エンゲージリング

※ホワイトデー企画
「ウイスキーに窒息」の続きかもしれない

私はとある男性に呼び出されていた。
春の風は少しだけ温かく、私の髪をふわりとさらっていった。雲の隙間から差す日差しはもう、春の陽気と呼んでも差し支えない程の温もりを持っていた。
ラティオスからひょいと飛び降りて、私はミナモシティの町を駆ける。
時間前行動を常としている彼のことだ、きっともう既に着いている。そして寒さに体を震わせながら、笑顔で「来てくれてありがとう」と微笑むに違いないのだ。

春の始まりを告げるこの月の14日に呼び出されるその意味を、私は正しく理解しているつもりだった。
毎日のようにマグマ団のアジトには遊びに行っている筈なのに、彼は敢えてこの場所を指定した。
それはきっと、私がバレンタインの時に「此処に来てください」と彼を呼び出したからなのだろう。
同じ場所を選んでくれた彼の優しさに頬が緩む。足に羽が生えたかのように軽くスキップすらしそうになる。
つまりはそうした距離に私達は居たのだ。まだ名前すらない、ささやかな関係だったのだけれど。それでも変わらない幸福があることを、私も彼も知っていたのだけれど。

「マツブサさん!」

私はいつものように彼の名を呼んだ。春の温かい空気は私の音を彼の耳元に運んでくれる。
振り向いた彼は少しだけ困ったように肩を竦めて微笑んでくれた。何を言うのかはもう解っている。

「まだ時間は来ていないのだから、走って来る必要はなかったのだよ」

ほら、彼はそう言って私の頭をそっと撫でるのだ。
寒がりな彼が、3月とはいえまだ肌寒いこの時期に、この場所で長い時間待っていてくれるというその事実を、私はもう少し重く受け取らなければならないのかもしれなかった。
あと5分、早く家を出ていれば、彼の顔色はもう少しだけよかったかもしれない。
普段から決して健康的な顔色をしている訳ではなかったが、それでもこの寒い風を浴び続け、かなり辛そうにしているのは明白だった。

「ごめんなさい、寒い中、お待たせしてしまって」

「いや、こちらこそ来てくれてありがとう」

私の予想していたのと同じ笑顔で、同じ言葉を紡いでみせる。
彼のことを私はよく知っている。きっと私も彼に同じくらい知られているのだろう。そんなくすぐったい事実だけで私は笑うことができた。
きっと今、この瞬間に笑っていることだって、彼にしてみれば予測の範疇なのかもしれない。外れていれば、しかしそれはそれでいい。

「それに何度も言うようだが、君に過失はない。好んで早めに来ているのは他ならない私だ。君を寒い中、待たせる訳にはいかないだろう?」

「私はいいんです。寒いのも暑いのも平気ですから」

私は左手に握り締めていた赤いマフラーを彼の首に投げつけるようにしてかけた。

「はい、巻いていてください」

「……まさかとは思うが、私に巻くために持って来たのかね?」

「無地の赤いマフラーなら、男性が巻いていても不自然じゃないでしょう?」

本当はワインレッドのマフラーを探していたんですが、どうしても見つけられなくて。
そう告げれば彼は少しだけ驚いたような表情を見せ、しかしいつものように笑って再び私の頭を撫でた。
彼は私のこの行動を、きっと純粋な親切心で為したことだと信じているのだろう。
事実、寒そうな彼にマフラーを貸してあげるという、その行為自体は親切心から起こしたものだ。
けれど、それは理由の全てではない。
私のマフラーを他でもないマツブサさんが巻いてくれているというその事実に、私が小さな幸せを噛み締めているのだと、きっと彼は知らない。

私はそうした邪心を持った人間だった。そして、それでも彼のことが好きだった。
彼を純粋に、それこそおとぎ話の中のお姫様のように無垢な心で愛することなどできそうになかったけれど、それでも私は彼が好きだ。それでいい気がした。
少なくともこれが、私の為せる想いの最上の形なのだ。

「さて、君を呼んだのは他でもない。先月のお返しを渡すためだ」

「いいんですか?」

「いいのかよくないのかということ以前に、受け取ってもらわねば困るのだよ。もう既に買ってしまっているからね」

彼は背中に回していた左手をそっと引き出した。お洒落な立方体の小箱に、金色のリボンが掛けられている。
片手で包めそうなとても小さなそれを、私は思わずじっと見つめてしまった。
まるで婚約指輪みたいだ。そんな夢心地の少女のようなことを思ってしまった。
これで中のチョコが一粒だったなら、完全に婚約指輪をモチーフとしたチョコレートだと私は思考を巡らせる。

