空を静かに見上げていた。
マツブサさん、と私はいつものように彼を呼ぼうとした。けれどその必要はなかった。
砂を蹴って歩を進める私の足音に彼は気付き、振り返ったからだ。彼の息を飲む音は波に掻き消された。そして、駆け寄ってきた。
私は思わず、足を止めてしまった。
それは驚愕だった。マツブサさんが走っているところを、私は初めて見たのだ。
グラードンが目覚め、あの騒動が起きた時も、彼は狼狽えながらも駆け出すことはしなかった。
その歩幅はいつも少しだけ速足ではあったけれど、それでも彼が私のように、アスファルトや地面を蹴って走るようなことは今までただの一度もなかった。
そんな彼が、走っている。私に駆け寄ってきている。
あまりの衝撃に私の足は止まったまま動かなくなった。彼は速度を緩めることなく私の方へと向かって走って来る。
星や月が眩しいとはいえ、今は夜だ。彼の表情は、まだ見えない。
私は何かまずいことをしてしまったのだろうか?
恐怖が私を支配し始めようとしていた。この人には嫌われたくない、と思った。けれどそれは杞憂だった。
彼は私の目の前まで駆け寄って来て、その両手を躊躇いなく私の方へと伸べたのだ。
その時、一瞬だけ確認できたその顔に、驚愕と恐怖と安堵の入り混じった色を見ることは容易かった。私は息を飲んだ。
そして彼は私を、驚く程に強い力で抱き締めた。そのあまりの痛さと苦しさに私は思わず抗議する。
宇宙旅行から無事に帰って来たというのに、何故か私の背骨が骨折の危機に瀕している。これはどういうことだろう。私は驚き、狼狽した。
「い、痛いですマツブサさん!」
「君は知らないのだろう!」
星空をも切り裂く勢いで、彼は私に怒鳴った。
その言葉の意味を理解する間もなく、彼は次の叱責をまくし立てる。
「君は!君は愚かだ!君は何も解っていない!君が単身、宇宙に飛び出していったと知って、私がどれほど恐怖し、君を失うことに怯えたか知らないのだろう!」
「!」
「いつものように駆けて来る足音を聞いて、いつものように笑う姿を見て、私がどれほど、どれほど安心したか、君は知らないのだろう!」
驚く程に大きく、掠れた声音が私の鼓膜を抉った。
その声は僅かに震えていた。彼はまだ私を離してはくれない。
私は間違ったことをしたのだろうか?彼の強すぎる叱責に、私はそんなことを思い始めていた。
正しいことだと信じて全てを行っていた。私しかいないのだと言われて、それならやってみようと、寧ろ前向きな気持ちで挑んだ。
トクサネシティの宇宙センターの人も、ダイゴさんもミクリさんも、ミシロに住む両親だって、私のことを笑顔と言葉で労ってくれる筈だった。
『世界を頼む』と私に告げたマツブサさんだって、私の今回の宇宙旅行を評価してくれるものと信じていた。
けれど、そうではなかった。彼は私を離さない。彼は私を許さない。
私が、悪いのかもしれない。やってみようか、という挑戦の気持ちで臨むには、宇宙旅行というハードルは高すぎたのかもしれない。
私の選択は、この人を恐れさせ、不安にさせるものでしかなかったのかもしれない。
けれど、と私は思う。
もし私が宇宙旅行に出かけなければ、きっと彼にこうして抱き締められることもなかった。彼の本当の思いを聞くこともなかった。また彼に会うこともできなかった。
だからこそ私は、救世主だなんてものになってみようと思い立ったのであって、つまるところ、私はこの背中の痛みと息苦しささえ愛する覚悟ができていたのだ。
そして、そんなこと、きっと彼も解っている。
解っていながら、どうして彼は私を離してくれないのだろう。
こうするしかなかった私を知っていながら、私の行動で世界が守られたことを知っていながら、彼はどうして私を責め続けるのだろう。
その相反する感情に胸が熱くなった。心臓が大きな音を立てて揺れ始めていた。
きっと私は、私が思っていた以上に、この人に想われていたのだ。その相容れない筈の感情は、きっとそれを意味していたのだ。
「……マツブサさん、ありがとう」
だからこそ、「ごめんなさい」という謝罪よりも「ありがとう」という感謝が相応しい形だと、私は知っていた。解っていた。
「大丈夫ですよ、マツブサさん。私はちゃんと帰ってきました」
「当然だ!君に何かあったら、」
「マツブサさんが託してくれた、あのスーツのおかげですよ。
私は遠く離れた宇宙でも、貴方に守られていたんですね。マツブサさんは、あんなに遠いところに居た私を思っていてくれたんですね」
その言葉に、彼はそっと私を抱き締めていた腕を緩めてくれた。私は自由になった手で上を指差した。
あの星が散りばめられている場所に、つい数時間前まで、私はいた。その不思議な事実はとても尊いものであるような気がしたのだ。
彼も私の指を追うようにして夜空を見上げる。暫くの沈黙の後で、彼は小さく溜め息を吐いた。
「よかった。君は此処に居る」
「え……」
「もし君に二度と会えなくなっていたら、私はこの星を見上げるしかなくなっていたのだよ。その孤独と悲しみくらいは推し量ってくれるだろう?」
ようやくいつもの声音で言葉を紡ぎ始めた彼に、私は心から安心した。
それと同時に、あんなにも彼の心を揺らせた私と言う存在が少しだけ信じられなかった。
けれど、私の鼓膜を抉った彼の言葉が、今も耳の奥に残っている。
私は誰かに大切に思われている。それが「彼」であるというだけで、胸が張り裂けそうな程に苦しく、嬉しい。
この人に話したいことが、沢山ある。
次から次へと零れてしまいそうな言葉を飲み込み、私は彼を見上げて、笑ってみせた。
焦らなくてもいい。この人との時間はこれから、飽きる程に長く続くのだから。
夜が更けていく。この闇は宇宙の闇なのだと、私は知っている。先ずは素敵な宇宙旅行の話をしよう。貴方は笑ってくれるかしら。
2015.3.17
くまさん、素敵なBGMのご紹介、ありがとうございました!