「6個入りのウイスキーボンボンのお返しには、少し不釣り合いかもしれないが……」

彼の言う通り、私が彼に贈ったチョコの箱よりもそれはかなり小さかった。
けれどそれ故にその小さな立方体の箱は、不思議な魅力と存在感をもってして彼の手に収まっていた。それこそ、婚約指輪を彷彿とさせるに十分な美しさを持っていたのだ。
当たり前のように手渡されたその箱のリボンを摘まみ、そっと引っ張る。滑らかな生地で作られたそのリボンは、するすると音が聞こえそうな程にさらりと解けてしまった。
そのリボンすらも美しかったが、私は待ちきれずに箱の蓋へと手を掛ける。小さなそれをそっと上に引き上げた。

「わあ……!」

中に入っていたのは、たった一粒のチョコレートだった。
流線型の緩やかなカーブがハートを象っている。一口で食べられそうな大きさでありながら、一口で食べてしまうにはとても勿体ないと感じる。
表面はチョコレートとは思えない程に美しく滑らかで、かつキラキラと輝いている。かなりの上質な材料と技術でテンパリングが施されていることを示していた。
あまりにも上品なその一粒に私は小さく歓声を上げたまま、続く言葉を失ってしまった。
こんなチョコレートは今まで見たことがなかった。これ以上ない程に美しい一粒が、私の手の中に収まっている。その事実を噛み締めるので精一杯だった。

「君の口に合いそうなチョコレートを探していたら、これを見つけたんだ。有名なチョコレート菓子の会社が手掛けたものだから、味は保証できる筈だ」

「あ、ありがとうございます!」

何もそれらしい感想を口にできぬまま、お礼の言葉だけは上擦った声音で紡ぐことができた。
けれど彼は小箱から、そのたった一粒のチョコレートを取り上げてみせたのだ。
どうしたのだろう、と首を傾げそうになったその瞬間、彼はあろうことかそれをそのまま私の口元に持って来たではないか。
私の頬はその一瞬で沸騰したように赤くなった。

その行為にピンと来ない程に私は無知な人間ではなかった。恋に憧れる人間として、それくらいのことは知っていた。
けれどそんなことは、私とは全く異なる世界で繰り広げられることだと思っていたのだ。
確かに私はマツブサさんと素敵な時間を何度も重ねてきたけれど、その時間にも関係にも名前など無くて、それを二人ともが心地良く思っていた筈だった。
けれど、彼がそのチョコレートを私の口元に差し出す、その行為は、私達の名前の無かった筈の関係を遥かに逸脱しているように感じられたのだ。

変なの。まるで恋人みたい。

私は小さく笑いながら、その真っ赤な頬のままに口を開けた。
彼は僅かに微笑んでから、そのチョコレートを私の下唇に触れさせ、そこからそっと舌へと転がせるように軽く押し込んだ。
彼の指はまるで音楽を指揮しているかのように、何の戸惑いもなくすっと私の口から離れていった。

「……」

恐る恐る歯を立てれば、ベリー系の酸味が舌をくすぐった。
何層にもコーティングされたチョコの中には、別の味のチョコが潜んでいて、一回、また一回と咀嚼する度に異なる味が顔を覗かせた。
それでいて、チョコレート自体にはしつこい甘さもなく、舌触りも驚く程に滑らかだ。

こんなにも美味しいチョコレートを私は食べたことがない。それは紛れもない事実だった。
けれど、それは本当に、このチョコレートの類稀ない美味しさによるものだったのだろうか?
火照った私の頭では、それを断言することができなかった。だから私は全てのチョコレートを飲み込んでから、肩を竦めて彼を見上げてみせた。

「マツブサさん、狡いですよ」

「おや、心外だ。何か気に入らないところがあったのかね?」

彼までそんな私の仕草に同調するように肩を竦めるものだから、私は彼に貸したマフラーをくいと引っ張って笑った。
このチョコレートは婚約指輪をモチーフとしたものですか?とか、貴方はどういうつもりでこのチョコレートを選んだのですか?とか、聞きたいことは沢山あった。
けれど、それを直ぐに聞かないでおくことの楽しさを私は知っていた。
疑問の解明など、後からいくらでもできる。だから今はこの余韻に浸っていたかった。私はどうしようもない程に高揚していた。嬉しかったのだ。

「だってこんなことをされたら、どんなチョコレートだって美味しくなるに決まっているじゃないですか」

どんな言葉だって、プロポーズが嬉しいのと同じように。
そう付け足せば、彼の顔が僅かに赤く染まった。君は頭のいい子だな、と小さく呟き、私の頭をやや乱暴に撫でて笑う。

2015.3.14
※ゴディバという会社が2007年に販売していた、冬季限定一粒チョコがモデルです。どう見てもあれは婚約指輪をモチーフにしているとしか思えない。

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